礼拝メッセージの中心として語ったこと。
「こんな私でも、神様は愛して下さる」、
私たちは神様の愛をそう表現する時がある。
こんな罪深い私、小さな私、何度も同じ失敗をしてしまう私、
そんな私でも、それでも神様は愛してくれる。
確かにそうなのだ。もちろん間違いではない。
しかし神様の愛の本質からは、少しずれていると思う。
「こんな私でも、愛されている」というよりも、
「こんな私だから、愛されている」、
それが神様の愛の中心であり、本質なのだ。
「こんな私でも」と言う時、
神様の愛の中心にいるというよりも、
かろうじて神の愛の領域に踏みとどまっているという感じがする。
しかし「こんな私だから、神様は愛して下さっている」という時、
それは神の愛の領域のど真ん中にいるのだ。
まさしくこの私は、神様の愛の対象、その中心だということだ。
相変わらず同じ失敗を繰り返し、ぐちぐちしている私、
人を愛そうとしても、ついつい裁く心が出てくる私、
またどこかで言い訳を考えている私、
自分の正しさを主張するために人の欠点を探す私、
自己憐憫が出てくる私、
そんな私だからこそ、神様の愛が必要なのだ。
そんな私だからこそ、神様の愛で癒される必要がある。
こんな私でも、神様に愛されているというよりも、
こんな私だから、神様に愛されているのだ。
「でも」から「だから」への移行は、
神様の愛のど真ん中への移行なのだ。
「こんな私でも、神様は愛して下さる」、
私たちは神様の愛をそう表現する時がある。
こんな罪深い私、小さな私、何度も同じ失敗をしてしまう私、
そんな私でも、それでも神様は愛してくれる。
確かにそうなのだ。もちろん間違いではない。
しかし神様の愛の本質からは、少しずれていると思う。
「こんな私でも、愛されている」というよりも、
「こんな私だから、愛されている」、
それが神様の愛の中心であり、本質なのだ。
「こんな私でも」と言う時、
神様の愛の中心にいるというよりも、
かろうじて神の愛の領域に踏みとどまっているという感じがする。
しかし「こんな私だから、神様は愛して下さっている」という時、
それは神の愛の領域のど真ん中にいるのだ。
まさしくこの私は、神様の愛の対象、その中心だということだ。
相変わらず同じ失敗を繰り返し、ぐちぐちしている私、
人を愛そうとしても、ついつい裁く心が出てくる私、
またどこかで言い訳を考えている私、
自分の正しさを主張するために人の欠点を探す私、
自己憐憫が出てくる私、
そんな私だからこそ、神様の愛が必要なのだ。
そんな私だからこそ、神様の愛で癒される必要がある。
こんな私でも、神様に愛されているというよりも、
こんな私だから、神様に愛されているのだ。
「でも」から「だから」への移行は、
神様の愛のど真ん中への移行なのだ。
一生かけて、神の愛の深みを体験していくんだろうなぁ。