ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

精神病者に対する療育改革(ビセートル)

2018年05月24日 | 研究余話
イリュストラシオン紙1844年版より

 巨額の金額が3年来ビセートルの第5部局ならびにサルペトリエールにかけられていた;要するに、救済院評議会はまったく資金を出すつもりはなかったわけである。
財布の紐を弛めない施療院の開設、それは困難なことである。にもかかわらず、難題は厳然としてある。ビセートルから3キロメートルのところにありサンテ門の近くの、サンタンヌ農場はかつて1200フランで賃貸しされ、様々な借地人によって、それなりに、うまく開発されていた。しかし、かなり以前から、それらは放置されたままになっている;土地は石材を採掘するためにあらゆるところがめちゃめちゃになっており、耕作に適したものは一ヘクタールとてなかった。建物は荒れ果てており、内部の諸設備はすっかり損ない、覗き窓と門は外枠も風抜きもない;要するに廃墟であった。
 フェリュス(Ferrus)氏は、まず、患者たちの手で土地を平らにすることを勧めた。やがて、およそ5ヘクタールの広さの、塀で囲まれた小さな屋敷の土地が耕作されるようになる。その最初の年(1833年)から、この小さな屋敷は、純益1900フランを救済院にもたらしている。
 この成果によってさらに強く、フェリュス氏は、労働者を農場の建物に住まわせることを要求した。さらに管理上、その建物は住まいとするには困難であること、修理のための資金に欠乏していることを申し立て、建物を回復期にある病人を受け入れる状態にすることを提案した。提案は受け入れられ、最善を期して修復され、入念に清潔にされ、サント・アンヌ農場の建物は、ある程度まで、自身がそこで暮らすのだとみなす新しい住人を迎えた。石工、骨組み、指物細工、金物細工、屋根、ペンキ塗りなどの仕事全部、精神病者によってなされることになっていたからである;管理は、道具や原料の調達、そしてベッドを運び込むこと以外はほとんど援助をしなかった。
 フェルス氏は、この点で、そして力強く、故デスポルト(Desportes)氏による救済院評議会に対して、要求を変わらずに出し続けた。1835年に公刊された、ビセートル施療院ならびにサルペトリエールに関する報告が、我々が詳しく語る諸事実を裏付けている。また我々は、ビセートルの管理者であるマロン(Mallon)氏によるあらゆる改良事業の、見識のある協力に関する証言を聞かなければならない。賢明な管理と哀れな在居者を日々改善することに示した配慮によって、彼は、ピネル(Pinel)によってその名を不朽にならしめられた、ピュザン(Pussin)の立派な後継者としての姿を見せるようになった。さらに、サンタンヌの主任監督であり、農業に対する気配りといい、活動といい、認識といい、それらによって今日の恵まれた状態にあるまで持ってくるのに非常に貢献しているベギン(Beguin)氏の言葉を引用する:地味にすばらしいことをなした謙虚な人たち、また、多くの場合、より重要なことを措置うまくなしてくれた謙虚な人たちは、彼らが科学と人間性の名で求めたこれらの改革に与っていたとして、広く知られてしかるべきである。
 畑仕事が中断されている季節の間、デスポルト氏は、精神病者に仕事を与えるために、救済院のおろしたてのシーツを洗濯させることを、提案した。当局は毎年10000フランをシーツの洗濯のために使った。洗濯場がサンタンヌの塀で囲まれた小さな屋敷内に設けられ、屋敷の近辺はシーツを干すのに役だった;この簡単できちんとした仕事は喜んで精神病者たちによってなされ、当局はすぐに10000フランの年間利益をあげた。後に、衣類やビセートルの毛布を精神病者たちに洗濯をさせるようになる;この仕事領域は、汚くてまったくいやな仕事であるが、できるだけ楽になる薬を与えるべきであると心得た医師によって許可されなくなる。しかし、当局は無視し、ビセートルの衣類の洗濯はつねにサンタンヌで行われた。我々は、その点で、当局が医療指示違反を気にとめていないことを見て取るであろう。