訓読みの「鮮」には二つの読み方があり、ひとつは今と同じアザヤカだった。古語の「鮮やかなり」は明白で目立つさまをあらわし、そこは古語の「新し」に通じる部分が感じられる。もうひとつの訓読みがアザラカで、「鮮(あざ)らけし」や「鮮らかなり」などの語彙があり、こちらが魚や野菜などの鮮度を伝えていた。(西田知己『「新しさ」の日本思想史』筑摩新書。p.50)
・もともと「新(あらた)し」だった形容詞が「新(あたら)し」に変っていった。「音位転倒」とか説明されるけれど、実は説明じゃなくて、現象自体をそのように呼ぶ、というのにすぎない。説明ではない。ま、それはそれとして・・・
・「新(あたら)し」になると、発音上「惜(あたら)し」と同じになってしまう(アクセントは違うかも。さぼってまだ調べてません)。それはコミュニケーション上、よろしくないことではある。「同じ形なのに、意味が違う」わけだから。そうした病的な事態にならざるをえなかった説明がほしいのだ。
・その辺を乗り越えるのに、「あざらけし」のように、ラが三つ目にくる形で、しかも意味も似てるものに牽かれやすくなる・・・ なん説明ができるので、アザラケシなどへの注目はあってよいと思う。
・いや、もう言われてるよね、きっと。
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