オランダは、41,864平方キロメートル(九州とほぼ同じ)、人口は1,697万人(2015年12月 オランダ中央統計局)ヨーロッパ北西部に位置し、東はドイツ、南はベルギーと国境を接し、北と西は北海に面しています。
立憲君主制国家でオランダ王室とわが国の皇室は親密に交流しています。
ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれており、カリブ海に海外特別自治体としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)があります。
日本ではチューリップ、風車などが有名ですが、世界第9位の天然ガス産出量を誇る資源産出国でもあります。
オランダはライン川下流の低湿地帯に位置し、国土の多くをポルダーと呼ばれる干拓地が占めており、国土の1/4は海面下に位置するのだそうです。
因みに、ヨーロッパの玄関口の一つであるスキポール空港も海面下に位置しています。
宗教は、キリスト教(カトリック24.4%、プロテスタント15.8%)、イスラム教(4.9%)、ヒンズー教(0.6%)、仏教(0.5%)、無宗教・その他(53.8%)(2014年 オランダ中央統計局)で、ヨーロッパの国にしてはキリスト教徒が少ない印象です。
無宗教・その他(53.8%)というのは意外かも知れません。
憲法上の首都はアムステルダムですが、王宮、国会、中央官庁、各国の大使館などはデン・ハーグにあり、事実上の首都となっています。ロッテルダムに有るロッテルダム港(ユーロポート)はライン川の河口にあり欧州最大の港です。
また、ユトレヒトは、ミッフィーの作者であるディック ブルーナの出身地です。そのため、ミッフィー博物館があったり、世界で一つしかないミッフィーの信号機があったりと、ミッフィー好きにはたまらないスポットがあちこちにあります。
日本とオランダは4世紀に渡る長い交流の歴史があり、江戸時代の鎖国下、欧州諸国で唯一外交関係を維持した国です。当時オランダを通じてもたらされた学問・技術は蘭学と呼ばれ、後の開国・明治維新に向けての下地を準備、形成することになりました。
因みに、鎖国時に幕府が直接交流を持っていたのがオランダと中国(明朝・清朝)ですが、他に対馬藩が朝鮮王朝と、薩摩藩が琉球王朝と交流を許されていました。また、松前藩は北方貿易を許されていたそうです。
ただ、オランダと言っても直接交易していたのは国としてのオランダでは無く、「オランダ東インド会社」でした。
東インド会社は、アジア地域との貿易独占権を与えられた特許会社です。各国の植民地支配の尖兵でもありました。「インド」とはヨーロッパ、地中海沿岸地方以外の地域を指し、同様の特許会社に南北アメリカとの交易を行った西インド会社があります。
イギリス・フランス等各国ごとに設立され、オランダ東インド会社は世界初の株式会社としても有名です。
オランダ東インド会社は1602年3月20日にオランダで設立され、会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられており、アジアでの交易や植民に従事し一大海上帝国を築きました。
本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワや長崎出島などに置かれましたが、18世紀末の1799年12月31日にオランダ政府により解散させられました。
設立当初はインドネシアにおける香辛料貿易を目的とし、マラッカを拠点とするポルトガルや各地のイスラム諸王国と戦いました。
1619年には、ジャワ島西部のジャカルタにバタヴィア城を築いてアジアにおける会社の本拠地とします。
日本やタイとの交易も手がけ、中国に拠点をもつことは認められませんでしたが、当時無主の地であった台湾を占拠し、対中貿易の拠点としました。
南アジアでは主としてセイロン島(現在のスリランカ)のポルトガル人を追い払い島を支配します。
日本ではカトリックとスペイン・ポルトガルのつながりに警戒感を強めていた江戸幕府に取り入りポルトガルの追い落としに成功、鎖国下の日本で欧州諸国として唯一、長崎出島での交易を認められました。
ポルトガルの追い落とした背景には、スペイン・ポルトガルでユダヤ人は改宗が強制され、異端審問などでひどい扱いを受けており、そこから追放されたユダヤ人はアムステルダムなど各地に散在し、そのユダヤ人が東インド会社設立に深く関係していたからという説も有ります。
また、イギリス東インド会社やフランス東インド会社もオランダとの競合に勝てず、東アジアや東南アジアから撤退して、インド経営に専念することになります。
オランダ本国は、オランダ東インド会社が17世紀の成功によって黄金時代を迎えていた一方で、衰微の兆しが訪れていました。
17世紀半ばの3次にわたる英蘭戦争や絶対主義フランス王国との戦争で国力を消耗します。
1795年にはフランス革命軍により本国を占領され、この混乱のなかで1799年12月31日、オランダ東インド会社は解散、海外植民地はフランスと対抗するイギリスに接収されました。
ナポレオン戦争後、オランダは無事にイギリスから返還された東インドの領域経営(インドネシア)に主として専念することになります。
因みに、当時出島のオランダ商館にいたヘンドリック・ドゥーフなどが、祖国のネーデルラント連邦共和国(オランダ)がフランスに滅ぼされたために、一種の難民の状態となって日本に取り残されました。
ドゥーフは、就任前の1797年からすでに長崎の出島でスタートしていた日米貿易を1808年まで引き継ぎました。この日米貿易は、米国船が入港する際、オランダ国旗を立てさせてオランダ船に見えるよう偽装させて行われたものだったそうです。
増え続ける戦争地域からの難民は、現在欧州各国が抱える最大の問題となっています。
これまでドイツをはじめスエーデンそしてオランダなどが積極的に難民を受け入れてきましたが、今年に入りシェンゲン協定を無視し各国で国境警備を行うなど、難民の入国制限が実施されるようになってきました。
今年1月1日からEU議長国となったオランダは、この難民危機解決に関する提案をまとめました。
トルコからエーゲ海を渡りギリシアに上陸する難民は、即刻トルコへ強制送還するというもので、その代わりにトルコに在留する難民のうち年間15万人から20万人を合法的に欧州に受け入れというものです。
トルコでの難民受け入れ体制を強化するよう欧州が財政援助をし、その後トルコから合法的に難民を欧州各国に受け入れるということです。
欧州にとってぎりぎりの選択なのでしょう。
オランダは、他国で思想・信条を理由として迫害された人々を受け入れることで繁栄してきたという自負があるため、何ごとに対しても寛容であることが国民性なのだといいます。
オランダ東インド会社以来の伝統なのかも知れません。
ポルトガルが統治したカトリック国として近年インドネシアからの独立を果たした東ティモールとは異なり、東インド会社によるインドネシア統治に際してもキリスト教ではなくイスラム教の普及をむしろ領地拡大のテコとして利用した程です。
オランダでも難民受け入れの反対デモが起きています。
しかし参加者の内訳を見ると地元民は意外に少なく、全国各地に出張して反対行動を起こす人々が多いとも聞きます。
賛成する人は声が小さいのに対し、反対する人は声が大きい、そういうことなのだと思います。
オランダに限らず、日本を含めた他の国でも同じ状況なのかも知れません。
また、難民受け入れに限った話でもないのでしょう。
声が大きい人の言葉が、難民の子供達にも届いているのだと思います。
でも、声の小さい人の言葉が、少しでも難民の子供達に届けばと思います。
「あなたのことを心配していますよ。」って、
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