「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

盆踊りの「復活」と中学時代の「生徒会」のこと

2023年08月13日 | 日記と読書
 昨年末以来、なかなかまとまった休みが取れず、疲労も蓄積していたので、お盆休みの+αの休暇を取って実家に帰省した。緑と田園広がる田舎なので、東京よりは暑さが和らぐだろうか、と考えたが、日中の気温はあまり変わらないようだ。ただ、湿度は低く、日が暮れて日が昇る時間帯は、東京よりは過ごしやすい。クーラーを切っていても過ごせる気温になっている。庭に数十年植えてあるレモンの木も半分が暑さで枯れてしまっていた。レモンが鈴生りになっているのを帰省の度に見ていたが、今年は葉っぱが全部落ちた幹から新芽が出てきており、半分の幹は完全に枯れてしまっていた。ただ、柿の木は元気で、青い実を大量につけていた。


 僕の「村」の盆踊りがなくなってから久しいが、周りの「村」の盆踊りは続いている。今年は僕の「村」の有志が集まって、盆踊りの「復活」を企画していたようだ。資金の調達や住民の理解、安全の確保など、現在は盆踊りをするだけで、相当の労力と「配慮」が必要になる。今回は「試行」ということで、有志は隣町まで寄付を募り、露店や籤引きも無料で開催するという。家族の一人が有志の「副会長」ということで、午前中は暑い中で盆踊り会場の設営に行っていた。僕の同級生が会長らしく、帰省しているなら手伝いに来てくれればよかったのに、と言っていたと聞いて、少し頭には手伝おうかとよぎっていたが、故郷を去ったよそ者となっている今、そういう所で妙にやる気を出しても煙たがられるだろうなと考えて、行くのはやめにした。ただ、本当に人手不足と苛酷な気候だったらしく、純粋に手伝いとしていけばいいのかとも思った。

 「副会長」の話によると、「村」の年配者が準備作業中の広場に突然一人現れ、その年配者は、自分は盆踊りに反対の立場だったんだけどなと、わざわざ告げに来たらしい。少し変な雰囲気になったという。僕の同級生も含めその下の世代は地域の「つながり」がなくなっていくのに危機感を持っている。その危機感が盆踊りの「復活」を企画させたわけだが、その危機感は必ずしも共同体の中で共有されていないのかもしれない。僕の両親の世代も「復活」には消極的ではあった。確かに「村」の盆踊りの「復活」には「地縁・血縁」、「男根中心」的な「封建的」側面もあり、そういう行きたくもない行事や、普段の仕事以外の労働を増やすこと自体は忌避され、盆踊りや様々な「村」の行事がなくなり続けて行ったのが、この30年間だったと記憶する。そういう意味では、「つながり」の喪失に対する危機感と、盆踊りの「復活」の必要性を感じている同級生や下の世代の気持ちはよくわかる。その失われた「つながり」は、「地縁・血縁」や「男根中心」とは別のかたちで模索された方がよい、とひとまずは言える。しかしながら、そういう「封建的」な「つながり」ではない「つながり」は、現状としてはなかなかすぐには機能しないし、あるいはそういう「封建的」な「つながり」を解体してきた結果が、現在に繋がっているわけで、「つながり」をどういう形で「復活」させるかは難しい問題だと思う。また、盆踊りが「迷惑」をかけない行事であることを証明することが求められる。騒音や交通安全にかかわる問題など、生権力的な問題が付きまとう。そのような行事の管理コントロールには莫大な費用と労力が必要で、それが盆踊りの「復活」の足かせになっている側面もある。

 少なくとも30年前の「村」は鍵などかける習慣はなかったし、家の周りに塀を巡らせる習慣はほとんどなかったと記憶する。他の家の庭が通行路になっており出入り自由と言えた。これも20年位前から雰囲気が変わっていったのを記憶している。現に僕の実家も、鍵をかけ、インターフォンを設置するまでになっている。

 「家族」というものや「つながり」というものは、確かにアプリオリに良いものとは言えない。実は僕も親族から多大な迷惑をこうむっている現状もあり、そういう「つながり」自体が僕をむしばみ、ストレスをためさせている側面があるのは事実だ。だが、「封建遺制」を解体し、現前的「つながり」から離れて、非現前的、痕跡的、エクリチュール的、「遠隔-つながり」のようなものを作っていけばいいのか、というのはなかなかに難しい。その「封建遺制」が経済的に解体されていく中で残ったのは、生権力的な管理コントロールの秩序だけであった、というのが実際の「村」の現状だといえる。盆踊りがなくなり、人が集まり何か音を出すことが「リスク」と認識されてしまう状態である。

 有志達はともかくやってみよう、という切迫感から行動に移ったのだろう。地域から離れ資本主義の恩恵のなかで「地縁・血縁」、「封建遺制」をなんとなく批判している立場となっている僕は、有志達に対して疚しさを抱える立場にある。帰省早々台風が真上を通っていく予報となっているが、少なくとも明日はまだ大丈夫のようだ。盆踊りに行ってみるつもりである。

 実家では積読になっていた外山恒一『改訂版 全共闘以後』(イースト・プレス)を読んでいる。5分の4ほど読んだが面白い。特に全く無知であった90年代の「運動」に注目できた。僕が中学校(公立)の時、校則を変更し、髪型の規制廃止、制服の規定の廃止を生徒会役員として目論んだことがあり、これは当時友人の「会長」が主導し、中学校の学校規程集などを生徒会の役員で読んで研究し、生徒会発議で校長に校則改定の意見書が出せるというのを見つけ、校長への意見書の提出を目指して草案を練ったことがあった。昼休みになると生徒会役員室にこもり、そこで話し合いをしており、それは楽しかったのだが、先生たちに警戒され始め、昼は役員が一緒に食べてはいけないと言われて、分断されたことがあった。またこの成り行きについては、機会があるときに具体的に書いてみたいが、その生徒会による校長への意見書の提出は、生権力的管理コントロールの権力によって、「真逆」の結果を生んでしまう。この結果は当時の会長だった同級生も思う所があったようでパブリックな形で文章として残している。

 その生徒会や生徒から校長や職員会議への対抗意見の提出ができるという学校の規程は、今思うとだが「68年」の遺産だったのかもしれない。生徒から校長に学校運営の意見が直接出せるという規定に、中学生ながらに、なぜこんなに民主的なのだろう、しかもこんなルールを生徒のだれが知っているのだろう、と不思議に思っていた。この規程集を見つけてくれたのは当時の「会長」で、今度会った時に聞いてみたいのだが、その時、その「会長」は何を考えて校則を変えるための「運動」を志向したのか。僕自身はたまたま役員であり、何も考えずただ面白そうだから引っ掻き回そうという程度の、志や理論的な強度も全く持っていない生徒だったので、何も考えずに、面白そうだと思って行動していた。「会長」はおそらく〈きちん〉と考えていた。それは、外山の本でも主題となっている、学校の「管理教育」に対する根源的な疑義から出発していたのではないか、と今は推察できる。聞いてみないとわからないが。

 「会長」の文章によれば、当時は孤独感を抱えていたようだ。要は、「会長」自身の行動の真意が、教員や生徒のみならず他の役員(僕も含む)もわかってくれなかった、ということである。ただ、僕は馬鹿で理論的強度は何もなかった何も考えない役員だったのだが(本なんて読むやつは軟弱ものだという偏見を当時持っていたとんでもない奴であった)、学校権力による非民主的な「真逆」の事態の招来が「トラウマ」となり、ずっとそれはなぜそういう結果を招いたのか、というぬぐえない出来事になっていった。今も何かを考えるときはその時を思い出す。そのことを、数年前に「会長」にいうと、ものすごく意外な顔をして、それはうれしい、といったがあまりにも「会長」が驚いていたのでなぜだろうと思うと、彼自身一連の生徒会での出来事について、上でふれたように、パブリックな形で文章を発表していることに僕は後から気づき、なるほどなとその際の彼の驚きに対して合点がいった。ただこれは僕の解釈と現時点での判断だが、その「真逆」の結果が、彼の生き方の方針を「肯定的」に規定してしまっている部分もあるのではないかと思った。

帰省すると思い出話になってしまうのはご寛恕願いたい。

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