「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

SNS上であった「元号」の使用をめぐる議論について

2023年11月08日 | 日記・エッセイ・コラム
 熊本で「外国出身者」から、行政文書での「元号」の使用が理解しづらく、西暦やQRコードその他の代替的記載によって、「元号」に親しまない人にも年号や暦の把握のための配慮があってしかるべき、という意見があったと、SNSのニュースで流れていた。確かに「元号」と西暦の対応関係は慣れていないと難しい。ただ、こういうニュースにしばしば起こり得る「外国出身者」への差別から、その内容は「誤解」されて伝わっていた、ということになっている。「外国人」は日本古来(?)の習慣に口を出すな、というものである。これは「誤解」というよりも、意図的な差別から起こったニュースの意図的な誤読というべきだろう。そのような「誤解」も含んだ形で、SNS上では「元号」の文書での使用の賛否が議論されていた。しかし、その議論の大勢は「元号」の使用が便利か不便かという所に焦点が当たっていたように見える。「元号」から西暦への換算は確かに面倒くさいことは無きにしも非ずだが、近代以降の「元号」と西暦の換算は、僕自身は一瞬でできる。これについては、ほぼ慣れの問題であり(近代以降の一世一元の法則に依存した慣れでほめられたものではないが)、もっとわかりにくいことは他にたくさんある、という程度の問題といえなくもない。

 僕は意外であったのだが、SNS上には研究者なども「元号」は不便だという主張をし、西暦の方がグローバルに共通しているので、便利だという意見を主に述べていたことであった。便利か不便かの問題は、それは慣れや換算するときの方法が便利になれば解消してしまうわけだが、「元号」の問題は、何よりも天皇制の問題から考えなければならい「問題」だ、といわなければならないはずである。SNS上では、なぜか主に便利か不便かが議論されているが、そうではなく文書上の「元号」での表記を廃止し西暦にするならば、それは天皇制自体も廃止するという問題と連動させなければならないし、連動しているはずなのだ。SNSで議論している人たちは、それが連動していることを意図的(戦略的)に隠しているのか、それとも無自覚なのか。僕は大方は後者ではないかと疑っている。

 日本が現在でも採用している「元号」は、もともとは中国大陸の「帝国」の「暦」制度の真似であり、皇帝が暦(時間)を支配し、臣民たちを統治するという発想から現われたはずのもので、それを天皇は模倣している。これは日本が近代化した時も、天皇制に引き継がれ、日本国臣民を時間の上でも統治しているという形式が維持されたのだろう。近代以前に中国大陸の「帝国」と、時の日本の政権が貿易をする時は、「冊封」といって「暦」を与えられて、「皇帝」への臣下の礼を形式的にとっていたと日本史で習ったが、その意味では「暦」や「元号」は「皇帝」による支配の象徴である。ということは現在でも日本で続いている「元号」は「日本国臣民」への統治が、いまだ天皇制下でなされているということの象徴だと見做さなければならない。つまり、現代の日本は近代国民国家として建前上は民主主義を標榜しているが、実際は「元号」による天皇の時間支配が継続しており、「日本国臣民」はそれを受け入れているということになるだろう。これは身分制、族称制度の容認であり、確かにだからこそ「外国出身者」が「元号」に言及することを「日本国臣民」は非常に嫌悪しているといえるのである。

 文書の「元号」の使用を問う場合は、それが身分制や族称制度という差別的構造の容認につながる、あるいはそのような差別的時間概念と、その時間概念による天皇の臣民への統治を容認することにつながる、ということがまずは問われなければならない。そしてだからこそ、「外国出身者」の「元号」への発言が、マスメディアによっても意図的に、差別的に「誤解」され誤読されて報道されるのである。便利か不便なのかということはそもそも問題ではない。「元号」とは民主主義の問題なのだ。

 ここで話はずれるが、歴史的な事象を理解する場合、「元号」による理解という側面は確かにある。それはそのような時間概念の中で出来事が生起したという、「日本」の「歴史」を問う場合は、特にそうである。そういう問い方をするときに「元号」に着目することはあり得る。しかしそれは、「元号」による天皇制による支配と統治の時間概念と、それによる差別の構造を容認していくということとは違う。それと「西暦」ならばいいのか、という問いは確かにある。「西暦」が中立的だとは言えない。それは西洋的な形而上学の歴史、神と現前性による支配の構造と密接に結びついている訳であり、それは批判されるべきものだろう。「元号」と「西暦」を共に批判していく立場や考え方はできると思っている。しかし、あまりその両方を批判している議論を見たことがない。するべきだろう。

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