「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

核兵器の「無差別性」を考える(+『はだしのゲン』)

2023年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
 8月6日は78年前、広島に原子爆弾が投下された日であり、テレビを始め、ネットのメディアでも「原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が放送されていた。「唯一の被爆国」という言葉は本来おかしく、すでに様々な形で指摘されていることでもあるが、実際核爆弾は、日本だけではなく複数の国家や領域で爆発し、被害を出している。最初に原子爆弾が投下されたのは、核実験をしたアメリカであり、まずアメリカはアメリカ自身に核兵器を落とし、当時の自国民と国土を被曝させているのだ。そして「実戦」で使用された最初は日本ということになっているが、何を以て「実戦」というのかは考えなければならない。アメリカがアメリカ自身に対して爆発させた原子爆弾も、「実戦」のためになされた実験であったわけだから、「実戦」で使用されたに違いがないのだ。アメリカは「実戦」でまず当時の自国民と国土を攻撃したのだと言わなければならないだろう。その点アメリカ国民はどのように考えているのか。

 確かに顕在的な「実戦」における原子爆弾の爆撃(投下)と、比較にならないほどの死者とその後に続く放射線による健康被害は、広島市とそれに続く長崎市を中心として生じたということは間違いない。だが、広島と長崎を特権化する過程で、実は原子爆弾が核実験を含めて、実際は日本だけではなく、当のアメリカの国民と国土にも及んでいたことが見えなくなる。本来はアメリカもまた、原子爆弾について怒らなければならないのではないだろうか。wikipedia情報になって誠に恐縮だが、「核実験」は、これまでどれほど行われてきたのか、というのを見てみると、2000回を超えているようだ。それは様々なレベルでの実験であり、「臨界前」という爆発を伴わないものも含まれている。しかしながら、核兵器にとって、爆発をするかどうかはあまり関係がないはずである。そもそも放射線を大量に放出する兵器であるわけであり、爆発の威力だけを強調するのはおかしい(そういう意味では原子力発電所も含まれる)。2000回以上も、少なくとも来るべき「実戦」のために核兵器は使われているわけで、そういう意味では、日本という「唯一の被爆国」だけの問題ではなく、そもそも世界自体が攻撃されていると考えねばならないだろう。要は核兵器の使用者は決して敵だけを狙っているわけではなく、無差別に攻撃をしているわけである。これはその威力から大量の人が無差別に殺されるという意味での無差別ではなく、核兵器はその性質上、「無差別性」を有しているというべきなのだ。この「無差別性」こそ思考せねばならない。

 wikiを眺めていると一つの写真が目に入った。その写真は、二人のアメリカ兵が、核実験の「きのこ雲」を背景にして、記念写真(リンク)を撮っているものであった。兵士たちは「きのこ雲」から大分離れた場所で、その遠近法を利用して、二人で「きのこ雲」を支えているポーズをとっているのである。これはネットでもよく見る、例えば遊園地やイベント会場などでもよく見られる、巨大な建造物や展示物、あるいは遊具などを背景にしながら、遠近法を利用することで、まるでそこに写る人々が、巨大な物体を手のひらに乗せているかのように写真を撮る行為と、まるで同じなのだ。例えばユニバーサルスタジオジャパンの地球のオブジェクトを、まるで手のひらに乗せているかのように錯覚させる、だまし絵的な写真などは、ネットで多くの人が見ており、あるいは自分自身もそういうことをした人もいると思う。この写真を眺めた時、またある種の「無差別性」が迫ってきた。それは、そういうだまし絵的写真を撮ることは、「きのこ雲」は不謹慎で問題だが、遊園地の建造物との撮影ならば可愛くて写真映えがして問題ない、という話ではない。そうではなく、例え撮影の対象が遊園地のオブジェクトであったとしても、そこには兵士と「きのこ雲」が写った写真と同じ問題が、おそらくは可能性としては内在しているということである。そのような本来触れられないものに触れること。触れることを錯覚させること。あるいはだまし絵的写真ではなくとも「インスタ映え」(ネットで見ると「ナチュ盛」とか「チル」ともいうらしいが、ややこしいので以下同。ただし、この文脈ではこれらの隠語(「盛り」や「チル」)は、より「問題」を含むと考えられる)というものとも大いに関わる。まさしく、二人のアメリカ兵は、「きのこ雲」を背景に、触れられないはずのものに触れるという「インスタ映え」を狙っているのである。

(前掲リンク先のwikiの画像と同じもの)

 ここで関係づけられる「無差別性」とは、「きのこ雲」を「インスタ映え」させているアメリカ兵と、普段、遊園地や飲食店で「インスタ映え」を狙って様々なものを写真に撮っている私たちの行為との、繋がりを指し示している。確かに「きのこ雲」と、例えば、ラーメン屋さんで「インスタ映え」のためにスマホに撮る「ラーメン」を繋げるのは牽強付会ではないか、というのはわかる。もちろん実践上、その二つを繋げる意味がない場合もある。常識的には繋がらない、と言いたくもなる。しかし、「インスタ映え」を狙って普段撮影している、何気ない当のものは、本当に「きのこ雲」よりも「罪」はないのだろうか。あるいは無害な全くの「別」の存在なのだろうか。「ラーメン」だけではなく、インスタグラムやネットメディアに刻印されるそれら「商品」たちは、本当は触れられないにもかかわらず、画面上でそれらに触れているような錯覚を人びとに与え続けている。『資本論』の「商品の物神崇拝的性質とその秘密」の「価値形態論」を見てもわかるように、「商品」の「交換様式」とは、本来人間には触れることのできない「価値」に触れられるという錯覚を創り出すシステムといえる。人々は写真にとることで様々なものを無差別に「商品」と変え、触れられない「価値」というものに触れているような錯覚を供給し続ける。そして写真に撮り「映え」させ、Youtube TikTokなどで商品化し価値付けされていく「商品」は、そこにそう存在させられるまで恐らく、大量生産と大量消費の過程から現われているはずなのだ。その「映え」ている存在は、実際本当は資本主義的世界の中で労働者を搾取し、人を殺し、自然を破壊して到来しているものなのである。それは資本主義の「商品」の「無差別性」であり、この夏は暑い暑いと言いながら、その気候変動の原因を作っているものは、その「映え」ている「商品」なのではないだろうか。

 そしてその資本主義の「商品」の「無差別性」による破壊とその過程における労働者からの搾取による殺戮と奴隷化は、その「映え」て手のひらに乗っている「商品」(きのこ雲)の直下で起こっていることなのではないか。原子爆弾を含む核兵器の「無差別性」は攻撃側であろうが、被害者側であろうが、敵国であろうが味方であろうが、無差別に巻き込んでいくという性質である。そもそもその制御不可能性こそが、核兵器が核兵器として機能するための条件といえる。そして、資本主義もまた、敵と味方も関係なく、全てを「無差別性」の中に巻き込んでいくのだ。「きのこ雲」に手を差し伸べるように、日々私たちもスマホに「商品」(きのこ雲)をとって、良い写真が撮れたと満足するわけである。しかしその「きのこ雲」の下には大量の虐殺が生起しているわけなのだ。

 問題はこの「無差別性」を避けることなく思考することである。もしかしたらその思考上で、この「無差別性」を何らかの形で「肯定」しなければならない瞬間は来るかもしれない。それも含めて考えておかないと、この「無差別性」に足を掬われると思う。

 さて、8月6日ということもあり、『はだしのゲン』が話題になっていた。どのような話題かというと、『はだしのゲン』は僕の小学生時代から学校の図書館に配架されており、映画もテレビや学校などで放映されていることから、〈核兵器使用・実験の反対〉の象徴になっていたが、近年その内容が批判されるようになり、また「保守系」の批判者からの要請で、学校の図書からなくなっている傾向がある、という話だった。それに対して〈核兵器使用・実験の反対〉の側から懸念が出ているというものだ。ただ僕は、ここで『はだしのゲン』が真実を描いているかどうかを検証するのは、あまり意味がないと思う。もちろんもし虚偽が描いてあるのはいけないが、そもそも作品はフィクションであり、ある意図があって発表されているわけだから、それに対して気に入らない人はいるわけで、その人たちから見れば、「虚偽」とも「真実」とも言われる次元が存在してしまうのは不可避だろう。

 ただ僕は、『はだしのゲン』は単に、反核兵器や平和思想を喧伝するだけの作品だとは、思えないし、思ってもいない。中学生の時を最後に読んで以来、今では全く読む機会は失っているが、しかし小学生から中学生にかけて『はだしのゲン』という作品を読んだモチベーションは、原爆被害の悲惨な描写と、エロティックとも見える「欲望」の表現が所々にあったからではないかと思う。これは漫画の技法や作者自身の漫画技法の出自や由来などとも関わるのかもしれないが、原子爆弾の被害やそこに巻き込まれる人々の「欲望」等に、子供心ながら、強い嫌悪感と同時に興味や快楽を経験していたのではないか、と心当たりがある。僕と同じ世代の同級生たちも、反戦や平和で読んでいたのではなく、戦争や原爆の中にある「欲望」を無意識に感じ取っていたのではないかと思う。それこそが、『はだしのゲン』が小学生から中学生に爆発的に広がった要因だったのではないか。今ネットの議論を見ていても、大分ずれているし、そもそも作品をちゃんと読んでおらず、とにかく『はだしのゲン』は反戦と平和の書物だという、ほとんど思考停止状態の意見ばかりが目立っている。このような状況は反戦や反核兵器の人々にとって、より不利に働くと思う。『はだしのゲン』を評価するとすれば、子供たちに無意識のレベルで、原爆と戦争の嫌悪感を与えたことと同時に、人間がそこに拭い難く抱いてしまう「欲望」を描いてもいたからだろう。これは「精神分析」の「享楽」の次元といってもいい。小学生は勿論原爆と戦争の残酷さや悲惨さに対して、『はだしのゲン』によって吐き気を催す嫌悪感を与えられながらも、実はその吐き気は人間の「欲望」にも繋がっているという経験も、無意識にしていたはずなのだ。原爆爆撃直後の被害を被った人々の、ある所「グロテスク」な描写も、その裏では戦争への人々の「欲望」の裏返しとして存在する。記憶をたどると、そのような『はだしのゲン』のグロテスクで時に性的な描写を読書の目的として図書館に通っていた同級生が、勿論その同級生は特異な存在ではなく、一定の人数(量)で存在していたことを思い出すことができる。むしろ反戦と平和の書物として読んでいた同級生の方が少なかったのではないかとさえ思う。

 このところ、「精神分析」でも「享楽」という言葉を乱用しすぎではないかと批判の趣きがある。わからないではないが、この「享楽」(先の言葉でいえば「無差別性」)の次元を思考しないとすぐに足元を掬われることになると思う。そういう意味では倦むことなく「享楽」を思考すべきだ。『はだしのゲン』の擁護派は、反戦と平和の書物という形で主張すればするほど、作品のポテンシャルを殺しているし、そのポテンシャルを殺して思考停止に陥ってしまうと、逆に『はだしのゲン』なんて読まなくたって他にもっといい作品がある、という論法にからめとられていくことになると思う。そうではなくて、『はだしのゲン』をきちんと作品の読解のレベルで擁護すべきである。しかもそれは、反戦や平和の書物というものをはみ出すポテンシャルがあるということを示すべきだろう。何かの作品を直示的に何かの「ため」の作品として読んでしまうと、作品自体の主張を壊す場合がある。特にネットでそうだが、『はだしのゲン』を反戦と平和の漫画としてしまうと、擁護派は原子爆弾が使用される可能性のある戦争の「無差別性」(享楽)から目を背けることになり、『はだしのゲン』がなぜあんなに熱心に子供たちに読まれたのかという、複雑な「欲望」のポテンシャルを奪ってしまうことになる。それは反戦・平和のポテンシャルを奪っているに等しい。それこそ『はだしのゲン』が読まれなくなる状況を作ってしまうことになりかねない。ここはきちんと考えるべきである。

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