栗田英彦編『一九六八年と宗教 全共闘以後の「革命」のゆくえ』(人文書院)が買ったまま積読だったので読了した。栗田の「第六章 革命的抵抗の技術と霊術――戸坂潤・田中吉六・太田竜」が勉強になった。1930年代と1960年代の「観念論」に内在する技術論、それはハイデガー的な意味のテクネー、つまり観念の構成自体が一つのテクネー(技術的組み立て)であるという意味なのだが、その〈観念論=霊術〉として解釈される圏域が、1950・60年代の太田竜の思想構成を準備していたというのは、面白いし、考えなくてはならない問題だと思った。ただ、ここで「宗教」や「スピリチュアリズム」の問題を少し考えさせられた。同書には絓秀実が「第一章 安保・天皇制・万国博」を書いており、絓の論は、僕の解釈では「スピリチュアリズム」への批判になっていたと思われる。
この本の扱っているジャンルの幅が広く、僕はその範囲を網羅的に論じることができないので、個人的な関心に引き付ければ、やはり「天皇」を「スピリチュアリズム」としていかに批判するかという問題がある。絓の論考は、栗田も引いているように、絓の『反原発の思想史 冷戦からフクシマへ』(筑摩選書、2012)と共に読むべきだと思う。東日本大震災後、『反原発の思想史』を読んだ時に、ここには明確なアナキズム批判とスピリチュアリズム批判があると思った。やはりマルクス主義的な唯物論からの批判が必要であり、地震と原発事故以降に到来するであろう、資本と観念(スピリチュアリズム)の結びつきを牽制する意味でも、絓の批判はその通りだと思ったし、また必要なものと感じていた。しかしながら、「スピリチュアリズム」や「アナキズム」、あるいは「霊性」というものの革命性や、その時として反資本主義にもなり得る理論が前面に出て来る時代になると、それが「情動」とも受け取られるようになり、絓の批判が見えにくくなっているのも確かだと思う。例えば、新刊で絓が触れている三島の「文化概念としての天皇」も「社稷」であり「スピリチュアリズム」と「アナキズム」の問題だと思うが、この「文化概念としての天皇」は戦後民主主義や資本主義へのカウンターとも解釈できるので、その「霊性」の側面が称揚される場合がある。
これは京都学派や西田哲学にある「スピリチュアリズム」でもあり、栗田も指摘するドイツ観念論経由の「スピリチュアリズム」だろう。昨今の京都学派や西田哲学の再評価も、この「スピリチュアリズム」と結びつくわけだが、この問題は考えるのが難しい。確かに「文化概念としての天皇」や西田の「純粋持続」、大江の「純粋天皇」でもいいが、これらは通俗的な「天皇制」を批判できる「情動」と捉えることはできるし、「革命」の「情動」とも解釈することはできよう。しかしながら、2012年時点で、絓がおこなっているアナキズム批判と「スピリチュアリズム」への批判はやはり維持しなければならない、と最近は強く思うようになってきている。『反原発の思想史』では、この「スピリチュアリズム」が資本主義と結びついて、「ロハス」的な資本主義肯定にしか進まない問題を論じていた。そして新刊でも、結局「文化概念としての天皇」もまた資本主義には受け入れられやすい「雅」なのではないか、という批判がおこなわれている。
この両義性は難しい問題である。デリダのカント批判の本があったと思う。記憶が曖昧だが『哲学における黙示録的語調について』だった気がするが、そこではカントが〈スピリチュアリズム=パレルゴン=エクリチュール〉を隠蔽して、純粋な哲学的な思索だけを尊重しようとするが、哲学が成立するには、その外側に、「衣服」というか「飾り」というか「パレルゴン」としての宗教的ないかがわしさと「スピリチュアリズム」があって、しかしこのいかがわしい「枠組」こそが、純粋な哲学的思索を可能にしている条件でもある、という筋の論文である。これはその通りで、マラブーの『泥棒!』もこの議論を敷衍したものだと思う。この意味でデリダの『マルクスの亡霊たち』も、マルクスの唯物論が、いかに〈スピリチュアリズム=霊〉に憑依されているのかを証明しようとしたものだといえる。このパレルゴンやエクリチュールという、物質でもあり観念でもあるような、そういう意味ではマルクスの「商品」のような存在をどう扱えばよいのかという問題がここには見える。
「スピリチュアリズム」に革命の「情動」を見るのは理解ができる。何故なら観念論自体が〈スピリチュアリズム=霊術〉としてのテクネーなので、それ自体が革命のためのテクネーへと転化できるように見えるからだ。また技術論故に唯物論のようにも見えてくる。マルクスにもヘーゲルという「霊」がくっついているんだから無罪じゃないよ、ともいえるのかもしれない。だが「商品」の「霊性」を賛美しても、結局はイーロン・マスクのような封建領主しか呼び出せないのではないか、という疑問がある。要は破壊的な「ロハス」という字義矛盾した者しか呼び寄せず、むしろ「本来的な」(スピリチュアリズム!)革命を隠蔽するだけなのではないか。『反原発の思想史』を読み直しながら、「文化概念としての天皇」の誘惑に抗いながら、どのように唯物的な抵抗の論理を見つけていくのか、というのは大事だと思わせられた。やはりマルクスのフェティシズム批判を、まじめに受け取るしかないのではないか、とも思う。そして、やはり、資本主義という「スピリチュアリズム」は、別の「スピリチュアリズム」では抵抗できないのではないか、とも。むしろ「スピリチュアリズム」は資本主義を翼賛して、それが「革命」だと自分に言い聞かせながら生きるしかないような、宗教的な信仰に転化するのではないか、という危険を感じるようにも最近はなっている。
話は急に変わるが、イーロン・マスクがAfDへの支持を公言し、トランプ大統領が就任した直後、演説会か何かで、マスクがナチ式敬礼をしたと話題になったことがあった。その映像を見たが、非常に卑怯なやり方で、見てもらえれば分かるが、なにか体をひねった弾みで手を挙げて、本当に敬礼をやったかどうか非常にあいまいな格好で、挙手している姿が印象に残った。彼は真剣に自分の「スピリチュアリズム」を信仰しているわけではなくて、コンプライアンスを気にしながら挙手しているのが丸見えである。別に、隠さないで堂々とやるべきだというのではなく、そんなことをやる奴が大きな力を持つべきではないと思うのだが、でも恐らくはこの〈中途半端〉なナチ式敬礼こそ、現代における「スピリチュアリズム」のテクネーの在り処であり、革命の「情動」をよく表しているのだと思う。つまり、唯物的な「スピリチュアリズム」、それは京都や西田の言うスピリチュアルなテクネーではなく、下部構造としての唯物的な「スピリチュアリズム」はあるのかという問題だ。しかしそれを見つけるためには、さしあたり、安易な「スピリチュアリズム」の肯定はしたくないな、と本を読みながら思った次第。
この本の扱っているジャンルの幅が広く、僕はその範囲を網羅的に論じることができないので、個人的な関心に引き付ければ、やはり「天皇」を「スピリチュアリズム」としていかに批判するかという問題がある。絓の論考は、栗田も引いているように、絓の『反原発の思想史 冷戦からフクシマへ』(筑摩選書、2012)と共に読むべきだと思う。東日本大震災後、『反原発の思想史』を読んだ時に、ここには明確なアナキズム批判とスピリチュアリズム批判があると思った。やはりマルクス主義的な唯物論からの批判が必要であり、地震と原発事故以降に到来するであろう、資本と観念(スピリチュアリズム)の結びつきを牽制する意味でも、絓の批判はその通りだと思ったし、また必要なものと感じていた。しかしながら、「スピリチュアリズム」や「アナキズム」、あるいは「霊性」というものの革命性や、その時として反資本主義にもなり得る理論が前面に出て来る時代になると、それが「情動」とも受け取られるようになり、絓の批判が見えにくくなっているのも確かだと思う。例えば、新刊で絓が触れている三島の「文化概念としての天皇」も「社稷」であり「スピリチュアリズム」と「アナキズム」の問題だと思うが、この「文化概念としての天皇」は戦後民主主義や資本主義へのカウンターとも解釈できるので、その「霊性」の側面が称揚される場合がある。
これは京都学派や西田哲学にある「スピリチュアリズム」でもあり、栗田も指摘するドイツ観念論経由の「スピリチュアリズム」だろう。昨今の京都学派や西田哲学の再評価も、この「スピリチュアリズム」と結びつくわけだが、この問題は考えるのが難しい。確かに「文化概念としての天皇」や西田の「純粋持続」、大江の「純粋天皇」でもいいが、これらは通俗的な「天皇制」を批判できる「情動」と捉えることはできるし、「革命」の「情動」とも解釈することはできよう。しかしながら、2012年時点で、絓がおこなっているアナキズム批判と「スピリチュアリズム」への批判はやはり維持しなければならない、と最近は強く思うようになってきている。『反原発の思想史』では、この「スピリチュアリズム」が資本主義と結びついて、「ロハス」的な資本主義肯定にしか進まない問題を論じていた。そして新刊でも、結局「文化概念としての天皇」もまた資本主義には受け入れられやすい「雅」なのではないか、という批判がおこなわれている。
この両義性は難しい問題である。デリダのカント批判の本があったと思う。記憶が曖昧だが『哲学における黙示録的語調について』だった気がするが、そこではカントが〈スピリチュアリズム=パレルゴン=エクリチュール〉を隠蔽して、純粋な哲学的な思索だけを尊重しようとするが、哲学が成立するには、その外側に、「衣服」というか「飾り」というか「パレルゴン」としての宗教的ないかがわしさと「スピリチュアリズム」があって、しかしこのいかがわしい「枠組」こそが、純粋な哲学的思索を可能にしている条件でもある、という筋の論文である。これはその通りで、マラブーの『泥棒!』もこの議論を敷衍したものだと思う。この意味でデリダの『マルクスの亡霊たち』も、マルクスの唯物論が、いかに〈スピリチュアリズム=霊〉に憑依されているのかを証明しようとしたものだといえる。このパレルゴンやエクリチュールという、物質でもあり観念でもあるような、そういう意味ではマルクスの「商品」のような存在をどう扱えばよいのかという問題がここには見える。
「スピリチュアリズム」に革命の「情動」を見るのは理解ができる。何故なら観念論自体が〈スピリチュアリズム=霊術〉としてのテクネーなので、それ自体が革命のためのテクネーへと転化できるように見えるからだ。また技術論故に唯物論のようにも見えてくる。マルクスにもヘーゲルという「霊」がくっついているんだから無罪じゃないよ、ともいえるのかもしれない。だが「商品」の「霊性」を賛美しても、結局はイーロン・マスクのような封建領主しか呼び出せないのではないか、という疑問がある。要は破壊的な「ロハス」という字義矛盾した者しか呼び寄せず、むしろ「本来的な」(スピリチュアリズム!)革命を隠蔽するだけなのではないか。『反原発の思想史』を読み直しながら、「文化概念としての天皇」の誘惑に抗いながら、どのように唯物的な抵抗の論理を見つけていくのか、というのは大事だと思わせられた。やはりマルクスのフェティシズム批判を、まじめに受け取るしかないのではないか、とも思う。そして、やはり、資本主義という「スピリチュアリズム」は、別の「スピリチュアリズム」では抵抗できないのではないか、とも。むしろ「スピリチュアリズム」は資本主義を翼賛して、それが「革命」だと自分に言い聞かせながら生きるしかないような、宗教的な信仰に転化するのではないか、という危険を感じるようにも最近はなっている。
話は急に変わるが、イーロン・マスクがAfDへの支持を公言し、トランプ大統領が就任した直後、演説会か何かで、マスクがナチ式敬礼をしたと話題になったことがあった。その映像を見たが、非常に卑怯なやり方で、見てもらえれば分かるが、なにか体をひねった弾みで手を挙げて、本当に敬礼をやったかどうか非常にあいまいな格好で、挙手している姿が印象に残った。彼は真剣に自分の「スピリチュアリズム」を信仰しているわけではなくて、コンプライアンスを気にしながら挙手しているのが丸見えである。別に、隠さないで堂々とやるべきだというのではなく、そんなことをやる奴が大きな力を持つべきではないと思うのだが、でも恐らくはこの〈中途半端〉なナチ式敬礼こそ、現代における「スピリチュアリズム」のテクネーの在り処であり、革命の「情動」をよく表しているのだと思う。つまり、唯物的な「スピリチュアリズム」、それは京都や西田の言うスピリチュアルなテクネーではなく、下部構造としての唯物的な「スピリチュアリズム」はあるのかという問題だ。しかしそれを見つけるためには、さしあたり、安易な「スピリチュアリズム」の肯定はしたくないな、と本を読みながら思った次第。
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