日本国家の歩み 


 外史氏曰

   すばらしき若者たち
 
   祖国日本の行く末

  

ものすごい先生たちー8 ( 清河八郎の遊説  ・真木和泉守 )

2008-04-17 19:44:04 | 幕末維新
【 吉田松陰 ・田中河内介 ・真木和泉守 】

すごい先生たち-8

田中河内介・その7 (西海の志士たちー2)

外史氏曰

真木和泉守 【 名は保臣(やすおみ)、号は紫灘。 久留米水天宮の祠官。 江戸・水戸に遊び、水戸の会沢正志斎(あいざわせいしさい) の影響を受けた。 文久二年、尊攘運動に投じ、寺田屋の変に失敗、薩摩に失望して長州藩に身を託す。 禁門の変に破れ、天王山で自刃、享年五十三歳 】

 真木和泉守は今楠公(いまなんこう) と呼ばれるほど楠公さん( 楠正成 ) を崇拝、そして楠公の生き方を常に自分の人生の手本としていた。当時、真木( 49歳 ) は久留米の南四里の水田の弟大鳥居理兵衛( 敬太 )宅に幽閉され、もうかれこれ十年近くにもなっていた。
 真木は幽閉中、近親者・地域の有志の要望に応じ、庭の一隅に四畳と四畳半の二室を備えた粗末な小屋を建て、それを山梔窩(くちなしのや) と名づけて塾とし、そこで生活していた。 塾の特色は実践を尊び、心身の両面を鍛錬し気力の充実を計ることにあった。 後に真木和泉守の門人は、楠公の一族・一門がそうであったように、国事に奔走してことごとく国に殉じてしまった。 真木さんもすばらしい絶対の教育者であった。

 清河は真木さんのことを 「 其の体五十位の惣髪(そうはつ)、人物至ってよろしく、一見して九州第一の品格顕(あら) はる。 頗(すこぶ) る威容あり 」 とその著 『 潜中始末 』 に記している。   

 八郎は真木と談論後、其の夜は角(すみ) 照三郎の家に帰って泊まった。 翌日も早朝から両人は密議を凝らした。 八郎は 「 薩摩を動かすと同時に、豊後岡藩の同志をも奮起させるため、旧知の小河一敏に会見する必要があるんだが、岡藩には同門の剣客が多くいて、自分の顔はよく知られているので都合が悪い 」 旨を告げると、真木は 「 従来諸君は頗る国事に苦労して居られるから、此度は此方で及ぶだけの事をする。 それにしても人選が大切である 」 と言って、淵上郁太郎(いくたろう) に命じ、久留米に居る一族を水田に呼び寄せることにした。

 十日の夜には 真木の弟 大鳥居を初め、真木の嫡子で当時水天宮の神主であった主馬、主馬の後見なる真木の弟 上瀧外記が水田に集会した。 一応挨拶が済むと真木は、清河殿が来られた趣意を一同に申し聞かせるからと言って清河に退席を乞い、自ら角(すみ) 照三郎の家まで清河を送った。

 翌日早朝、和泉守は八郎の許に来て、「 昨夜父子兄弟、篤(とく) と談合の上、今度の一条は容易ならざる時勢のことなれば、一家悉(ことごと) く大義の為に身を献げることを誓った 」 と告げ、小河への使者には弟 上瀧外記を遣わすことに決め、出発は十二日早朝と決めたとのことであった。 八郎は思わず、和泉守の赤心の精なるに感激した。
 八郎は三日間にわたり 真木一党と充分に懇談打ち合わせして、十一日に松村大成のところに帰ってきた。

 それにしても、真木和泉守という人はやはりすごい人や! 真実味があり、とても誠実な人だなあ、泣かせるじゃないか!  このような人柄が多くの人を引き付けたんだな。 この人に、この師に命を託しても良いと。 つまり人間として大変な魅力があったんだ。 これも絶対の教育者としての共通項になるかも知れんな!


 八郎は真木とも相談の上、阿蘇大宮司惟治を説得する積りであったから、十三日、和泉守の弟・上瀧外記と安積五郎と共に松村方を出て、翌日阿蘇の宮地に着いた。 阿蘇の大宮司は神武以来の旧家で、九州神主の随一であるのみならず、当時の大宮司惟治は憂国勤王の聞え高く、十年以前にもなるが、真木と会見して、朝廷有事の際には必ず共に身を致すべしと誓った間柄である。 近頃は因循姑息に流れているとのことであったが、一度起てば九州一円を動揺させる絶大なる力を持っているので、八郎は真木の添書を以て外記と共に之を尋ねた。 外記は予てから大宮司と知り合いである。 最初応対は冷たかったが、話をするうちに次第になごやかになった。 そこで八郎は本題に入った。 大宮司は 「 これは大事なれば、能く考えて、明夕返事いたそう 」 ということであった。 その夜は一先ず辞して宿に退った。

 翌日、安積・外記の両人は、八郎の書簡を携えて豊後・竹田の小河一敏に会うため豊後路を急いだ。
 その夜、八郎は大宮司に迎えられて独りで出かけた。 大宮司は 「 自分も色々考えてみたが、家来のうちに必死の者も居らず、且自分も老年となって必死の覚悟がない、敢て免れる心はないが、諸君と共に天下に先だって義を挙げる事は、残念ながらできない 」 と、正直に事情を打ち明けた。 八郎は、又の機会もあるでしょうからと慰めた。 大宮司の臆病が知れ渡っては優柔不断の肥後人や、九州全体の義気にも影響すると思って、このように慰めたのである。 八郎曰く 『 高位富貴の者は何れも同じ事、天性よき人物ながらも、よき家来なき為に、酒食に流れ遂に志を損じたる者成 』 と。

 一日隔てて小河一統との盟約に成功した安積・外記両名が帰ってきた。 その報告によると、小河は非常に悦び、同志の数の少ないのは残念だが、必ず諸君の志に後れないとのことであった。 清河は安心し、十五日に外記を真木方に帰し、自分は熊本へ赴き、自ら肥後勤王党の面々に対して遊説を試みたが、雄弁が逆に災いしてか、遂に失敗に終わった。 その夜は河上彦斎(げんさい)の家に泊まった。


 肥後人は八郎の決死の弁舌を、浮浪が人を惑わすものであるとし、軽挙妄動で一緒に事をなすのは危険と見た。 そして松村大成に、「 あんた八郎を信用しすぎているのとちがうか 」 とも言った。 清河八郎の懸命の努力も空しく、肥後において遊説が成功しなかったのは、清河が雄弁過ぎたせいもあろうが、「 議論倒れ 」 と自他共に許しているほど、弁舌口論の好きな肥後人は、雄弁すぎる清河八郎を、似たもの同志として嫌ったのだろう。 また、清河は清河で、平野から吹き込まれた先入観を持って、「 でも必ず説得してみせるぞ、俺には自信があるぞ! 」 と気負って会談に臨み、熊本側は、かの有名な雄弁家清河に対抗しようと待ち構えていたのだから、両者の協議はうまくいくはずはない。 清河はがっかりした。 そんなこんなで、肥後は明治維新のバスに乗り遅れてしまうことになったんだ。

 清河が松村邸に帰ったのは十九日であった。 そこで先に薩摩へ赴いた平野・伊牟田尚平の帰りを待った。
     果たして薩摩からの吉報は聞けるのだろうか。

              つづく 次回

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