キプロスは、面積が9,251平方キロメートル(四国の約半分)、人口は約86.2万人(2011年末時点・南部のキプロス共和国)の小国です。
地中海性気候で、夏は暑く、乾燥しますが、南部のオリンポス山は標高が1951mで、冬は雪も降り、スキーができるのだそうです。
小さな島国ですが、見所満載の観光地です。
9000年に及ぶ長い歴史を誇る、首都レフコシア(ニコシア)。
美しい自然に包まれた、標高1951メートルのオリンパス山を頂点に抱き、その山間には、小さな村や素朴な修道院が点在する、トロードス山。
青い海と白く輝く砂浜のコントラストが美しいリゾートのアギア・ナパ。
そして、ギリシャ神話の愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)伝説発祥の地でかつての首都のパフォスは、貴重な世界遺産が眠る地としても有名です。
最西端アカマス半島ポリス近くにあるアフロディーテの泉はアフロディーテが入浴に使ったという伝説があり、ここで顔を洗うと美しくなるといわれています。
キプロス島は、長さ240km、幅100km。地中海ではシチリア島、サルデーニャ島に次いで3番目に大きい島です。
南部のキプロス共和国はトルコの南の東地中海上に位置するキプロス島の大部分を占める共和制国家、首都はニコシア。EU加盟国、イギリス連邦加盟国でもあります。
キプロス島の一部は、イギリス海外領土のアクロティリおよびデケリアであり、往来は容易であるものの共和国領でありません。
1974年のトルコ軍による軍事侵攻以降,キプロスは南部のキプロス共和国実効支配地域と北部のトルコ軍実効支配地域とに分かれており,島の北部約37%を、国際的にはトルコ共和国のみが承認する「独立国家」であるトルコ系住民による北キプロス・トルコ共和国が占めています。
一方の南部のキプロス共和国は国際連合加盟国193か国のうち、192か国(トルコを除く)が国家承認をしています。
南キプロスは観光業を含むサービス産業に労働人口の62%が従事し、GDPの70%を占める。観光業については、ヨーロッパからの観光地として人気があります。
2004年5月1日の欧州連合 (EU) 加盟、さらに2008年1月1日のユーロの導入により、観光客の増加しているようです。また、別荘地としても有名で、それに伴って不動産投資も盛んに行われています。
金融業については、タックスヘイブンとして有名だった時期もあり、欧州でも金融活動が盛んな地域となっています。ロシアへの投資の際には、キプロスに作った会社を経由して行うケースなど、投資拠点として栄えています。そのせいか、会計士や弁護士などの人材も多いのだそうです。
ただ、ギリシャ債務危機の折にはキプロスの金融・財務も危機的な状況となり、EU及びIMFから約60億ユーロ(7200億円)強の支援を受けました。
一方、北キプロスは、南キプロスに比べて経済的に遅れており、一人あたりGDPは3分の1しかありません。
国際的にはトルコにのみ独立を承認された国家であるために貿易や外国からの資本導入が難しく、また通貨もユーロではなくトルコのリラを用いるため、1990年代にトルコリラのインフレーションに深刻な悪影響を受けた結果、きわめて苦しい状況が続いています。
経済的に苦しい北キプロスではかなりの数のトルコ系住民がトルコやヨーロッパに出稼ぎに移住した一方、トルコから多くのトルコ人が流入したのだそうです。
キプロスは東地中海を往来する諸民族、諸文明の中継地となったため、その歴史は古く、有史から当初はヒッタイト、アッシリアといったオリエント諸国の支配を受けました。
アッシリアの滅亡後暫くは独立状態にあったものの、その後支配者がエジプト王朝、ペルシアのアケメネス朝、エジプトのプトレマイオス朝、ローマ帝国と変遷した後、1191年に十字軍の途上にこの島に立ち寄ったイングランド王リチャード1世によって征服されキプロス王国が建国されたのですが、1489年に相続者を欠いたことから断絶し、ヴェネツィア共和国の支配下に入りました。
その後、オスマン・ヴェネツィア戦争 の結果、1571年にオスマン帝国がヴェネツィアからキプロスを奪い、キプロス州を置きました。
エジプトの植民地化を進めていたイギリスはこの島の戦略的価値に目をつけ、1878年、露土戦争後のベルリン会議でオスマン側に便宜を図った代償にキプロス島の統治権を獲得。 さらに1914年勃発した第一次世界大戦でオスマン帝国がイギリスと敵対すると、同年イギリスは一方的にキプロスを併合したのです。
イギリスは1882年以来、キプロスの植民地化に着手しており、ギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人らを分断した政策を行なったため、ギリシャ系の人々はギリシャと、トルコ系の人々はトルコとの同化を求めていました。
第二次世界大戦後、ギリシャ併合派、トルコ併合派による抗イギリス運動が高まったため、1960年にイギリスから独立し、翌1961年、イギリス連邦加盟します。
しかし1974年にギリシャ併合強硬派によるクーデターをきっかけにトルコ軍が軍事介入して北キプロスを占領し、さらにトルコ占領地域にトルコ系住民の大半、非占領地域にギリシャ系住民の大半が流入して民族的にも南北に分断されてしまいました。
南北キプロスの間では国際連合の仲介により和平交渉が何度も行われ再統合が模索されているが、解決を見ていません。
ギリシャ系とトルコ系は歴史的にキプロス島の全域で混住していましたが、1974年の南北分断の際、北部に住むギリシャ系住民の大半はトルコ軍の支配を嫌って南部に逃れ、南部に住むトルコ系住民の多くが報復を恐れてトルコ軍支配地域に逃れた結果、ギリシャ系のギリシャ正教徒が南キプロスに、トルコ系のムスリム(スンニ派)が北キプロスに住むようになりました。
キプロスではトルコが軍事介入するまで、両者が混在して住んでいました。
南北に分断の遠因はイギリスがギリシャ系キプロス人とトルコ系キプロス人らを分断した政策を行ったことにあるのだと思います。
過酷な植民地支配、その時々の大国の都合による統治、その影響が現在でも様々な国で起こっている紛争の遠因になっているのです。
現在の紛争に至るまで、長い時が経過していますので、民族・宗教・宗派が違う人たちが仲良く暮らすようになるには、長い時が必要かも知れません。
民族・宗教・宗派が違う人たちが仲良く暮らしていた時代はどの地域でも有りました。
中東の紛争も同じだと思います。大国の都合による一時的な解決が、新たな紛争の火種となってはいけないのだと思います。
恒久的な平和は存在しないのだと思います。
1年でも2年でも長く平和が続くためには、民族・宗教・宗派が違う人たちが、心の中に持つわだかまりを少しでも少なくする紛争解決の方法が必要なのでしょう。
難民の子供達が大人になり、家族を持ち子供ができて、その子供達が大人になるまで平穏な日々が続けば、
紛争の事を目の前の出来事ではなく、歴史として学ぶことができるような時代がいつか来る。
そう信じたいと思います。
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