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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その50 リトアニア

2016-06-05 14:32:28 | 日記

リトアニアは、約6.5万平方キロメートル(東北地方ほど)、人口291.6万人(2015年3月:リトアニア統計局)、バルト海東岸に南北に並ぶバルト三国の中で最も南に位置します。

西はバルト海に面し、北はラトビア、東はベラルーシ、南はポーランド、南西はロシアの飛び地カリーニングラード州と国境を接しています。ソ連の構成共和国の一つでしたが、現在はEUの加盟国です。

リトアニアの一人当たりGDPは15,694ドル(2013年:IMF)、国連の分類によれば、平均所得の高い国に位置づけられており、鉄道、空港、4車線の高速道路などの近代的なインフラが整備されています。

しかしそれでも一人当たりGDPはEU加盟27か国平均の半分ほどで、2004年のEU加盟時には所得の高い国への移住が増加したそうです。

首都のヴィリニュスは東ヨーロッパで最も古い旧市街の一つとして、世界遺産に登録されています。

そのほか中世のゴシック建築が数多く残っている第二の都市カウナスは、第二次世界大戦前に日本領事館があり、杉原千畝が「命のビザ」を発給した地です。

もうひとつの世界遺産であるクルシュー砂州は、バルト海とクルシュー・ラグーンを隔てる全長98 km の細長く湾曲した砂州です。

2000年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのですが、観光客の増大による海洋と海岸線の汚染やロシア側の油田の採掘基地石油漏れによる汚染の懸念が問題となっているようです。

「リトアニア」の国名が歴史的な文書に最初に登場するのは1009年です。

リトアニアの宗教は現在ローマ・カトリックが大勢を占めるのですが、元々は独自の多神教信仰を持っており、東西のはざまに位置していたため様々な文化や宗教が入り混ざっていたそうです。

リトアニアは建国以来、ドイツ騎士団等西方からの攻撃を受けていた一方、他方で東方へと勢力を伸ばしていき、14世紀末にはベラルーシ全域、ウクライナ全域、ポーランドの一部、ロシアの一部を領土とする、ヨーロッパ最大の国家となりました。

ヴィリニュス、カウナスはその頃の栄光を今に残す遺産なのでしょう。

1569年、ポーランド王国とのあいだに制度的同君連合であるルブリン合同が成立し、ポーランド・リトアニア共和国が誕生しヨーロッパの歴史上最大の国家となったのもつかの間、

1655年から1661年の北方戦争において、リトアニアの領土や経済はスウェーデン軍によって破壊されます。

領土や経済が復興途中であった1700年 から1721年にスウェーデンと反スウェーデン同盟(北方同盟)が争った大北方戦争が起こり、リトアニアは再び荒廃します。

リトアニアはこの時期、戦争、疫病、飢餓によって人口の約4割を失うこととなったそうです。

スウェーデンが敗退した後、ポーランド・リトアニア共和国はロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア大公国に分割されてしまいます。

リトアニアは第一次世界大戦後の1918年、リトアニア共和国として、ロシア帝国より独立したのですが、1940年にソビエト連邦から、翌1941年にナチス・ドイツからも侵略されました。その後、ソ連の構成共和国の一つとなり、ソ連の崩壊により1990年、独立を回復しました。

戦乱により人口の約4割を失い、ロシア帝国、ドイツ、ソ連と支配者が代わって行ったリトアニアは1868年から1914年までのあいだに、約635,000人、人口のおよそ20%がリトアニアを離れたそうです。

第二次世界大戦中、ドイツ軍侵攻に伴い隣国ポーランドから迫害を逃れて流入してきた大量のユダヤ人に対し、当時在カウナス日本領事館に領事代理として赴任していた杉原千畝は、本国外務省の意向に反し、ユダヤ人に対して日本通過を可能とした査証(ビザ)及び渡航証明書を発給して欧州からの脱出を支援しました。

その間発行されたビザの枚数は、番号が付され記録されているものだけでも2,139枚にのぼったそうです。

「命のビザ」を得たユダヤ人は、次々に極東に押し寄せる難民に困惑した外務省によりウラジオストクで足止めされます。

この事態にウラジオストク総領事代理・根井三郎は「一度杉原領事が発行したビザを無効にする理由がない」と抗議し、本来漁業関係者にしか出せない日本行きの乗船許可証を発給しました。

杉原千畝と根井三郎は2人ともハルビン学院の卒業生でした。

後藤新平が制定した同校のモットーは、「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」というものであったそうです。

この辺りの経緯は2015年の唐沢寿明主演の映画『杉原千畝 スギハラチウネ』を見て、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。

なお、千畝同様に上司や本国の命令を無視して「命のビザ」を発行した外交官として、在オーストリア・中華民国領事の何鳳山や、在ボルドー・ポルトガル領事のアリスティデス・デ・ソウザ・メンデスがおり、ともに「諸国民の中の正義の人」に認定されています。

「諸国民の中の正義の人」とは、ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅、すなわちホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表す称号で「正義の異邦人」とも呼ばれており、22,211人(2008年現在)認定されていますが、日本人としては杉原千畝ただ一人です。因みにリトアニア人は761人が認定されています。

現在ではイスラエル最高裁判所判事の一人が長を務める委員会が「諸国民の中の正義の人」の名誉ある称号を授与する責務を負っているそうです。

また、1991年(平成3年)9月、杉原の功績を讚えるため、首都ヴィリニュスにある通りの一つが「スギハラ通り」と命名されました。

杉原千畝のビザで命救われたユダヤ人とその子孫の中には、現在イスラエルに住んでいる人も多いようです。

ヨーロッパで迫害を受けたユダヤ人が、パレスチナの地でムスリム教徒から土地を奪う、

それは、レコンキスタによりイスラム教徒に占領されたイベリア半島をキリスト教徒の手に奪回したスペインが、インカ帝国を侵略し財宝を略奪した歴史と重なる気がします。

どちらも、迫害、支配された過去を忘れたわけではなく、迫害、支配された過去は伝えられ、教えられており、その上での行為だったのだと思います。

人は忌まわしい過去を振り切るため、攻撃的になるのかも知れません。

でも、ハルビン学院で「人のお世話にならぬよう、人のお世話をするよう、そして報いを求めぬよう」と教えを受けた杉原千畝と根井三郎は、外務省本省の指令に背き、ユダヤ人を救いました。

本当の教育というのはそういうものかも知れません。

ノブレス・オブリージュ(高貴さは(義務を)強制する)という言葉は、本来、王族、貴族に対して使われた言葉ですが、最近では、主に富裕層、有名人、権力者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられています。

ハルビン学院の教えは、当時日本に根付いていなかったノブレス・オブリージュということだったのだと思います。

日本は150人のシリア難民を留学生として受け入れるそうです。たった150人かと思う方もいるでしょう。

でも、留学生たちがヒロシマ・ナガサキを経て焼け野原になった日本が経済大国となったこと、

震災で瓦礫の山となった東北の震災地が復興しつつあること、

それを実際に見て、祖国に帰った後子供たちに伝えてもらえたらと思います。

その話を聞いた子供達が、いつかはこの地を元通りの居心地の良い地にしようと思ってくれたら、

素敵だと思います。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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