充電日記     

オフな話で一息を。

「結果した肺尖カタル」(2)

2020年07月24日 | Weblog

・実は、「結果した肺尖カタル」の「結果した」、つまりは「結果する」。現代ではあまりお目にかからない動詞ですが、ちょっと特殊な用法で一時期用いられていたようです。その余波はいまでもちょっぴりありますけれど。

・この動詞、「AがBを結果する」という他動詞型の文型を採ることができます。というか、以前はこの使い方が普通だったようです。AもBも現象・行動・行為・状況などなど、さまざまなものが代入できます。で、「事態Aが事態Bの主要因であると判断する」と表現したいときに、この文型の出番になります。
  質の悪い日本酒が、二日酔いを結果した。
  朝食を抜いたことが、体育の時間に貧血で倒れるという失態を結果した。
  Go to トラベルの前倒しが、感染症の第二次拡大を結果した。

・これらは、文型を素直に適用した例です。そのまま、A・Bに行為・事態を代入しただけ。ただ、動詞・形容詞・形容動詞の場合、文末で述語になる用法が基本ですが、連体形になって、AまたはBを修飾する形をとることもできます。AなりBなりの有りようを形容するわけです。たえとば、「私がバナナを食べた」という文から、2タイプの装飾表現ができます。
  私が食べたバナナ / バナナを食べた私

・ならば、次のような表現もできますね。
  質の悪い日本酒が結果した二日酔い
     / 二日酔いを結果した質の悪い日本酒

・「結果した肺尖カタル」もこれでいいでしょう。「結果した」は「肺尖カタル」を修飾していますね。問題は、「肺尖カタル」が「Aが」なのか「Bを」なのか、です。
  Aが結果した肺尖カタル(=B) / Bを結果した肺尖カタル(=A)

・「Aが~」は私以外の人の読みです。何かがあって病気になった。じゃあ何があった? 悪行だろ! という根拠の薄い推定によるものです。もちろん、現実レベルの話として、梶井は放蕩生活をしていたので、そう考えたくもなるのでしょう。また、そう考えるのが専門家であり、研究者だとも思われていることでしょう。専門家・研究者なら、少しでも作家について知っている必要がありますし、そんなことも知らないようでは専門家と言えない、笑われてしまう、といった体面上の問題もありましょうか。


・しかし、『檸檬』は、小説として独立した存在として世に問われたんでしょう? 作品表現の解釈程度のことで、いちいち作家の私生活をリサーチしておかないと読めないなんて、そんなの作品と言えるのでしょうか? 違いますよね? 専門家にだけ読めないならば、それはすでに作品としてら落第です。そのような存在へと『檸檬』を引き下げるのは勝手ですが、それでは何を研究対象とするのでしょうか。

・閑話休題。残った可能性は「Bを結果した肺尖カタル」です。Bを生み出した張本人が肺尖カタルだった。結局、元の文型にもどせば「肺尖カタルがBを結果した」となります。ここまでくれば明らかですね。Bは「不吉な塊」です。肺尖カタルや神経衰弱が「不吉な塊」を招来したんです。

・「AがBを結果する」という文型を知らない人が多いのですね。梶井基次郎と同時代の小説は読んでるのかもしれませんが、同時代の他の文章を読み慣れていないのでしょう。そのため、自前の読みの常識で読むことになる。それではいけません。梶井基次郎が目にしていた表現物――新聞・雑誌・論説・・・・・ それらも読みつけておく必要がある。

・国語辞典にも罪の一端はあるのかもしれません。どうも、新語をどれだけ載せるかを競いがちですね。そのために、載せなくても済むようなものも載せる傾向にあります。「こんな例まで載せなくても」というのをしばしば見かけるからいうのですが、実際に読み込んで発見してるわけではありません。広告のなかに「こういう言葉・用法を載せましたよ」という例文がありますが、それを見てるだけです。

・まずは、教科書などにも採り上げられる作品の言葉・用法を網羅すべきでしょう。もちろん、国語辞典の編集者も現代人ですから、ちょっと古い言葉には弱いわけです。その自覚をもって、必要な時代の必要な媒体の文章を読み慣れておく必要があるでしょう。大変だ? そんなことはありません。新語担当、明治・大正新聞担当、昭和期論説担当などと役割分担をすればよいだけです。


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