久々に双眼鏡ネタ
まずはこの写真
2つ共同じツァイスのデルトリンテム
一つは160万台の1934年製、もう一つは220万台の1945年製です。
このデルトリンテムは1920年に生産開始、戦前の物はしばらくツァイスの技術師「ハインリッヒ・エルフレ」が考案した2-1-2で尚かつ視野レンズ終端面は浅い曲率の凹面が使われていました。
まだ当時のエルフレは今のように周辺像が良くなく、のちのベルテレが考案されました。
しかし
コーティングが開発される以前の物で、空気接触面が6面もある接眼鏡はすべてにおいてマイナスであり、光線透過率もそうとう低かったと言うことです。
そこで、光学兵器である双眼鏡用に広角で且つ空気接触面の少ない、周辺像の崩れの少ない接眼鏡の研究に着手していました。
そして、それが戦前ツァイスデルトリンテムの接眼部アイレンズの小さい物が目印の「リヒター」レンズを備えた新生デルトリンテムです。
3-1と言う2群4枚で第二面を非球面化することで、広視界且つ良像範囲の広い素晴らしい接眼鏡が出来上がりました。
同時に使用された物で皆さんのあこがれである「デルタレム、デルター」はデルトリンテムに遅れること数年でデビューしたのです。
ここで一つ謎があります。
果たして廉価版であったデルトリンテムに非球面は使うのか?簡素化したすべて球面の改良型リヒターを使ったでは?とか、いやいや、非球面の量産もツァイスなら可能であろう、それにあの視野の広さであの極端に少ない収差は非球面でないと無理だとか・・・マニアにとっても謎の部分であります。
まぁどちらにせよ、デルトリンテムが欲しい人は、この戦前のアイレンズが小さなリヒターを搭載した物をゲットしてください。
他のデルトリンテムより遙かに素晴らしく、双眼鏡の鏡の存在です。
視野はスカッとしていてコーティングが無いお陰で変な着色や色の偏りが少なく、リヒターのお陰で収差は少なく広々で、ノーコートとしては異例の明るさを誇っています。
また、400gと言う軽量なボディも機動性が高いです。
さて、問題の戦後の話しです。
そもそもツァイスは当初イエナに本拠地を置いて研究、開発を進めてきましたが、技術革新にはカメラは不可欠と少し東側(東独と言う意味ではありません)の町ドレスデンにカメラ工場を設立しました。これがIKON社ですね。
しかし、大戦後には東西分断、ドレスデンは旧ソ連領となり、イエナ市と同様西側(アメリカ統治下)にとって、ツァイスの技術がソ連側に流れるのを恐れ、東独領の中に孤立した都市ベルリン(ここだけぽっかりアメリカ領)へ技術者を引きずり込んだと言う歴史があります。
その西側(後の西ドイツ)で従事する事となったツァイス陣営が最初に拠点を置いたのが、ずっと南のハイデンハイムです。
但しここは腰掛け程度で実際は翌年に現在のツァイス中心拠点のあるオーバーコッヘンへ移転しました。
但しここでもカメラ部門を分社化し、東とは別のIKON社をシュトットガルトに設立、後年これが商標権の争いとなり、カールツァイスを東側が名乗れなくなったと言う事があります。
ツァイスなのに名のついていない製品を見かけますが、恐らくこの時代の東独物なんだろうなと思います。
さて、話しを戻して戦後のデルトリンテムは1948年を境にガラッと変わります。
それはソ連側が、それまでイエナで生産していた双眼鏡などの軍需産業を分散させ、イエナ市よりも西に位置するアイスフェルド(Eichsfeld)と言うど田舎に移転させました。
東西統一後、ドクター社売却後の2000年~数年まで、カールツァイスイエナ(カールツァイスとは裁判で負けて名乗れなかった。但し国内向けはOK)ブランドとして作られていました。
つまり、イエナ市で作られた双眼鏡としては、この240万番台初めだけで、以降はアイスフェルド工場生産品であり、真のツァイスフリークとしては・・・などというディープな話しでした。
アイスフェルド時代に入るとDDR表記(ドイツ民主共和国)が入り、マーケティング戦略としてこの時代の物には1Qマーク(ファーストクォリティですが、特に意味はありません。もちろん選別品でもありません。単なるマークです。)が記載されているのが特徴です。
カールツァイス商標権剥奪戦?において東側が負けてカールツァイスを名乗れなくなっても1QマークとJENAは消えませんでした。
後に和解としてカールツァイスイエナとして名乗ることが許され、ドクター売却後もしばらくはCARLZEISSJENAと記載されていましたね。
もっとも1970年以降の東独側双眼鏡はすでにカメラレンズで提携していたヤシカ(富岡を吸収した)、後に買収後京セラ、そしてそれぞれにOEM供給していたシグマ、チノン、リコーetc・・・とツァイスは一体どこで作っているのだ?と悩まされる時代に突入です。
ドクター社もイエナから引き継いで、ライセンス生産として日本製を許可していたのでしょうが、それにしてはゴチャゴチャの気がします。
それは双眼鏡自体にも「質の低下」として虚実に現れ、最後はもう悲惨な状態でしたが、ドクターに引き継がれた本家イエナは、アイスフェルド工場閉鎖を迎えるまで、その品質にこだわってきていたようですが、やはり採算の問題等で質の低下は免れなかったと言う寂しい最後で、それからは二度とCARLZEISSJENAは完全に消え去りました。
と、簡単に書きましたが、
すべては師匠などから聞いた話しのうろ覚えで、忘れないうちに書こうと思っていましたが、メンドかったので遅くなっちゃいました。
間違い等はご指摘頂ければ訂正削除致しますが、なんせうろ覚えですのでご容赦を。
戦前のリヒター搭載デルトリンテム、これだけはマルチコートで再販していただきたい双眼鏡と思いここに記載致しました。
まずはこの写真
2つ共同じツァイスのデルトリンテム
一つは160万台の1934年製、もう一つは220万台の1945年製です。
このデルトリンテムは1920年に生産開始、戦前の物はしばらくツァイスの技術師「ハインリッヒ・エルフレ」が考案した2-1-2で尚かつ視野レンズ終端面は浅い曲率の凹面が使われていました。
まだ当時のエルフレは今のように周辺像が良くなく、のちのベルテレが考案されました。
しかし
コーティングが開発される以前の物で、空気接触面が6面もある接眼鏡はすべてにおいてマイナスであり、光線透過率もそうとう低かったと言うことです。
そこで、光学兵器である双眼鏡用に広角で且つ空気接触面の少ない、周辺像の崩れの少ない接眼鏡の研究に着手していました。
そして、それが戦前ツァイスデルトリンテムの接眼部アイレンズの小さい物が目印の「リヒター」レンズを備えた新生デルトリンテムです。
3-1と言う2群4枚で第二面を非球面化することで、広視界且つ良像範囲の広い素晴らしい接眼鏡が出来上がりました。
同時に使用された物で皆さんのあこがれである「デルタレム、デルター」はデルトリンテムに遅れること数年でデビューしたのです。
ここで一つ謎があります。
果たして廉価版であったデルトリンテムに非球面は使うのか?簡素化したすべて球面の改良型リヒターを使ったでは?とか、いやいや、非球面の量産もツァイスなら可能であろう、それにあの視野の広さであの極端に少ない収差は非球面でないと無理だとか・・・マニアにとっても謎の部分であります。
まぁどちらにせよ、デルトリンテムが欲しい人は、この戦前のアイレンズが小さなリヒターを搭載した物をゲットしてください。
他のデルトリンテムより遙かに素晴らしく、双眼鏡の鏡の存在です。
視野はスカッとしていてコーティングが無いお陰で変な着色や色の偏りが少なく、リヒターのお陰で収差は少なく広々で、ノーコートとしては異例の明るさを誇っています。
また、400gと言う軽量なボディも機動性が高いです。
さて、問題の戦後の話しです。
そもそもツァイスは当初イエナに本拠地を置いて研究、開発を進めてきましたが、技術革新にはカメラは不可欠と少し東側(東独と言う意味ではありません)の町ドレスデンにカメラ工場を設立しました。これがIKON社ですね。
しかし、大戦後には東西分断、ドレスデンは旧ソ連領となり、イエナ市と同様西側(アメリカ統治下)にとって、ツァイスの技術がソ連側に流れるのを恐れ、東独領の中に孤立した都市ベルリン(ここだけぽっかりアメリカ領)へ技術者を引きずり込んだと言う歴史があります。
その西側(後の西ドイツ)で従事する事となったツァイス陣営が最初に拠点を置いたのが、ずっと南のハイデンハイムです。
但しここは腰掛け程度で実際は翌年に現在のツァイス中心拠点のあるオーバーコッヘンへ移転しました。
但しここでもカメラ部門を分社化し、東とは別のIKON社をシュトットガルトに設立、後年これが商標権の争いとなり、カールツァイスを東側が名乗れなくなったと言う事があります。
ツァイスなのに名のついていない製品を見かけますが、恐らくこの時代の東独物なんだろうなと思います。
さて、話しを戻して戦後のデルトリンテムは1948年を境にガラッと変わります。
それはソ連側が、それまでイエナで生産していた双眼鏡などの軍需産業を分散させ、イエナ市よりも西に位置するアイスフェルド(Eichsfeld)と言うど田舎に移転させました。
東西統一後、ドクター社売却後の2000年~数年まで、カールツァイスイエナ(カールツァイスとは裁判で負けて名乗れなかった。但し国内向けはOK)ブランドとして作られていました。
つまり、イエナ市で作られた双眼鏡としては、この240万番台初めだけで、以降はアイスフェルド工場生産品であり、真のツァイスフリークとしては・・・などというディープな話しでした。
アイスフェルド時代に入るとDDR表記(ドイツ民主共和国)が入り、マーケティング戦略としてこの時代の物には1Qマーク(ファーストクォリティですが、特に意味はありません。もちろん選別品でもありません。単なるマークです。)が記載されているのが特徴です。
カールツァイス商標権剥奪戦?において東側が負けてカールツァイスを名乗れなくなっても1QマークとJENAは消えませんでした。
後に和解としてカールツァイスイエナとして名乗ることが許され、ドクター売却後もしばらくはCARLZEISSJENAと記載されていましたね。
もっとも1970年以降の東独側双眼鏡はすでにカメラレンズで提携していたヤシカ(富岡を吸収した)、後に買収後京セラ、そしてそれぞれにOEM供給していたシグマ、チノン、リコーetc・・・とツァイスは一体どこで作っているのだ?と悩まされる時代に突入です。
ドクター社もイエナから引き継いで、ライセンス生産として日本製を許可していたのでしょうが、それにしてはゴチャゴチャの気がします。
それは双眼鏡自体にも「質の低下」として虚実に現れ、最後はもう悲惨な状態でしたが、ドクターに引き継がれた本家イエナは、アイスフェルド工場閉鎖を迎えるまで、その品質にこだわってきていたようですが、やはり採算の問題等で質の低下は免れなかったと言う寂しい最後で、それからは二度とCARLZEISSJENAは完全に消え去りました。
と、簡単に書きましたが、
すべては師匠などから聞いた話しのうろ覚えで、忘れないうちに書こうと思っていましたが、メンドかったので遅くなっちゃいました。
間違い等はご指摘頂ければ訂正削除致しますが、なんせうろ覚えですのでご容赦を。
戦前のリヒター搭載デルトリンテム、これだけはマルチコートで再販していただきたい双眼鏡と思いここに記載致しました。