9/25 松江城山
松江城二の丸は水燈路の灯りが点く夕6時になっても空は明るく、夕暮れになるにつれて人が多くなってきた。人の姿がシルエットになりだすと、ローソクの入った手作り行灯の絵もくっきり。絵を描いた我が子の行灯を見つけた親子はスマホで写真を撮っていた。水燈路の催しのひとつ、夜の堀川遊覧船は大手前広場からふれあい広場乗船場間を、ライトアップされた城見縄手の堀川を所要時間20分で運航されているが、催しは10月16日まで(土日と祝日の18時から21時)松江城とその周辺で楽しむことができる。
9/25 松江城山
松江城二の丸は水燈路の灯りが点く夕6時になっても空は明るく、夕暮れになるにつれて人が多くなってきた。人の姿がシルエットになりだすと、ローソクの入った手作り行灯の絵もくっきり。絵を描いた我が子の行灯を見つけた親子はスマホで写真を撮っていた。水燈路の催しのひとつ、夜の堀川遊覧船は大手前広場からふれあい広場乗船場間を、ライトアップされた城見縄手の堀川を所要時間20分で運航されているが、催しは10月16日まで(土日と祝日の18時から21時)松江城とその周辺で楽しむことができる。
安来市広瀬町東比田の山奥にある坊床。今は無住になってしまったが、平安時代に12坊(あるいは10坊)在ったという弘法大師開山伝説がある山。戦国時代には出雲国富田(現・広瀬)の月山城主尼子氏が祈願所、撤退時の避難所として寺を再興した歴史ある盆地。終戦後には開拓団が入り、東比田小学校の坊床分校も建ち住民は夢を持って開拓に励んだが、高度成長の波に取り残されて下山する人たちが続出、25年の歴史の幕を閉じた。去った大きな理由は「生活のこと」「子供の将来のこと」。中学生になると西比田まで行かねばならないので下宿生活となった。今は小さな大師堂が現存するだけの地になってしまっているが、堂は今も東比田の人たちによって守られている。「坊床」の文字は国土地理院の地図に今も載っている。
比田の人たちからも忘れられようとしている坊床を何とか記録に残して置きたい一心で資料集め、やっと写真入りでひとまず完成、坊床の歴史のダイジェスト版といったところである。元開拓者やその子供たち(分校の生徒)の作文も入ったA4の20ページ、記録が後世まで残るよう東比田と宇波の交流センターにファイルを渡しておいた。私は地元の者でないので東比田のことは全く知識がなく資料集めに時間がかかったし、まだ分からないことが多い。
盆地一帯は樹々と背丈もある熊笹に覆われているが、昨年ごろから伐採が始まり、伐採と笹刈りで見晴らしが良くなったので坊床分校の場所も見つけられた。今年も伐採作業が行われていて「立ち入り禁止」の標識がある。坊床山(735.0m)は登れないままである。
坊床分校跡記念碑(1991)と井戸水汲上機械庫跡