「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

「私人逮捕」という生政治的物語

2023年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
 「私人逮捕」系youtuberのYouTubeチャンネルが複数あり、それがネットニュースで問題になっていることがあるが、僕は当初なにがしかの社会問題を告発する、ジャーナリスト系の活動をしているyoutuberなのかと思っていた。もちろんそのようなジャーナリスト的活動をしている、あるいは社会問題でありながらマスメディアでは光を当てられない問題に取り組んでいるyoutuberもいるとは思う。だが、ここでいう「私人逮捕」系のyoutuberはそれとは違うものとして取り上げてみたい。「私人逮捕」は警察官ではない私人でも、現行犯において逮捕権を行使でき、必要に応じて常識の範囲内で容疑者の制圧もできるようだ。おそらくこの逮捕と制圧の「過激」さがチャンネルの人気を高め、また「犯罪(者)」に「正義」の制裁を加えられる、という側面でも「悪いことではない」「良いこと」として、視聴者はその過激なチャンネル内容にも拘らず、良心の呵責を否認して、あるいは免罪されて視聴することができるのであろう。

 youtubeでいくつか「私人逮捕」系のチャンネルを視聴してみたが、「私人逮捕」という「エンターテインメント」のコンテンツは、現在の新自由主義社会の弱肉強食の秩序と、その秩序で必然的に採用されるテクノロジーと経済格差を媒介とした人間の管理コントロール、即ちフーコーのいう所の生権力による生政治的な統治の問題が色濃く出ているものに見える。youtuberが現行犯の「私人逮捕」を動画で撮影し、それが配信されるという形式は、正義が行使されるという現前性が視聴者に強い充実感を与えているのだと予想できる。ただ問題は、その動画は「基本的人権」を考慮に入れて視聴するならば、かなり人権侵害的な問題を含んでいるといわざるを得ないということだ。この場合の人権侵害が意味するのは「容疑者」の人権をまずは指す。こういう主張をすると、「被害者」は犯罪によって人権を侵害しているという議論をしたがる人がいるのだが、その言い分は感情的にはわからなくはないが、「容疑者」の人権が守られない状態は、必ず「被害者」の人権侵害にもつながるものであり、それは司法手続きをめぐる民主主義と人権を毀損することになるということである。そのような状況は「被害者」にとってもマイナスにしかならない、という視点が必要なのだ。

 僕が見たチャンネルの多くは、そのyoutuberがかつて自分自身が法を破ったことがある、あるいはそのような「犯罪」と関わった経験があるものが多く、改心(?)を経て、社会正義のために行動をしている、というようになっている、らしい。あるいはそのように解釈できるようにチャンネルが作られている。所謂、文芸批評や文学理論が明らかにしてきたような、物語構造上の〈探偵=犯人〉の構造がここにはあるし、フーコー的な意味で、法こそが法の侵犯を生み出す源泉という意味では〈法=侵犯〉の構造自体をチャンネルが体現しているのだ。最も侵犯や社会の周縁の危ない部分にいる属性の存在こそが、そのような「犯罪」に「私人」として関わることができる。探偵小説のライブ中継版こそ「私人逮捕」系チャンネルといえるのかもしれない。アニメの『PSYCHO-PASS』も、このフーコーの図式を借りてきていて、「犯罪者の脳」が社会の犯罪を未然に防ぐ管理コントロールのAIとして活躍していた。権力は「犯罪(者)」こそが最も法の代補たり得ることをよく知っているということだろう。

 そのような「私人」は自身のグレーさと重ねるように、法律のグレーな部分を使って「容疑者」(もちろん「私人逮捕」された人物が、「容疑者」ですらないことは当然あり得る)を逮捕するわけだが、そこで問題なのは、「私人逮捕」される「容疑者」の肖像権も侵害されており、黙秘権も侵されているということだ。本来「容疑者」も「被告」も自分に不利になるような証言を強制されることがあってはならない。それは例え現行犯であろうと、その場で明らかな犯行に関わる決定的証拠が見いだされようとも守られなければならない原則である。だが、多くのチャンネルではそれが守られておらず、「容疑者」の顔や表情は晒されており、そこでは「容疑者」が不利になるような証言を、正義のためと称して、youtuberの協力者たち複数人で威圧や暴力によって引き出そうとする場面さえある。これは憲法における基本的人権の尊重に抵触する違法行為だといわなければならないだろう。司法の根幹を揺るがす行為で、これは「容疑者」のみならず「被害者」の権利を今後掘り崩してしまう問題となることが予想される。

 このような人権侵害が可能なのは、「私人逮捕」系チャンネルが正義を行使しているかのような現前性を視聴者に与えており、視聴者はその社会正義に与しているような錯覚によって、「容疑者」への人権侵害の意識を免罪させられているからだろう。そしてそこには警察が対処できない揉め事や「被害者」を「私人」が代わりに裁いてくれるという意識も働いている。いわば警察権力の代補として「私人逮捕」系のyoutuberは機能しているということになる。警察が管理し切れない部分を「私人」が代わりに管理しコントロールしてくれるということだ。要は警察権力の「用心棒」として働いているともいえる。かつて法を破り、グレーゾーンでの生き方に通じている「私人」こそ、やはり最も「法」に近いという構図が、ここにあるということである。僕の感覚では、若い時に法を破り、あるいはやむを得ない事情も含め社会の周縁で生きなければならなかった存在が、警察や権力という暴力装置の代補となるのが不思議であった。そのような体制的な秩序を憎み、それに対してアクションを起こしてきた存在は、むしろマイノリティの問題を考え、権力が排除する存在の側で思考するとばかり思っていたが、そうではなく法を代補し、権力の管理コントールを助ける「用心棒」としての「私人」として、「エンターテインメント」のコンテンツで金儲けをする。しかも「私人」として警察が入り込めない民事的な部分にまで入り込み、権力を浸透させる役割を担っていくというのは、〈悪質〉だといわなければならない。本来警察権力が踏み込めない場所にまで、暴力を介入させていく。しかも「エンターテインメント」として。

 このような民事介入暴力(刑事を含む「私人逮捕」もここに含める)はかつてのヤクザや暴力団のそれであり、暴対法などでそれが暴力団では難しくなっていった時、グレーな「私人」たちがそのような民事的(かつ刑事的)なところにまで、「私人逮捕」という形で介入するようになった。これはかつてのヤクザや暴力団の肩代わりをしている、ということになるのではないだろうか。しかもこれらは、すべて権力側の管理コントロールと、人々を生政治的に統治するという暴力を代補し手助けるものとなってしまっている。先に、このような「私人逮捕」系のチャンネルによって「容疑者」に人権だけではなく、「被害者」の人権も毀損する可能性があるというのはここである。つまり、このような警察が介入できないところにまで「逮捕」というコントロールの暴力を介入させられるということは、本来「被害者」は憲法的な意味で基本的人権を守られなければならないにも拘らず、「被害者」の人権がこの「私人」の暴力とコントロールの影響下に置かれてしまうということである。暴対法以前は、警察が対応してくれない揉め事を暴力団を利用して解決したことがあったわけだが、その時点で「被害者」は私的暴力の管理下に置かれるということである。それは「被害者」の人権が「私人」によって支配されてしまうということに行きつく。

 「私人逮捕」系のいくつかのチャンネルは、そういう意味で結局、体制側の権力の補強にしかならず、しかも、警察が介入できない(しない)部分にまで管理コントロールの暴力を浸透させ、人々を管理する方向に導くという意味では、非常に〈悪質〉である。しかもそれが世のため人のため、正義のためにやっているという意味で、生政治的な側面を多分に持っている。しかも暴力による管理コントロールを批判しにくい形で巧妙に行使しているのだ。これは新自由主義下でのグローバル企業の資本家たち経営者たちの身振りと非常によく似ている部分である。コンプライアンスと法遵守という名の経済的暴力による支配。そのミクロのバージョンが「私人逮捕」系チャンネルによる生政治であり、それは体制側の生権力を代補する。警察も「私人逮捕」系のyoutuberに強く介入しないのは、警察の非公式「用心棒」となっているため、今のところ使い勝手がいいからである。しかし恐らくyoutuberたちが体制の邪魔になって管理コントロールの障害になりはじめれば、いずれ排除される運命にあろう。

 ヘーゲルによれば、法は「私」を揚棄する、「私」と「公」を媒介するものであったはずだ。しかし今の新自由主義的世界はこの「私」と「公」が壊されてしまい(資本によって脱構築され)、「私」が直接的に暴力にさらされる状況を作っている。「私人逮捕」はそのような「私」の状況であり、そのような「私」を管理コントロールする剥き出しの権力の発露として現れている。そういう意味では新自由主義的生権力がおこなう統治とは、まさしく「リンチ」そのものだといえるのだろう。

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