【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】
すごい先生たち-9
田中河内介・その8 (西海の志士たちー3・薩摩藩激派)
外史氏曰
薩摩侯を動かし、かつ薩摩の同志を得ることを目指して、文久元年( 一八六一 )十二月七日、薩摩へ発った平野國臣(くにおみ)・伊牟田尚平(いむたしょうへい)は、成功のうちに予定期限の一日前の二十四日の夕方、無事松村大成宅に帰ってきた。 この両人の薩摩行きは 「 薩摩侯は此の頃勤王の気持を奮い立たせ、専ら義挙を企てている 」 というこれまでの噂(うわさ) はどうやら本物らしいという情報をもたらし、浪士たちに薩摩は頼りに出来そうだ、薩摩によって京都に兵を挙げようという気を起させた。
しかし、島津久光は浪士たちが考えるようではなかった。 この時の判断の甘さが、後に京都義挙を失敗させ、寺田屋事件の悲劇になることは、この時はまだ誰も気付かない。
それでは、平野ら両人の薩摩入りを少し詳しく追ってみよう。
両人は別々に薩摩領に入ったが捕えられた。 伊牟田は薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき) の邸に、平野は旅館へと別々に匿われた。 勿論彼らは他との接触は許されない。 彼らは、薩摩藩の奮起を促し、「 尊攘英断録 」 を久光にさしあげるように頼んだ。 両人への対応は藩例によらず、大久保一蔵に委せられた。 大久保は両人が携えてきた中山忠愛(ただなる) の書、田中河内介の書、真木保臣(やすおみ) の 「 上書 」 及び 「 天佑・迅速の二録 」、平野の 「 尊攘英断録 」、八郎の 「 述壊詩 」 はすべて取り上げ、その筋の閲覧に供した。 当局ではこれらの書が薩摩の尊攘激派に洩れたら、彼らは一時に蜂起し、制することが出来なくなるだろうと心配し、彼らには洩れないように気を配った。
大久保は 既に前に確定した藩論を守って、妄(みだり) に諸藩の志士・浪士と合体して、軽挙妄動してはいけないとの説を持っていたが、久光上洛後の計画が失敗し、幕府との間で衝突が起きた場合には、浪士たちの勢力は大いに利用できる可能性もあると考え、二人の為に斡旋し、犯法入国の罪は許されることになった。
大久保は平野と寛談して、薩摩に於ては藩論既に決し、明春を期して主君を奉じて上京し、朝廷の為に務める考えであるとまでは言ったが、久光の卒兵上洛の大策については話さなかった。 平野は大久保の意を納得し、十七日に伊牟田と同行鹿児島を離れ帰ることに決めた。
その前日、大久保はまた平野を訪れ、藩主茂久の命だと言って、「 建白の趣旨は慎重論議の上取捨するところがあろう。 卿等は距って再び国事に勤めるところあれ。 若しまた我藩の為に補益することあれば、又来って告げ知らせよ 」 と陳べ、遠来の労を労い、金十両の餞別を贈った。 伊牟田にも同様の贈り物があった。 二人に対する接遇は大変良く、ご馳走でもてなされた。 二人はこれを以て全て首尾よくいったと判断し、大久保の真意を知らず、明春藩主茂久が東上するものと考え、大久保等は、己等と事を共にすることを促したものであると解釈した。
然るに豈計らんや。 大久保等は二人が携えてきた和泉守の天祐・迅速の二録、及び平野自身の尊攘英断録は、これらの内容が久光の意見ともあまりにもかけ離れているので、久光に見せなかったのだ。
平野・伊牟田の二人は、十七日に鹿児島を出発し、肥後の松村大成宅へ戻る途中、伊集院に来掛かると、是枝柳右衛門・美玉三平の二人が待ち受けており、二人を有馬新七の叔父坂本六郎の家に連れて行った。 そこには有馬新七(ありましんしち)・田中謙助(けんすけ)・柴山愛次郎(しばやまあいじろう)・橋口壮助(はしぐちそうすけ) 等の薩摩藩の尊攘激派の連中が待ち受けていた。 小松や大久保は、久光の挙兵上京の大策については伊牟田や平野には知らせなかったが、二人はこの大策をこの時に、彼ら激派から知らされることになった。 この時、彼らは平野らと会って、平野らに同調することを約束し、ここに薩摩藩激派と藩外志士との密約が成立した。
清河八郎の大志は、文武指南所から 虎尾の会へと姿を変え、山田大路親彦、田中河内介、中山大納言家、真木和泉守、松村大成や平野國臣らを含めてその人脈を拡大させ、それが今、薩摩藩の下士尊攘派と提携するまでとなったのだ。
清河の人を動かす説得力は何によるのだろうか。 それは生来の豪毅(ごうき) と、多年培われた高邁な学識からくる人格の力がなせるものであろう。
是枝柳右衛門 【 名は貞至(さだよし)。 鹿児島市外谷山生まれ。 代々商を営んでいた。 海内ようやく騒然たる時において家産を治めず、早く志士と交わった。 文久元年京都に出て中山忠愛に謁し皇権恢復の計を述べ、ついで松村大成、小河一敏と往復した。 寺田屋の変後、屋久島に流され、元治元年十月没、享年四十八歳 】
美玉三平 【 本名を高橋祐次郎といい、江戸に出て昌平黌在学中に清河八郎と相知った。 虎尾の会の発起人でもある。 文久三年十月、平野國臣らと但馬生野に兵を挙げて討死。 四十二歳であった 】
始め平野・伊牟田らは薩摩に門出するに当って、我等は本月二十五日を以て帰着するであろう。 一人志を遂げたなら一人功を成す。 若し二人とも帰らぬときは、事の破れたものとみなして、清河等は別に方法を取ってくれとの言を遺した。 然るにその後二人からは何等の消息もなかった。 清河・安積・松村父子は指を屈してその帰りを待ちわびていたところ、その期に先立つこと一日、二十四日の夕方に二人は無事に松村大成宅に帰着したのである。
皆は喜んで、酒席を設けてその労をねぎらい、争って入薩の状況をたずねた。 両人は列座の前で、この度の入薩は大失敗であった。 関所破りして捕えられ、所持品も全部取り上げられ、辛うじて生きて帰ってきたと報告した。
これを聞いた一同は茫然として言うところを知らず、河上彦斎の如きは、熊本より出てきて、この言を聞き、失望甚だしく、遂に醉飽(すいほう) して倒れ臥してしまった。
然しこれは偽りであることは皆さんお分かりだろう。 その夜おそくなってから、二人はひそかに真相を清河に伝えたのだ。 事実は大成功であったと。 何で皆の前で偽りを言ったのか、平野の言うには、松村父子や河上彦斎は別として、肥後人は議論ばかり多くて実行性又誠実性がないから油断はできないからだと。 それにしても、河上彦斎には少し気の毒であったかなあ!平野さん
清河たちは、明日、真木和泉守へ入薩の報告をして、今後の方策を検討する予定である。 その場でどのような新しい方策が生れるのであろうか。
つづく 次回
すごい先生たち-9
田中河内介・その8 (西海の志士たちー3・薩摩藩激派)
外史氏曰
薩摩侯を動かし、かつ薩摩の同志を得ることを目指して、文久元年( 一八六一 )十二月七日、薩摩へ発った平野國臣(くにおみ)・伊牟田尚平(いむたしょうへい)は、成功のうちに予定期限の一日前の二十四日の夕方、無事松村大成宅に帰ってきた。 この両人の薩摩行きは 「 薩摩侯は此の頃勤王の気持を奮い立たせ、専ら義挙を企てている 」 というこれまでの噂(うわさ) はどうやら本物らしいという情報をもたらし、浪士たちに薩摩は頼りに出来そうだ、薩摩によって京都に兵を挙げようという気を起させた。
しかし、島津久光は浪士たちが考えるようではなかった。 この時の判断の甘さが、後に京都義挙を失敗させ、寺田屋事件の悲劇になることは、この時はまだ誰も気付かない。
それでは、平野ら両人の薩摩入りを少し詳しく追ってみよう。
両人は別々に薩摩領に入ったが捕えられた。 伊牟田は薩摩藩家老の小松帯刀(たてわき) の邸に、平野は旅館へと別々に匿われた。 勿論彼らは他との接触は許されない。 彼らは、薩摩藩の奮起を促し、「 尊攘英断録 」 を久光にさしあげるように頼んだ。 両人への対応は藩例によらず、大久保一蔵に委せられた。 大久保は両人が携えてきた中山忠愛(ただなる) の書、田中河内介の書、真木保臣(やすおみ) の 「 上書 」 及び 「 天佑・迅速の二録 」、平野の 「 尊攘英断録 」、八郎の 「 述壊詩 」 はすべて取り上げ、その筋の閲覧に供した。 当局ではこれらの書が薩摩の尊攘激派に洩れたら、彼らは一時に蜂起し、制することが出来なくなるだろうと心配し、彼らには洩れないように気を配った。
大久保は 既に前に確定した藩論を守って、妄(みだり) に諸藩の志士・浪士と合体して、軽挙妄動してはいけないとの説を持っていたが、久光上洛後の計画が失敗し、幕府との間で衝突が起きた場合には、浪士たちの勢力は大いに利用できる可能性もあると考え、二人の為に斡旋し、犯法入国の罪は許されることになった。
大久保は平野と寛談して、薩摩に於ては藩論既に決し、明春を期して主君を奉じて上京し、朝廷の為に務める考えであるとまでは言ったが、久光の卒兵上洛の大策については話さなかった。 平野は大久保の意を納得し、十七日に伊牟田と同行鹿児島を離れ帰ることに決めた。
その前日、大久保はまた平野を訪れ、藩主茂久の命だと言って、「 建白の趣旨は慎重論議の上取捨するところがあろう。 卿等は距って再び国事に勤めるところあれ。 若しまた我藩の為に補益することあれば、又来って告げ知らせよ 」 と陳べ、遠来の労を労い、金十両の餞別を贈った。 伊牟田にも同様の贈り物があった。 二人に対する接遇は大変良く、ご馳走でもてなされた。 二人はこれを以て全て首尾よくいったと判断し、大久保の真意を知らず、明春藩主茂久が東上するものと考え、大久保等は、己等と事を共にすることを促したものであると解釈した。
然るに豈計らんや。 大久保等は二人が携えてきた和泉守の天祐・迅速の二録、及び平野自身の尊攘英断録は、これらの内容が久光の意見ともあまりにもかけ離れているので、久光に見せなかったのだ。
平野・伊牟田の二人は、十七日に鹿児島を出発し、肥後の松村大成宅へ戻る途中、伊集院に来掛かると、是枝柳右衛門・美玉三平の二人が待ち受けており、二人を有馬新七の叔父坂本六郎の家に連れて行った。 そこには有馬新七(ありましんしち)・田中謙助(けんすけ)・柴山愛次郎(しばやまあいじろう)・橋口壮助(はしぐちそうすけ) 等の薩摩藩の尊攘激派の連中が待ち受けていた。 小松や大久保は、久光の挙兵上京の大策については伊牟田や平野には知らせなかったが、二人はこの大策をこの時に、彼ら激派から知らされることになった。 この時、彼らは平野らと会って、平野らに同調することを約束し、ここに薩摩藩激派と藩外志士との密約が成立した。
清河八郎の大志は、文武指南所から 虎尾の会へと姿を変え、山田大路親彦、田中河内介、中山大納言家、真木和泉守、松村大成や平野國臣らを含めてその人脈を拡大させ、それが今、薩摩藩の下士尊攘派と提携するまでとなったのだ。
清河の人を動かす説得力は何によるのだろうか。 それは生来の豪毅(ごうき) と、多年培われた高邁な学識からくる人格の力がなせるものであろう。
是枝柳右衛門 【 名は貞至(さだよし)。 鹿児島市外谷山生まれ。 代々商を営んでいた。 海内ようやく騒然たる時において家産を治めず、早く志士と交わった。 文久元年京都に出て中山忠愛に謁し皇権恢復の計を述べ、ついで松村大成、小河一敏と往復した。 寺田屋の変後、屋久島に流され、元治元年十月没、享年四十八歳 】
美玉三平 【 本名を高橋祐次郎といい、江戸に出て昌平黌在学中に清河八郎と相知った。 虎尾の会の発起人でもある。 文久三年十月、平野國臣らと但馬生野に兵を挙げて討死。 四十二歳であった 】
始め平野・伊牟田らは薩摩に門出するに当って、我等は本月二十五日を以て帰着するであろう。 一人志を遂げたなら一人功を成す。 若し二人とも帰らぬときは、事の破れたものとみなして、清河等は別に方法を取ってくれとの言を遺した。 然るにその後二人からは何等の消息もなかった。 清河・安積・松村父子は指を屈してその帰りを待ちわびていたところ、その期に先立つこと一日、二十四日の夕方に二人は無事に松村大成宅に帰着したのである。
皆は喜んで、酒席を設けてその労をねぎらい、争って入薩の状況をたずねた。 両人は列座の前で、この度の入薩は大失敗であった。 関所破りして捕えられ、所持品も全部取り上げられ、辛うじて生きて帰ってきたと報告した。
これを聞いた一同は茫然として言うところを知らず、河上彦斎の如きは、熊本より出てきて、この言を聞き、失望甚だしく、遂に醉飽(すいほう) して倒れ臥してしまった。
然しこれは偽りであることは皆さんお分かりだろう。 その夜おそくなってから、二人はひそかに真相を清河に伝えたのだ。 事実は大成功であったと。 何で皆の前で偽りを言ったのか、平野の言うには、松村父子や河上彦斎は別として、肥後人は議論ばかり多くて実行性又誠実性がないから油断はできないからだと。 それにしても、河上彦斎には少し気の毒であったかなあ!平野さん
清河たちは、明日、真木和泉守へ入薩の報告をして、今後の方策を検討する予定である。 その場でどのような新しい方策が生れるのであろうか。
つづく 次回