今年はちょうど水曜日の祈祷会がイブなので、
24日の夜にキャンドルサービスをもった。
キャンドルサービスと言っても、
結婚披露宴などで新郎新婦がテーブルをまわって、
キャンドルライトを点けてまわる「サービス」ではない。
「サービス」とは「礼拝」という意味であり、
「キャンドルサービス」は、「燭火礼拝」と訳せるだろう。
つまり、世の光として誕生したイエス・キリストを思い、
ロウソクに火を灯して礼拝を捧げること、それがキャンドルサービスだ。
前日のコンサートのように、たくさんの人が集い、
賑やかなひと時だったというわけではない。
年末年始ということもあり、仕事が忙しくて来れなかったり、
体調を崩されている方も多かった。
例年に以上に、しっとりとしたキャンドルサービスだった。
世界で初めのクリスマスの夜も、
決して華やかで賑やかな時であったというわけではない。
ヨセフとマリヤ、そして羊飼いたちが数人だったのだろう。
ましてやきらびやかなイルミネーションなどもなく、
客間には入ることが出来ず、家畜小屋でのクリスマスだった。
しかしそこには、確かに救い主イエス・キリストがおられた。
羊飼いたちにとっては、それで十分だった。
いや救い主が誕生した、それが全てだった。
そして喜びと賛美が口からあふれでて、
多くの人々に救い主の誕生を知らせて回ったのだ。
(もしかしたら、スキップをしていたかも!?)
御使いの御告げや羊飼いたちのシーンを聖書朗読しては、
共にクリスマスの賛美を捧げたキャンドルサービス。
後半、イザヤ書53章を読み、私の罪のために、
そこまでして下さった主イエス、
罪から救い出すために、魂を注ぎだして下さった主イエス、
そんな救い主イエスを仰いで、「まぶねの中に」を賛美した。
どちらかと言うと、痛みや弱さ、心の傷を癒し、支え、
寄り添って下さる主イエスが強調されることもある。
しかし今年のキャンドルサービスでは、「救い主」を深く思った。
罪から、滅びから救って下さる「救い主」だ。
そして目の前に照らされているロウソクの火を見つめながら、
その火をしっかりと心に写し、救い主イエスを思い、
「恵みの み代の あしたの光 輝けり」と
「きよしこの夜」を賛美した。
講壇の1つのロウソクから1人1人に分かち合われた炎。
普通は、1つものを誰かに分けてあげると、半分になってしまう。
しかし炎は、どんなに分けても減ることはなく、むしろ増えていく。
同じように、まだキリストの光を知らない方々に、
この光を分かち合えば分かち合うほどに、光は増し加わっていく。
最後に、その場におられない方々、家族、
そして地域の方々、職場の方々、
多くの人々のためにともに祈りを捧げた。
24日の夜にキャンドルサービスをもった。
キャンドルサービスと言っても、
結婚披露宴などで新郎新婦がテーブルをまわって、
キャンドルライトを点けてまわる「サービス」ではない。
「サービス」とは「礼拝」という意味であり、
「キャンドルサービス」は、「燭火礼拝」と訳せるだろう。
つまり、世の光として誕生したイエス・キリストを思い、
ロウソクに火を灯して礼拝を捧げること、それがキャンドルサービスだ。
前日のコンサートのように、たくさんの人が集い、
賑やかなひと時だったというわけではない。
年末年始ということもあり、仕事が忙しくて来れなかったり、
体調を崩されている方も多かった。
例年に以上に、しっとりとしたキャンドルサービスだった。
世界で初めのクリスマスの夜も、
決して華やかで賑やかな時であったというわけではない。
ヨセフとマリヤ、そして羊飼いたちが数人だったのだろう。
ましてやきらびやかなイルミネーションなどもなく、
客間には入ることが出来ず、家畜小屋でのクリスマスだった。
しかしそこには、確かに救い主イエス・キリストがおられた。
羊飼いたちにとっては、それで十分だった。
いや救い主が誕生した、それが全てだった。
そして喜びと賛美が口からあふれでて、
多くの人々に救い主の誕生を知らせて回ったのだ。
(もしかしたら、スキップをしていたかも!?)
御使いの御告げや羊飼いたちのシーンを聖書朗読しては、
共にクリスマスの賛美を捧げたキャンドルサービス。
後半、イザヤ書53章を読み、私の罪のために、
そこまでして下さった主イエス、
罪から救い出すために、魂を注ぎだして下さった主イエス、
そんな救い主イエスを仰いで、「まぶねの中に」を賛美した。
どちらかと言うと、痛みや弱さ、心の傷を癒し、支え、
寄り添って下さる主イエスが強調されることもある。
しかし今年のキャンドルサービスでは、「救い主」を深く思った。
罪から、滅びから救って下さる「救い主」だ。
そして目の前に照らされているロウソクの火を見つめながら、
その火をしっかりと心に写し、救い主イエスを思い、
「恵みの み代の あしたの光 輝けり」と
「きよしこの夜」を賛美した。
講壇の1つのロウソクから1人1人に分かち合われた炎。
普通は、1つものを誰かに分けてあげると、半分になってしまう。
しかし炎は、どんなに分けても減ることはなく、むしろ増えていく。
同じように、まだキリストの光を知らない方々に、
この光を分かち合えば分かち合うほどに、光は増し加わっていく。
最後に、その場におられない方々、家族、
そして地域の方々、職場の方々、
多くの人々のためにともに祈りを捧げた。