背寒日誌

2019年7月12日より再開。日々感じたこと、観たこと、読んだことなどについて気ままに書いていきます。

「仁義」と「フリック・ストーリー」

2006年01月04日 12時46分14秒 | フランス映画
 正月にアラン・ドロンの映画が見たくなって、70年代初めの映画を4本ビデオで見た。ジャン=ピエール・メルヴィル監督の「仁義」と「リスボン特急」、ジャック・ドレー監督の「ボルサリーノ」と「フリック・ストリー」である。すべてギャング映画で、アラン・ドロンは、「仁義」と「ボルサリーノ」ではギャング役を、「リスボン特急」と「フリック・ストリー」では刑事役を演じている。
 作品の出来から言うと、「リスボン特急」は駄作だった。画面構成が冗長で、ストリーも矛盾しているため、途中から退屈になった。カトリーヌ・ドゥヌーヴがチョイ役で出ていたが、看護婦に変装して、負傷した仲間のギャングを殺すところだけが良かった。
 「ボルサリーノ」は、アラン・ドロンがジャン=ポール・ベルモンドと初共演したことで当時話題になった映画で、私は日比谷映画のロードショーで見たことを覚えている。ベルモンドの方がドロンよりずっと良かったというのがその時の印象だったが、今度も同じように感じた。ドロンは、ベルモンドを意識したためか、格好の付け過ぎで、それが嫌味ったらしく見えてしまった。ドロンはベテラン俳優(たとえばジャン・ギャバン)と共演した方がずっと引き立つと思う。この頃似たようなギャング映画に「明日に向かって撃て」(ポール・ニューマン、ロバート・レッドフォード共演)があったが、こちらの方が素晴らしかった。

 「仁義」は今にして思うと、題名が東映ヤクザ映画(「仁義なき戦い」は後年の作)みたいだが、当時は違和感を覚えなかった。メルヴィルには前作に同じくドロン主演の「サムライ」があり、その流れで「仁義」という邦題を付けたようだ。が、原題は「赤い輪」(Le Cercle Rouge)で、映画の初めに釈迦のことばの引用がある。「赤い輪」とは人間の奇縁を意味するらしい。映画の前半は、出所したばかりのアラン・ドロンと護送中に列車から逃亡した凶悪犯とが偶然出会うまでを描いているが、メルヴィル独特の緊迫感に満ちたシーンが展開していく。後半は、この二人が腕利きの元刑事(イヴ・モンタン)と組んで宝石店に侵入する話である。前後半を通じ、逃げられた凶悪犯を追跡する刑事(ブールヴィル)が登場するが、深夜に帰る自宅のアパートで、彼を待っている三匹の猫にエサをやるシーンが印象的だった。「サムライ」では籠の鳥が出てきたが、孤独な男の描写をするときにメルヴィルは好んでペットを使うようだ。「仁義」はカラー映画なのだが、青い靄のかかったモノトーンに近い。フランスの風景はこうした色調にぴったりで、静寂感が緊張を高めていた。メルヴィルの映画は極端なほどセリフが少なく、絵(画面)で見せるところが特長だが、「リスボン特急」のように退屈を感じることもある。が、「仁義」はこれがうまく成功し、見飽きることがなかった。この映画は、メルヴィル晩年の秀作だと言えるだろう。
 「フリック・ストリー」(Flic Story)を見たのは多分今回が5度目かと思う。私の好きな映画である。70年代のアラン・ドロンが主演した映画では、傑作の一つだと思う。フランス語でフリック(flic)とは、「警官」「刑事」の俗語で、「ポリ公」「デカ」にあたる。アラン・ドロンはフランス国家警察のスーパー刑事役で、極悪非道な凶悪犯役のジャン=ルイ・トランティニアンを捜索し、追い詰めて逮捕する話である。この映画ではアラン・ドロンもいいが、トランティニアンが最高にいい。その冷酷な無表情は鳥肌が立つほど恐ろしく、あの映画「男と女」の主役のトランティニアンとは似ても似つかぬ変貌ぶりなのだ。この凶悪犯、強盗殺人を繰り返すだけでなく、裏切った思った仲間も容赦なく次々と殺してしまう。逃げ足も速く、なかなか捕まえられないのだが、最後にドロンが居場所を突き止める。この田舎のレストランでのラスト・シーンは秀逸である。ドロンの美しい若妻役がクローディーヌ・オージェで、彼女も逮捕に一役買う。オージェと言えば、007のボンド・ガール(「サンダーボール作戦」)で有名だが、「フリック・ストリー」の彼女は紅一点、実に引き立っていた。同僚役の刑事、所長、ギャング仲間みな個性的で、共演者も助演者も適材適所で、ぴったり映画の中にはまっていると感じた。良い映画というのは本来そういうものだろう。最後にドロンが調書を取るためにトランティニアンと面会するシーンが付け加えられるが、これが大変印象的だった。互いに交流がなかった刑事と凶悪犯とが逮捕の後で人間的に結びついて行く。「フリック・ストリー」は何度見ても、見飽きない映画である。


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