紅葉の時期には紅葉を撮る。
しかし、「紅葉を撮る」と言っても、紅葉の写真と言っても色々ある。葉っぱ一枚のどアップ、少し引いて数枚、枝一本分、小さな木一本分、大きな木一本分、周辺の何かと絡めて、あるいは風景写真の点景として、さらには小さな山なら山全体とか、、。
撮影するときに「風景を切り取る」と言うことを意識し過ぎると、画角はどんどん狭くなる。もちろん、その場合、撮り手が何を撮りたかったのか、何に心が動いたのか、という点はわかりやすくなるものの、一方でそこはどこなのか、どういう場所なのか、と言ったことはわかりづらくなる。例えばこんな写真。
空の青と紅葉のオレンジ、黄色とのコントラスト。それはそれとして、まずまず美しくは見える。しかし、ここはどこ?どういう場所?という情報は全くない(ちなみに撮った場所は比叡山延暦寺の根本中堂のそば)。もちろん、写真にそういう情報が必ず必要と言うわけではないので、これはこれでよし、という見方もあると思う。
具体的な情報をバーン!と見せるような写真は、それはそれで「何か間違っている」気がする。しかし、上の写真のように、ここはどこである、情報を完全に排除した写真は、うがった見方をすれば「そういう情報を示唆するものを絡めて、うまく構図を作る作業において、妥協したのではないか?あるいは、その作業から逃げたのではないか?」というとらえ方もできる。と言うか、私自身、そういう感覚を持ってしまう。
上のような写真は全くダメとは思わない。ただ、単なるイメージの写真、あるいは、数枚あるうちの一枚としてであればOKかも知れないけれども、これ一枚で「どうだ!」という写真にはなりえない、と思う。
紅葉と撮ると言っても、紅葉は風景の一部に過ぎないのだ、というところからスタートしないと、どこか消化不良な感じが残る、今日この頃である。
しかし、「紅葉を撮る」と言っても、紅葉の写真と言っても色々ある。葉っぱ一枚のどアップ、少し引いて数枚、枝一本分、小さな木一本分、大きな木一本分、周辺の何かと絡めて、あるいは風景写真の点景として、さらには小さな山なら山全体とか、、。
撮影するときに「風景を切り取る」と言うことを意識し過ぎると、画角はどんどん狭くなる。もちろん、その場合、撮り手が何を撮りたかったのか、何に心が動いたのか、という点はわかりやすくなるものの、一方でそこはどこなのか、どういう場所なのか、と言ったことはわかりづらくなる。例えばこんな写真。
空の青と紅葉のオレンジ、黄色とのコントラスト。それはそれとして、まずまず美しくは見える。しかし、ここはどこ?どういう場所?という情報は全くない(ちなみに撮った場所は比叡山延暦寺の根本中堂のそば)。もちろん、写真にそういう情報が必ず必要と言うわけではないので、これはこれでよし、という見方もあると思う。
具体的な情報をバーン!と見せるような写真は、それはそれで「何か間違っている」気がする。しかし、上の写真のように、ここはどこである、情報を完全に排除した写真は、うがった見方をすれば「そういう情報を示唆するものを絡めて、うまく構図を作る作業において、妥協したのではないか?あるいは、その作業から逃げたのではないか?」というとらえ方もできる。と言うか、私自身、そういう感覚を持ってしまう。
上のような写真は全くダメとは思わない。ただ、単なるイメージの写真、あるいは、数枚あるうちの一枚としてであればOKかも知れないけれども、これ一枚で「どうだ!」という写真にはなりえない、と思う。
紅葉と撮ると言っても、紅葉は風景の一部に過ぎないのだ、というところからスタートしないと、どこか消化不良な感じが残る、今日この頃である。
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