立てば芍薬座れば牡丹踊る姿は薔薇の花?

古希から喜寿へ向かうGrandmotherが、つれづれなるままにシニアライフをつづります。

全てのものに「神」「仏」を見る

2011-02-03 21:40:01 | 日記
ここ数年、気になっていた言葉がある。それは、空海の教えの中にある「即身成仏」である。最近になって、ようやく解るようになってきた。上原美術館のホームページに、とても解り易く書いてあるので、引用しておくことにした。
http://www.uehara-buddhismart.or.jp/kouen/h131111-2.html

「弘法大師の願い」      講師 福田亮成氏


 空海がお考えになった最も大事なことに、「即身成仏」がございます。この中身は、「私達は本来仏である、成仏している」ということを前提とする考え方なのです。普通私達はどうしようもない煩悩を持つ凡夫であるというのが出発点で、煩悩を鎮める修行をして仏になるのだと考えます。しかし空海の場合、「本来は仏である」というのです。これが主で、迷っていることはそこから派生する事なので従。そこに空海の基本的な考え方があります。この考え方は、密教以前の大乗仏教の中にも流れている考え方で、「私たちは共通に仏になる可能性(仏性・ぶっしょう)を持っている」という主張です。これは「一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)」と言います。

 空海は、仏であることを前提とした行動が基本にあるだけでなく、自分も、すべてを含む偉大な生命の中に生きる1つと考えていたと思います。日本人には仏教伝来以前から、祖霊から生まれ、祖霊の中に返っていくという考え方がありました。祖霊は我々を絶えず近くで見つめて下さる存在です。空海の考え方は、必ずしも仏教独特の世界を切り開いたというより、日本人の本来持っていた考え方の上に、うまく密教の世界を展開したのだと思います。

 仏教は自分の中に仏を見出そうとする宗教です。その為の方法を修行と言いますが、念仏や歩くという単純行為を繰り返すことによって、自分の心を澄ましていき、心の奥底の仏と出会う。単純な日常生活そのものが道場で、その道場の中で仏に対して行動することが、仏との繋がりを自分の中に確認する事なのです。

 今日の演題である弘法大師の願いとは、我々は本来仏であるが、実際の仏ではないというせめぎあいの中で、人々に慈悲の心を振り向けて行動する事だと思います。

 どうぞ皆さん、仏教の深い教え云々というより、日常生活の中で、他人に自分の心、真心を尽くすということから少しずつ始めて下さい。その時初めて、各宗の祖師方の単純な言葉、願いが響いてくると思います。