ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

報告書:中学校時代に受けた直接・間接の、教師による暴力(いわゆる「体罰」と称する行為)について

2018年05月13日 | 研究余話
氏名 川口幸宏(かわぐちゆきひろ)
生年月日 1943年(昭和18年)11月12日
現職 無職
最終学歴 東京教育大学大学院博士課程教育学研究科修了(中退?)(博士号未修得)
最終職歴 学習院大学文学部教育学科教授 現、学習院大学名誉教授

表題にかかわる制度的教育環境
〇1955年4月~1958年3月 公立中学校在学 以下、在学時の詳細情報
中学校名 久居町立久居中学校 (三重県一志郡)*現在は三重県津市立久居中学校
 郡下の「中心校」 教師の意識では「(教師の)エリート校」(「校長双六の上り学校」)
 学校規模については詳細な情報を記憶していないので概略:
 在学時1学級生徒数 50人強(プレハブ経験はない)
 在学年学級数 11クラス 全校生徒数600人ほど。高校進学はこの半数程度。
 校則など文章化された「決まり」があったという記憶がない。「制服」無し。
 「音楽」以外に女教師がいたという記憶が鮮明にはない。「家庭科」「体育」担当の女教師はいたのだろうと推測するが、私の記憶印象には一切残っていない。
 「兼業教員」がいたことは、仏教系宗教者(住職)が英語の教師であり、法事のたびに授業が休みになった記憶と重なる。この先生には中学1年の時にクラス担任をしていただき、英語の授業を持っていただいた。
この教師の「学力」については、肯定的な印象はほとんど持っていない。例えば、彼が授業中に使用する「英語教科書」は、いわゆる教師用書(「赤本」)であり、英語文に平仮名で「ルビ」が書き込まれていた。生徒たちは、その英語教師のことを、「ティーチャー」ならぬ「チーチャー」(英語教師の発音の真似)と呼んでいた。
他の教師も同じようなもので、ほとんどが教師用書に従って授業を行っていた。私の母親が地元の小学校教師であったことから、教科書販売書店から無償で教師用書を入手し、私はそれで授業の「予習をせよ」と(母親から)命じられていたこともあり、各教師がどのような教育方法を取り、どのように生徒を導こうとしているかを、詳細に知りえた、という立ち位置にあった。
 いわゆる祝祭日には「家庭で国旗を掲げるように」という指導は厳しくあり(担任から)、祝祭日登校の日、入学式、運動会、卒業・修業式の日などの「行事」には、「国旗掲揚」「国歌斉唱」が実施された。(教育史教養とは異なる史実ではあります)音楽の時間に「国歌・君が代」の指導を受けた。
 図画工作、技術・家庭、音楽、体育、一部英語以外は、レクチャー一辺倒。板書はあったはずだが一切記憶にない。私自身、上述のように「赤本」が手元にあったため、板書をノートに写す作業に意義を見出せなかったから、もっぱら手遊びをして過ごした。
あとで述べる体罰教師(社会科)は、その日の授業後ただちに「ノート提出」を義務化し、それに点数をつけ(100点満点)、期末の成績に加算していたので、私は対抗策を取らざるを得ず、(その日の授業範囲の)教科書を丸写しして提出した。それでは不可であることを予測していたので、きわめて乱雑な字で筆写。「先生の授業を聞き取って書いた速記なのでこんな字です。」と添え書き。全員の前で、教師から絶賛され、「100点優秀」という評価をいただいていた。ほぼ、毎授業。中学2年次のことだった。
(補足)私の成績と後年聞いた同級生が抱いていた私の印象
 中間、期末の各試験、日常の学習活動をベースに各教科10点満点評価。日常の授業とは違ってどこから降ってくるのかという感じを抱いた試験内容。中2以降の記憶が残っているが、数、国、音楽、体育(ただし器械体操の時のみ)、図工はほぼ毎回10点。10点はクラスに1人。総合点順位では、中学1年次は中位、2年次以降はクラスで4~2番。音楽・図工・体育を除いて、ほとんどがその場限りの丸暗記の試験対策。
 このほかに通知表には記載されない「実力試験」というのが2年次以降年に2回。英数国。出題範囲の告知は一切ない。学年50位までが氏名と成績(得点)で掲示発表された。成績は10位以内。もっとも高位だったのは2位(3年生の時)。学校の勉強は好きではなかったが、自宅でするあれこれの学習もどき行為は怠らなかった(適度にやった。つまり、熱中した、というわけではない)。
☆(余談)10年ほど前に持たれた中学校同学年会に参加した折、ある女子から「川口君はいつも本を読んでいたね。」と言われた。当人には身に覚えのないことなので他の誰かと間違えているのではないかと思ったが、他の出席者(特に女子)もそういう印象が強い、「とにかく、よく勉強していた。」とのことだった。教室内で、男子学生から、激しい暴力的いじめを受けており(中1、中2時代)、それから逃れようと自分の席でじっとしていたことや誰も来ない鉄棒で時を過ごしていた、ということの印象がこのように言わしめたのだろうと思う。

中学校時代に受けた直接・間接の、教師による暴力(いわゆる「体罰」と称する行為)について

 中学校全体が教師の暴力傾向が強かったか、というと、そういう印象はない。ただ、校外での「不良」とみなされる行動(「男女交際」含む)については、厳しい目線と監視下に置かれていた、という実感があった。町立久居中学校は、江戸時代の津・藤堂藩の支藩が置かれていた旧久居地区を中心校区としており、町の賑わいの影響を直接受ける生徒が多かった。もちろん、郊外の農村文化の影響も強い。加えて、自衛隊連隊も置かれており、自衛隊員相手の文化も混在する。もともとが旧陸軍の連隊駐屯地であったことから、そのための享楽文化が街の中心にいくつか残っていた。
 教師からすれば、思春期真っ最中の生徒たちにとっては、どちらかというと不健全文化が生徒たちの心身に強い影響を与えかねない、という文化環境理解でもって、学校ぐるみで向かい合っていた、という印象が強く残っている。わが母もその論理で私に向かっていた。精神的な束縛感が強烈に強かったのが、私、および私たち思春期少年少女の学校生活とそれをコアとした生育・生活環境であったといえる。

<個別(隔離)指導型>
 「男女交際禁止」の具体的指導がどういうものかを知らないうちは、学校を終えて帰宅し自宅付近でぶらついているとき同級生の女子たちから声をかけられ立ち話をすることもないわけではなかったが、それらが「男女交際」にあたるのではないかと、びくびくものであった。そういうことで、私は、日常は女子から逃げていた。
2年生の3月の初め、同級生女子が町を出ることになった、と路上で告げられた。家庭の都合で関東地方のある街で働くことになった、という。「もうこの街ともお別れやから、ちょっと見て回りたいんやけど、川口君、自転車に乗せて回ってくれやんやろか。」と請われた。特に親しくしていた仲ではなかったが、もうこれでお別れかと思うと、ジンと来るものがあり、ええよ、暇やし、回ったるわ、と彼女を乗せて、街中を走った。別れを惜しんで1時間ほどペダルを漕いだ。この行為は、ぼくの意識では「男女交際」にあたるなどと寸部もなかったから、びくびくせず、堂々としたものだった。
翌日、登校するや否や、「チーチャー」から校庭の片隅に呼び出され、いきなりほほを平手で殴られた。往復ピンタ。曰く、昨日の自転車の件。「男女交際禁止」と「自転車の二人乗り禁止」の二つに違反していた、自分だけの胸におさめておくから、今後は絶対しないように、と訓戒をいただいた。「自転車の二人乗り」はともかくとして、「男女7歳にして席を同じうせず」を彷彿させるのが「男女交際禁止」なのだとさえ思わせた経験事である。学校教師のほとんどが、戦前からの教師、軍人上がり教師(戦後直後、男性教員の数が足りないことから、軍隊経験者で特に職を持っていない男性に臨時教員免許を出している)、そして保守的な地域ならではのことだとは思うのだが。
(補足)先に記した同学年会で交わされた会話に、男子たち数人が「よう殴られたな、○○先生に。」「おまえもそうか。おれは××先生と相性があわんだな。」というのがあった。「みんなの見てる前で?」と聞くと、「見てる前ではあんまりなかったな。」とか「職員室でごっつうやられた。」とかの回答が返ってきた。私が直接見ていないだけで、ゴツン、パチン、は常にあったといえるのかもしれない。
<集団の前で>
 教師による暴力の行為対象は、朝の学活であったり、各教科授業であったり、全校集会であったりした。クラブ活動については詳細不明。私が所属したドイツ語クラブ、郷土クラブ、軟式テニスクラブでは一切の体罰はなかった。
学活では、主に、「遅刻」と「宿題忘れ」とがやり玉に挙げられた。時代社会はまだまだ貧困であったし、農家の者がクラスの半数以上を占めていたので、「遅刻」「宿題忘れ」は、常態だったといえる。それは「理由がある」ので教師は強く責めることができない。しかし、指導は必要、ということで、「見せしめ」行為をする。私などはその格好の餌食となった。「遅刻」も「宿題忘れ」も、農家ではない我が家では、「正当な理由がない」とみなされたからだ。
受けた罰は、教室の後ろに立つ、水を張ったバケツを両手に下げて教室の後ろに立つ、同様のことが教室の外(廊下)の窓際でも行わされた。廊下で立つときは、首から「宿題忘れ人間」などと書かれたボードをぶら下げなければならないこともあった。私は一切反論することなく唯々諾々、されるままにしていた。理由を説明すると平手打ちが待っているに違いない、と判断したからだ。
 「宿題忘れ」「遅刻」に関する調査、集計行為は、学級活動として(全校生徒会と連携していたかどうかは不明)、生徒自らが委員あるいは係の立場で行った。集計の結果を、日ごと、週ごと、月ごとにまとめ、教師に報告する一方、月ごとに、統計結果を個人名を添えた棒線グラフにし、教室の掲示板に張り出した。中学生活のほぼいっぱい、私は、とびぬけて背の高い棒グラフを描かれた。
「宿題」については、「教師の授業手抜きの代替行為」という思念に駆られていたから、どれだけ罰されようとも、「宿題」をするつもりはなかったし、その後の学校生活でもその構えで生き続けた。家庭においてぐらい「自学自習」でいたい、との信念でもある。「遅刻」については、いろいろと家庭の事情、都合があった(貧困母子家庭故、自家生産に10歳から参加していた。農作物は学校の時間や都合に合わせては育ってくれない、など)ので、教師をしていた母の出勤後、しておかなければならない家事を優先しただけのこと。
教科の授業では、2年生時の社会科のO先生が強く印象に残っている。この教師は剣道の有段者。常に竹刀を手にし、竹刀で机をたたき、床をたたき、怒鳴り声をあげて授業をする。もちろん、生徒たちからは「怖い先生」で通っている。授業は常に生徒が受け身。復唱が常に求められる。正確に復唱できなければ大声で叱責され、再復唱、それでも正確にできないとなると竹刀が頭上に落ちる。第1回は軽く。次の内容のところでも同じことを求められ、最後に竹刀が落ちる、最初よりやや強め。竹刀で頭を叩く音が聞こえる。
私はその学年(2年次)の間、2回、竹刀のお仕置にあった。赤面、吃音がしばしば出ていた発達段階の時期であったため、O先生のお眼鏡にかなうことはなかったということになる。正直言って、この先生には、たびたび「100点優秀」(前述のこと)をいただいたけれど、憎しみの感情しか残っていない。
ほとんどの授業は、先生がまともに教える姿勢を持っているとは思えないような状況であったけれど、教室内は、授業内エスケープ(手遊び、居眠り、いわゆる「内職」)が常態であった程度で、授業妨害に相当する騒動(立ち歩き、言葉の投げ合い、取っ組み合い、ゲームなど)は起こらなかった。端的に言えば、教壇で教師が淡々と語る(教科書を読む)、生徒たちは聞くふりをして静かに遊んでいる、教師はそれを特段注意することもない、など。
だから、生徒に対してアクションを起こすO先生が特に印象に残っているのかもしれない。
ところで、私にとって、異常を超える光景だ、と映った中学3年秋学期での全校集会のことを挙げておかなければならない。
定例の集会だったのか臨時招集の集会だったのか、定かな記憶はないのだが、記憶内容から言えば、臨時、緊急集会であったのだろう。
講堂に中学3年生全員が集められ、英語のK先生が演卓のところに立っている。K先生は、この学校で一番信頼できる、指導力のある先生だと、私は慕っていた。同じ英語でも「チーチャー」とは根本が違う。それが記憶の第1シーン。講堂内は生徒たちのざわめき。
K先生が「男女交際があった者、手を挙げろっ!」と怒鳴っているのが記憶の第2シーン。日頃の冷徹なまでに理性的に英語を読み解き、語り聞かせ、対話をする先生とはまるで違った人格に思える。講堂内は極めて静寂さを持つ空間に変化。
次のシーンは、舞台に7名の男女生徒が立ち並び、K先生がさらに怒鳴り声をあげる。「これだけじゃない!他にもいるっ!先生は見ていたぞっ!早く、こっちへ来いっ!××、お前のことだ、早く来なさいっ!」 やや経って、講堂中央あたりから、日ごろから何かと「非行傾向を持つ」と噂になっている女子生徒が、演壇に上がって並んだ。K先生が、「ホンマ、図太いやっちゃ」と怒声を投げかけた。
そして、K先生の暴力シーンに移る。一人一人の生徒の前に立ち、それぞれに対して、いつどこどこで異性交遊をしていたと「罪状」を告げ、私のそれまでの人生で見たことも経験したこともないような、強い頬打ち(平手ではあった)がなされ、全員がその場でひどくよろめいた。やっとのことで立っている、という感じを受けた。
先生による「罪状告知」を総合すると、夏休み中のお盆(旧暦)の賑わいの中で、舞台に登らされた男女8人それぞれが、異性と手をつないで「祭」を楽しんでいた、という光景を、地域パトロール中のPTA役員(文字通り、校区保護者と学校教師たちで構成する監視団)が現認した、ということのようだった。異性と手をつないで歩く、などが、犯罪的行為であると認識されていたわけである。

「戦後新教育」と言われる教育事象とはまるで縁のないかのごとき、地区伝統校での生活経験の一部を綴りました。                  (報告終わり)