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ISIS chanとISIL kun(ムスリムの子供達)その55キルギス

2016-08-14 17:50:58 | 日記

キルギスは、19万8,500平方キロメートル(日本の約2分の1)、人口590万人(2015年:国連人口基金)、首都はビシュケクでカザフスタン、中華人民共和国、タジキスタン、ウズベキスタンと国境を接しています。

といっても、中央アジアの国々については余りなじみがない方が多いと思います。

シルクロードを中国方面から西に向かい、天山山脈を越えた先の国と言えばイメージできるでしょうか。

敦煌で南北に分かれた「シルクロード」はカシュガルで合流後、再び南北に分かれ、南の道はタジキスタンに向いますが、北の道はキルギスの南部を通過します。

隣国のカザフスタンや中国とは異なり、国内に砂漠は存在せず、この地方の中では気候に恵まれています。天山山脈の100km南方に位置する中国新疆ウイグル自治区のカシュガルの年降水量は60mmですが、ビシュケクの降水量は450mmに達します。

厳しいシルクロードの道の途中にある、まさにオアシスのような地域だったのでしょう。

旧ソビエト連邦の共和制国家でしたが、1990年12月15日キルギスタン共和国」に改名、国家主権宣言をし、1991年8月31日独立宣言をしました。1993年5月に国名を「キルギス共和国」に変更しています。

主な民族はキルギス系(72.6%)、ウズベク系(14.5%)、ロシア系(6.4%)、宗教は主としてイスラム教スンニ派(75%)、ロシア正教(20%)、その他(5%)となっています。

主な産業は農業・畜産業(GDPの約3割)、鉱業(金採掘)、一人当たりGDPは1,197.7ドル(2015年:IMF推計)決して豊かな国ではありません。

ソ連から独立後は、観光産業に早くから注力しています。旧ソ連邦でも先駆けてヨーロッパや日本からの観光目的の入国に際し、査証不要を打ち出しました。

主な観光地は、

海を見るかのような広い湖で、水の透明度は抜群で深さも668mと世界第二位のイシク・クル湖(イシク・クル州)、

標高3100mにあり、周囲は360度草原、家畜が放牧され、キルギスの美しい自然を満喫することがでるソンクル湖(ナリン州)

シルクロード:長安-天山回廊の交易路網の一角であるブラナの塔とバラサグン遺跡(キルギス北部・トクマク近郊)

イスラーム伝播以前からの伝統的な信仰にとっても、ムスリムにとっても重要な巡礼地でいまなお地元のムスリムたちの崇拝の対象となっている世界遺産の山、スライマン=トー

といったところですが、

まるで上高地のようなアラ・アルチャ自然公園(ビシュケク市近郊)、秘境の温泉アルティンアラシャン(カラコル)もお勧めだそうです。

また、オシュバザール(ビシュケク)はキルギスで1番大きな市場で、首都ビシュケクでは名所となっているそうです。バザールを見ながら、昔のシルクロードに思いを馳せるのも素敵だと思います。

因みにキルギスは、親日な人達が多い国です。日本に対する関心が非常に高く、日本語教育も盛んに行われています。

キルギスでは、「大昔、日本人とキルギス人は兄弟で、肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は、東へと渡り、日本人となった」とまことしやかに語られており、このため、日本人が、キルギスへ行くと、どこでも大歓迎をされるのだとか。

何か日本の海彦山彦伝説を彷彿とさせる話です。

確かにキルギス人は日本人と容姿が非常に似ています。中央アジアのキルギス人やカザフ人は、喋らなければ、見た目は日本人と全く同じ人達が多いのだそうです。

キルギスでは、仲間を連れた若い男が嫌がる女性を自宅に連れていき、一族総出で説得し、無理やり結婚させる、キルギス語で「アラ・カチュー」と呼ばれる「誘拐結婚」が行われています。現在では、違法とされている行為ですが、キルギスではこれが伝統とされ、今でも誘拐結婚を行っている人達が後を絶たないそうです。

人権問題として取り上げられることもありますが、現代的な価値観と伝統的な価値観をどこで折り合いをつけるのか、難しい問題かも知れません。

1999年キルギスにて金及び銅鉱床の探査を行っていた日本人鉱山技師4人、通訳らが誘拐されるという事件が起きました。結果的に日本人の人質は無事解放されたましたが、経緯に不明な点が多かったことなどから、日本における中央アジアのカントリーリスクを見直す契機となった事件です。

1999年8月23日、キルギス南部にて国際協力事業団(当時)を通じて派遣されていた海外鉱物資源開発や三井金属資源開発の鉱山技師や通訳がウズベキスタンのナマンガン州出身の元旧ソ連空挺軍兵士であったホジャエフ・ジュマバイ・アフマジャノヴィッチ(通称:ジュマ・ナマンガニ)の率いるウズベク反政府系武装組織(ウズベキスタン・イスラム運動、通称IMU)に誘拐されました。

ジュマ・ナマンガニの率いるIMUは、ウズベキスタンのフェルガナ盆地を中心にイスラム国家の樹立をめざしており、当時拠点としていたタジキスタンのガルム渓谷とアフガニスタンとフェルガナ州を結ぶ「反政府軍事回廊」を構築しつつありました。

とりわけ、ウズベキスタン共和国のキルギスのバトケン州内にある飛び地である「ソルフ地区」を中継地とする軍事回廊を樹立することで、容易に反政府抵抗作戦を遂行する狙いがあったとのことです。

IMUは「バトケン州を通過中に遭遇する外国人は誘拐する」との警告を発しており、各国政府及び現地日本政府関係者からの再三の警告にも関わらず通商産業省出身のJICAの鉱山技師らは人里はなれた山中に地質調査にでかけたため、遭遇は偶然であったもの、事前警告のとおり必然的に誘拐されたということです。

日本政府は、三橋秀方駐キルギス大使が本部長、松田邦紀参事官が事務局長を務める現地対策本部長をビシュケクに設置し、アスカル・アカエフ大統領と会談しました。

外務省オペレーション・ルームに設置された緊急対策室で、川島裕外務事務次官、竹内行夫総合外交政策局長、河相周夫総合外交政策局総務課長、今井正領事移住部長らが情報を共有し、キルギス政府を当事者として交渉に当たる一方、隣国のタジキスタン、ウズベキスタン政府への協力を求めました。

これを受け中山恭子駐ウズベキスタン大使と連絡を取る別動の高橋博史参事官がタジキスタンから武装勢力に接触、この結果10月25日、日本人技師が無事解放され翌日、日本への帰路につきました。

概要は、中山恭子女史による回想録『ウズベキスタンの桜』に可能限りの情報が掲載されていますが、あえて全容は伏せられています。

この事件の中で、外務省の中でも、あくまでキルギス政府の面子を台無しにしないようキルギス政府を当事者として解決を図るグループと、現地の武装勢力の事情に精通し、現地の人々と信頼関係を築いていた国際派日本人の間で葛藤が有ったようです。

長くなりますが、『国際日本人養成講座「No.885 キルギス邦人拉致事件はいかに解決されたのか」』からの抜粋です。

http://blog.jog-net.jp/201502/article_1.html

「解決の鍵は、現地を良く理解し、現地の人々と信頼関係を築いていた国際派日本人が握っていた」ということだそうです。

『ちょうど事件発生の2週間ほど前に、ウズベキスタン大使として着任したのが中山恭子氏だった。こののち内閣官房参与として、北朝鮮から帰国した拉致被害者5人の受け入れに活躍した方である。

ゲリラたちはウズベキスタン出身で、今はタジキスタンで活動している。タジキスタンもウズベキスタン大使館の管轄だった。中山大使は自分たちが動かなければ人質救出はできないと判断した。しかし、外務省からウズベキスタン大使館に出された指示は「情報の収集のみ」だった。

その指示を逸脱して動く事に対して、中山氏は大使としての責任をとる覚悟は出来ていたが、心配したのは、大使館員たちの身の上だった。人質解放に成功したとしても、本省からは全く評価されないだろう。

中山大使は何度か、館員たちに「それでも良いのか」と確かめたが、彼らはそのたびに「やりましょう」と答えた。ウズベキスタン大使館がこの事件に関連して動いていることを表立って知られてはならないので、昼間は普通の大使館業務を行い、その後、明け方まで連絡をとったり、次の作業の打合せをする毎日が始まった。

土曜も日曜もない。「拉致されている人のことを思えば、頑張らねば」と励まし合った。そうした館員の筆頭が、大使館次席の高橋博史参事官だった。アフガニスタンの大学を出た、この地域の専門家である。現地語を話し、現地の様々な人々とネットワークを築いていた。

事件発生時、高橋参事官は、ちょうどタジキスタンの首都ドウシャンベに来ていた。その一年前に国連タジキスタン監視団の政務官として活動中に現地でゲリラに殺害された秋野豊・筑波大学助教授の一周忌に参加するためだった。

高橋参事官はタジキスタンに張り付いて、様々なネットワークから情報を収集しつつ、ゲリラ側との交渉も続けていた。「キルギス政府にすべてお任せする」という日本政府の態度に、ゲリラ側が怒って「日本政府が直接交渉に応じないなら、人質を一人ずつ撃ち殺していく」とまで言い出した時も、必死で止めたのが高橋参事官だった。』

(中略)

『中山大使は、ウズベキスタンのカリモフ大統領、タジキスタンのラフマニノフ大統領、そしてイスラム統一党のヌリ党首にそれぞれお礼を述べに伺った。

お礼訪問に際して、日本側からは「今回の件では十分に働いたからと、いろいろ要求を出してくる可能性があるが、その場では受けないようにしてください」と中山大使は釘を刺されていた。当時、日本国内では、中央アジアの人々が日本人人質解放のために働くのはお礼を求めての事だと報道もされていた。

しかし、カリモフ大統領は事件解決を喜びながらも「当然のことをしたまで」、ラフモノフ大統領も「いや、自分の国の関係者が起こしたことだから。まず無事で良かった」、ヌリ党首は「自分のしたことなど、あなたの感謝の言葉に値しないことです」。

3人ともお礼を求める気持ちなど微塵もなかった。中山大使は、日本からの注意に、一瞬でもそんな要求があるかもと考えたことを恥ずかしく思い、自分はまだまだ現地の人々のことを全く分かっていない、と自らを厳しく戒めた。』

「今回の件では十分に働いたからと、いろいろ要求を出してくる可能性がある。」と考えた日本側と「お礼を求める気持ちなど微塵も無かった」関係諸国の人々の間に意識のずれが有った気がします。

様々な国で、様々な事件が起こります。

その中には、日本人が犠牲になった事件も数多くあり、現在進行形の事件も有ります。

バングラディシュの様に親日的な国で日本人が犠牲になることも有り、中央アジアや中東などの親日的な国でも同じなのでしょう。

日本人が事件に巻き込まれないためには、

事件に巻き込まれてしまった場合、その解決のためには、

親日的な国々がこの先も親日的であるためにも、

現地の人々のことをよく理解する必要があるのだと思います。

中東での紛争は複雑化しているように思えます。

でも、現地の人々のこと、現地の歴史のことを知れば、現在起こっていることが必然であめること、

そして、解決のためにはどうすれば良いのか、見えてくる気がします。

中東地域の紛争の解決で、日本にできることは余り無いような気がしますが、紛争の解決した後、平和な時期が長く続くお手伝いはできるのではないかと思います。

戦後、日本の先達たちがそのような功績を残してきたのですから。

長く続いた中東地域での紛争が早く終わりますように。

瓦礫になった町でも夕涼みができるほど平和が続きますように。

そして、子供たちの笑い声が戻りますように。

このブログの画像はisis_chanプロジェクトに参加されているイラストレーターの方々からお借りしています。isis_chanプロジェクトの目的は、ISが発信する残酷な画像のインターネットでのヒット率を低下させることだそうです。isis_chanプロジェクトにはガイドラインがあり、ムスリムと彼らの信仰の尊重、暴力的・性的表現・政治的主張の禁止等々決められています。私のプログは極力このガイドラインに沿って書いているつもりですが、抵触していると思われたら、それは私の文章力の無さから来るものだと思います。

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