充電日記     

オフな話で一息を。

『哀しみの終りに』

2018年06月15日 | Weblog
・金正恩氏の米朝会談ほかの模様を、北朝鮮中央テレビが放映したとか。youtubeだと▲こちら

・上にリンクした部分からのBGMはたしかに「シバの女王」なんだけれど、朝日新聞によると、▲「正恩氏がシンガポールに到着する場面では、BGMとしてレイモン・ルフェーブルの「シバの女王」が流れた」(ソウル=牧野愛博、2018年6月14日20時53分)。ん~、少なくとも、私が知っているルフェーブルの▲「シバの女王」ではない。もっとずっと格調と深みがあるのだよ。▲「新・シバの女王」でもない(あんまり変わらない)。もう一つ別のバージョンがあるのかもしれないけれど、動画のBGMのような品のないアレンジを、ルフェーブルがするはずがない。(お、言い切った。(^_^; ) 

・あるいは、「シバの女王」といえばレーモン・ルフェーブルの出世作なので、「シバの女王」が流れると、その演奏者はすべてレーモン・ルフェーブルということになっちゃってるのかもしれない。せめて、作曲者のミシェル・ロランの名を書いてほしいものである。それにしてもこれはこれで問題かもしれない。知ってる情報を提供しようとしているのだが、それが正しい情報かどうかの検証を経ずに提供されているのである。BGMの演奏者のことで、天下国家の話にくらべれば、ささいなことかもしれない。けれど、何やら新聞の「姿勢」をかいま見た気がして、ちょっとこわくもある。

・で、これをきっかけに、昔、聞き慣れたルフェーブルの曲を聞き直してみた。口直しでもある。「シバの女王」以上の名曲と思っていたのが▲「哀しみの終りに」。これがリリースされた当時、中学生だった私は狂喜乱舞、とてもすばらしいメロディだと思ったものでした。もちろん、インストゥルメンタルばかりなので、曲の意味・内容・成立経緯とかはまったく分からないわけ。でも、聞かせてしまう魅力的なアレンジに酔ったわけです。

・ただ、気になるのは原題の「La maison est en ruine」。「家」とか「朽ちる」とかの単語からすると「哀しみの終りに」は、そうとう意訳をしていることになる。はてさて。

・そこで、原題で検索してみた。こういう点はいい時代である。▲こちらに原曲とその歌詞(邦訳付き)があった。そうか、洪水に見舞われた折りの、哀しみと克服のシャンソンだったのですね。原曲、初めて聞きました。これはこれでしみじみと心に入ってくる感じ。布施明を連想させる美声だからかもしれません。

・ルフェーブルの曲というかアレンジを改めて聞くと、フランスの地方の洪水というローカル性が後退し、人間とか人類に共通する、普遍的な哀しみに昇華されているような気がします。もちろん、それは、肉声の身近さに対し、一旦は楽器というモノを媒介にして作り出される音楽としての宿命というか欠点なのかもしれません。

・40年以上たって、初めて接した原曲。もう少し聞き込んでみようと思います。もちろん、東北のことも連想されるところです。

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