ガタゴトぷすぷす~外道教育学研究日誌

川口幸宏の鶴猫荘日記第2版改題

あわわ・・・奮闘記 レゾンデートルraison d'etreを訊ねて

2018年03月15日 | 研究余話
あわわ・・・奮闘記 レゾンデートルraison d'etreを訊ねて

 フランス語raison d'etreは「存在理由」とか「存在意義」との意味が与えられる。それらは客観的な、相対的な意味内容を示しているが、本来は、強烈な自己存在を主張する哲学的な用語で使われる。絶対的自己肯定の判断基準を示す。主体的リアリズムなのだ。

 清水寛氏が、セガンはその子ども期に、「クラムシーの祖母の家に自室を持っていた」と、氏の最新の論稿(当時)で書いておられた(2004年)。しかしセガン自身が綴っている一文には「クラムシーの」という地名語は入っていない。クラムシーとは、セガン生誕の地。この清水説の検証に乗り出したのが私のセガン生育史研究の第一歩だったといってよい。
 父方の祖父母の代はクーランジュというところであることは判明した。ということは母方がクラムシーの在の人だったのか?地方史研究者、市行政関係者に聞き取りをしたが、けんもほろろ、という表現がぴったり。「あなたの尋ねるセガン家は、父母一代限りの家族。両家祖父母はここの在ではありません。」 あわわわ・・・。 「この地の長い歴史を持った名家である」というのは嘘かいっ!
 セガン関係の研究書やエッセイなどでは、父親の出自については触れているが、母親については何一つ、綴られていない。まるで、我らがセガンさんにはかーちゃんはいなかったのか?と思わずにはいられないほど。長く続く男系社会思想と実践がこんなところにも影響が及んでいるわけだ。それが、男女平等、民主主義を旗頭にして世の女性フアンを講演で嗚咽させる秘術の持ち主、「セガンを研究して40年」氏なのだなあ。
 母親の出自を知ることができたのは、父親の結婚証明書の閲覧ができたこと。これはクラムシーの学芸協会のディレクター氏に資料提供を受けたそのうちの一点だった。 
 セガンの母親の出身はオーセールであることが分かった。たぶん、「祖母の家」は、清水寛氏が根拠無く言うクラムシーではなく、セガン研究史未踏の地オーセールだろう。
 オーセール(ヨンヌ県都)は中世期には、ヨーロッパ各地から遍歴学生が学問を求めて集った古都。その学問の場所はサン=ジェルマン大修道院(現存)及びその近辺。それに由来する寄宿制中等学校も現存する。セガンがそこで学んだということは、2004年の秋訪問調査で明らかにした。「祖母の家」探しの入り口は、この訪問の時に使った手法を利用しよう!この調査でも勤務校からの「研究調査依頼書」を携えていない。
 「オーセール観光協会インフォーメーションセンター」のドアを開ける…。
 窓口のマダム?マドモアゼル?が開口一番、「ここは観光協会よ!」 あわわわ…やっぱり、一発食らった。が、そこは、ぼくにとっては親切なフランス共和国。「オーセール市に関することなら市役所に、それ以外に関することなら県立オーセール古文書館で尋ねてみたらどうですか?ムッシュ!・・・ジャポネ?」
 文字通り、おっとり刀で同古文書館を訪ね、「マルグレット・ユザンヌ」(セガンの母の名)に関する戸籍の有無を尋ねたが、「ムッシュ、ここには記録がありません。お力になれず、残念です。」との検索結果を告げられた。
 やっぱり!なんだけど、とほほほ・・・・
 セガンの「祖母の家」は、果たして、オーセール市にあるのか?その調査が直接の目的だが、この地にあったとすれば、祖母はこの地で亡くなっている可能性がある、オーセール市役所戸籍係を訪問し、調査協力の依頼をすることがベストだろう。
 ところが、そこは、クラムシーとは比べものにならないほど規模の大きい立派な古文書館棟だった。どこが入り口じゃい!おろおろ・・・・。わからず、再度、市役所受付へ。「しょうがないわねー」という雰囲気を見せながら、受付係が、古文書館玄関まで引率してくれた。
 「あなたの調査目的に応じることができる専門家は、今日はお休みだったかしらねえ。日を改める必要があるかもしれませんね。」えっ!戸籍係ではなく「専門家」?「そうよ、博物館学者。マダムね。」ひぇー!。
 どこかの国の大学者清水様―追っかけマダムたちの間では「ぼくちゃん、みっちゅ」との愛称で呼ばれているのだが―は、そんなもの、ちょいちょいとやればわかるよ、というのが口癖だが、調査経験もない人には、そういう言葉が軽く出るんだろうなぁ‥‥。ぶつぶつ…。
 結局、博物館学者マダムはお休みだったが、念のためにご自宅に連絡を取ってくれ、マダムはぼくの調査に協力するとの返事。2時間待ちなさい。はい。いつまでもお待ちします‥‥。パリ虎屋の羊羹を手土産に持ってきて、よかったなー。
 「セガンの祖父母はいつ頃の人か?」「革命期には生存していることは確かめられた。」 このやり取りを受け、マダムは、1790年から10年単位の死亡者インデックス冊子5束(つまり50年分)を閲覧机に置き、「この中で見つかったら死亡届ファイルをお持ちします。この中になかったら、諦めますか?」という。「とりあえず、インデックスファイルを調査します」と返事して、作業に取り掛かった。通訳と作業補助員を同伴していたので、その二人にも、作業の協力をお願いした。
 2時間ほどの作業で、ぼくの調査目的は満たされた。セガンの「祖母」は、間違いなく、オーセールに居を構えていたのだ。清水寛氏のクラムシー説はガセである。死亡届には死亡地が書かれている。現在のオーセール市では失名している住所だが、かつてはブルジョア街を象徴するところであった。もちろん、現在も賑わいを見せる街の中心であり、「祖母の家」の前には、革命期以前から水を出している立派なフォンティーヌ(泉)がある。その一帯を、かつては、フォンティーヌ広場と呼んでいた。
 さらにうれしいことは、その後の文献等の調査を加えたことによって、この現役の「祖母の家」は、フランス革命前の建築になり、ほとんど姿を変えていないということ、つまり、セガンがここで少年期を過ごしていた、ということが分かったことである。