声優で有名な林原めぐみのブログが「排外主義」的で差別的な内容だったために、「炎上」したという話がネットに挙がっていたので、所謂「修正前」の記事が「魚拓」にされていたものを読んだ。内容としては、差別的だといわれても仕方がない表現であった。あと、youtuber?TikTok?の配信者やその配信内容が、隠喩的に仄めかされており、それがさらなる憶測を呼んでいるようにも見える。林原が「陰謀論」を真に受けて、それを排外主義的に受容して、(在日)外国人の差別につなげているのではないか、という見立てである。僕も一読してみたが、例えばこれが有名人のブログとは知らずに読んだとしたら、自分の危機を排外主義やナショナリズムで慰撫しようとする典型的な行動は、なんで抑えられないのだろうか、という感想を抱いたのではないだろうか。そういう意味では、ブログには排外主義も感じたし、「外来種」に喩えるところも、生物学的な「優性思想」を指摘されても仕方がないものだ。
林原のブログを見ながら、最近僕が喫茶店で読書中、隣に70代くらいの、話の内容から、二人はそれなりに大きな会社の経営者・社長と思しき男性同士の会話を思い出していた。二人の話の内容は、おのおのは「本業」をもっているようだが、余剰資金で他の会社の事業を買収したり、新規におこなう事業への投資についてであろうと推測できた。話の内容から、昨今やはり環境関係の投資が堅調なんだ、という印象を持った。その二人の内の一人の社長が、社長の口から「汚穢屋」と自らを呼んで、廃棄物やし尿処理の事業について話し始めたので、その社長の「本業」が清掃やメンテナンス、清掃、ごみ処理などを大規模に展開している会社だということが分かった。「汚穢屋」というのは、勿論差別的な用語である。落語にも登場するが、社長本人も幾分「自虐」のニュアンスを響かせていたように思う。社長は「汚穢屋」が差別されながらも、どのようにそれを生業としてご飯を食べて来たのかを、もう一人の社長に話しながら、「汚穢屋」をめぐる新規事業への投資の話をしていた。清掃をしたりインフラのメンテナンスやし尿処理という、ケア労働が歴史的に差別されてきた背景を、その投資話からだけでも感じ取ることはできた。そして、「汚穢屋」と自らを呼びながらも、そこにどれほど技術的洗練があってノウハウがあるのかを、もう一人の社長に語っていたのだが、聴き手になっていた社長は、少し気後れしたというか、愛想笑い的に話を往なしており、勿論友人同士だろうが、僕から見ると少し差別的なニュアンスがその態度に現れていた。小馬鹿にしているというのは言い過ぎかもしれないが。その社長の話しからは、「汚穢屋」の歴史性、技術性、そしてある意味差別的な扱いを受けていたが故に、そこに存在する既得権益の話をしており、自虐的なニュアンスで「汚穢屋」と自らを呼びながらも、そこに存在する理論と論理、そして経験から来るであろう矜持のようなものも、その会話の中から聞き取ることができた。
だが、その話がひと段落すると、その「汚穢屋」と自らを呼んでいた社長が、「陰謀論」について話し始めたのだ。「トランプの後ろには影の政府がいる」や、「自民党の議員の三分の一以上が在日外国人で日本の国益を損ねている」などを、まことしやかに話し始めたのだ。それを聞いていたもう一人の社長は、話に乗っているところもあるけれど、それは噂だとか、本当のところはわからないなど、たしなめつつ、その話は眉唾物だと、暗にたしなめるように話していたのである。僕はその時、「汚穢屋」の歴史性や、そこにある差別や階級の構造、経済的問題、ケア技術の問題など、聞いているだけでも社会問題を考えさせられる話をしていた人物が、突然状況が変わると「豹変」してしまったことに驚くと同時に、考えるべきことでもあると思わされた。東京の23区ではほとんど見なくなったが、し尿処理のバキュームカーの話しの時、聴き手の社長がそのバキュームカーを運転し運用する職員について差別的な見解を話した時、それを厳しく訂正していた。僕は大学生になるまで下水道が整備されていない地域で育ったので、所謂「汲み取」としてのバキュームカーはおなじみだった。そういう意味では子供のころから、トイレに来てし尿処理をして運搬するさまを、見ているのが好きだった。それは工事現場でパワーシャベルを見るのが好きなのと同じ意味もあっただろうし、糞尿に対するフロイト的欲望があったのかもしれない。バキュームカーが来られない時は、ひしゃくで掬って肥桶に入れて担いで、別の場所まで運ぶ経験もしていたこともあり、バキュームカーに特別の嫌悪感は抱かないが、そういうことをしたことがない人は、嫌なのだろう。だが、その聞き手の社長の差別的ニュアンスを感じ取った「汚穢屋」を自称する社長は、すかさず職員たちの尊厳を守ろうとして、バキュームカーに対する偏見や誤解を、整然とした論理で解こうとしていた。
そのような自分の仕事にまつわる差別や歴史性、そして仕事への矜持の中で職員の尊厳を守ろうとする社長が、次の瞬間「陰謀論」を語り始め、先ほどの聴き手の社長からたしなめられる。この一貫性のなさこそ、差別を考えるときは向き合わなければならない状況なのだと思った。この職員への偏見や差別をなくそうとする社長と、「陰謀論」から「排外主義」を話し始める社長は、同一人物であり、その人の中ではそれが同居している。何故「同居」し得るのか、これは恐らく本人にもわからないだろう。そしてこれは別にその社長だけではなく、普通に僕の中にもある「同居」であるとも思う。恐らく、この「同居」は誰にでも日々生じていることなのだ。この場合、僕はこの社長に向かって、あなたは「陰謀論者」で「排外主義」だということはできるし、おそらく、ある場面では正当な社長への非難になると思う。しかしでは「汚穢屋」という偏見や差別の歴史の問題を、これまでの仕事の経験を論理的にまとめながら、あたかも歴史家のように、その歴史にまつわる偏見と差別を間違っていると、聴き手の社長に伝えようとするその人は、いったい何者なのだろうか。たぶん、この自分の仕事への見識と、後者の「陰謀論」は論理的に繋がっている。もっと言えば、その社長の真摯な仕事に対する論理や理論が、「陰謀論」を可能にしている一つの要因になっているとすらいえる。この絡み合いを解きほぐすことが、差別や偏見を考えることである。
この社長の中にある矛盾した態度は、「善悪」の分裂ではない。「善悪」の問題にすると、差別の問題見えにくくなる。そうではなく、偏見や差別を厳しく批判する論理が、ある場面では差別や偏見を支える論理に変わってしまうということだ。この問題に理屈をどうつけるのかが、この状況を「読解」する必要な「技術」だといえるだろう。単純に「善悪」で、「悪」の論理が出て来たから叩いて非難すれば、「善」の部分だけが残されるということではない。むしろそのような単純な反応をすればするほど、一人の人物の中に矛盾をしながら、差別に批判的で倫理的な論理が、一方では差別に加担するような論理に転用されることがあるという「技術」の問題を考えることができないし、その状況を考えるという態度自体を台無しにしかねない。「悪」の部分が出たから「悪」の部分を叩くのではなく、その「悪」はある時は「善」と呼ばれる「技術」でもあったはずだという、粘り強い考察が必要なのである。そうしないと「悪」と批判し、それで口を封じて考える機会を喪失させると、より深刻な無理解と分断へと進むしかない。確かに林原のブログは一読で批判されるべき内容は書いてあるとは思う。しかしそれだけを指摘したからといって、差別を支える論理の批判には、到底なり得ないだろう。
上記の問題は、今、パチンコでも考えているが実は無関係でもない。そういえば、仕事帰り、シン・エヴァTypeレイで2万発。夜は林原の声ばかり聞いて帰宅しました。
林原のブログを見ながら、最近僕が喫茶店で読書中、隣に70代くらいの、話の内容から、二人はそれなりに大きな会社の経営者・社長と思しき男性同士の会話を思い出していた。二人の話の内容は、おのおのは「本業」をもっているようだが、余剰資金で他の会社の事業を買収したり、新規におこなう事業への投資についてであろうと推測できた。話の内容から、昨今やはり環境関係の投資が堅調なんだ、という印象を持った。その二人の内の一人の社長が、社長の口から「汚穢屋」と自らを呼んで、廃棄物やし尿処理の事業について話し始めたので、その社長の「本業」が清掃やメンテナンス、清掃、ごみ処理などを大規模に展開している会社だということが分かった。「汚穢屋」というのは、勿論差別的な用語である。落語にも登場するが、社長本人も幾分「自虐」のニュアンスを響かせていたように思う。社長は「汚穢屋」が差別されながらも、どのようにそれを生業としてご飯を食べて来たのかを、もう一人の社長に話しながら、「汚穢屋」をめぐる新規事業への投資の話をしていた。清掃をしたりインフラのメンテナンスやし尿処理という、ケア労働が歴史的に差別されてきた背景を、その投資話からだけでも感じ取ることはできた。そして、「汚穢屋」と自らを呼びながらも、そこにどれほど技術的洗練があってノウハウがあるのかを、もう一人の社長に語っていたのだが、聴き手になっていた社長は、少し気後れしたというか、愛想笑い的に話を往なしており、勿論友人同士だろうが、僕から見ると少し差別的なニュアンスがその態度に現れていた。小馬鹿にしているというのは言い過ぎかもしれないが。その社長の話しからは、「汚穢屋」の歴史性、技術性、そしてある意味差別的な扱いを受けていたが故に、そこに存在する既得権益の話をしており、自虐的なニュアンスで「汚穢屋」と自らを呼びながらも、そこに存在する理論と論理、そして経験から来るであろう矜持のようなものも、その会話の中から聞き取ることができた。
だが、その話がひと段落すると、その「汚穢屋」と自らを呼んでいた社長が、「陰謀論」について話し始めたのだ。「トランプの後ろには影の政府がいる」や、「自民党の議員の三分の一以上が在日外国人で日本の国益を損ねている」などを、まことしやかに話し始めたのだ。それを聞いていたもう一人の社長は、話に乗っているところもあるけれど、それは噂だとか、本当のところはわからないなど、たしなめつつ、その話は眉唾物だと、暗にたしなめるように話していたのである。僕はその時、「汚穢屋」の歴史性や、そこにある差別や階級の構造、経済的問題、ケア技術の問題など、聞いているだけでも社会問題を考えさせられる話をしていた人物が、突然状況が変わると「豹変」してしまったことに驚くと同時に、考えるべきことでもあると思わされた。東京の23区ではほとんど見なくなったが、し尿処理のバキュームカーの話しの時、聴き手の社長がそのバキュームカーを運転し運用する職員について差別的な見解を話した時、それを厳しく訂正していた。僕は大学生になるまで下水道が整備されていない地域で育ったので、所謂「汲み取」としてのバキュームカーはおなじみだった。そういう意味では子供のころから、トイレに来てし尿処理をして運搬するさまを、見ているのが好きだった。それは工事現場でパワーシャベルを見るのが好きなのと同じ意味もあっただろうし、糞尿に対するフロイト的欲望があったのかもしれない。バキュームカーが来られない時は、ひしゃくで掬って肥桶に入れて担いで、別の場所まで運ぶ経験もしていたこともあり、バキュームカーに特別の嫌悪感は抱かないが、そういうことをしたことがない人は、嫌なのだろう。だが、その聞き手の社長の差別的ニュアンスを感じ取った「汚穢屋」を自称する社長は、すかさず職員たちの尊厳を守ろうとして、バキュームカーに対する偏見や誤解を、整然とした論理で解こうとしていた。
そのような自分の仕事にまつわる差別や歴史性、そして仕事への矜持の中で職員の尊厳を守ろうとする社長が、次の瞬間「陰謀論」を語り始め、先ほどの聴き手の社長からたしなめられる。この一貫性のなさこそ、差別を考えるときは向き合わなければならない状況なのだと思った。この職員への偏見や差別をなくそうとする社長と、「陰謀論」から「排外主義」を話し始める社長は、同一人物であり、その人の中ではそれが同居している。何故「同居」し得るのか、これは恐らく本人にもわからないだろう。そしてこれは別にその社長だけではなく、普通に僕の中にもある「同居」であるとも思う。恐らく、この「同居」は誰にでも日々生じていることなのだ。この場合、僕はこの社長に向かって、あなたは「陰謀論者」で「排外主義」だということはできるし、おそらく、ある場面では正当な社長への非難になると思う。しかしでは「汚穢屋」という偏見や差別の歴史の問題を、これまでの仕事の経験を論理的にまとめながら、あたかも歴史家のように、その歴史にまつわる偏見と差別を間違っていると、聴き手の社長に伝えようとするその人は、いったい何者なのだろうか。たぶん、この自分の仕事への見識と、後者の「陰謀論」は論理的に繋がっている。もっと言えば、その社長の真摯な仕事に対する論理や理論が、「陰謀論」を可能にしている一つの要因になっているとすらいえる。この絡み合いを解きほぐすことが、差別や偏見を考えることである。
この社長の中にある矛盾した態度は、「善悪」の分裂ではない。「善悪」の問題にすると、差別の問題見えにくくなる。そうではなく、偏見や差別を厳しく批判する論理が、ある場面では差別や偏見を支える論理に変わってしまうということだ。この問題に理屈をどうつけるのかが、この状況を「読解」する必要な「技術」だといえるだろう。単純に「善悪」で、「悪」の論理が出て来たから叩いて非難すれば、「善」の部分だけが残されるということではない。むしろそのような単純な反応をすればするほど、一人の人物の中に矛盾をしながら、差別に批判的で倫理的な論理が、一方では差別に加担するような論理に転用されることがあるという「技術」の問題を考えることができないし、その状況を考えるという態度自体を台無しにしかねない。「悪」の部分が出たから「悪」の部分を叩くのではなく、その「悪」はある時は「善」と呼ばれる「技術」でもあったはずだという、粘り強い考察が必要なのである。そうしないと「悪」と批判し、それで口を封じて考える機会を喪失させると、より深刻な無理解と分断へと進むしかない。確かに林原のブログは一読で批判されるべき内容は書いてあるとは思う。しかしそれだけを指摘したからといって、差別を支える論理の批判には、到底なり得ないだろう。
上記の問題は、今、パチンコでも考えているが実は無関係でもない。そういえば、仕事帰り、シン・エヴァTypeレイで2万発。夜は林原の声ばかり聞いて帰宅しました。
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