随縁記

つれづれなるままに、ものの歴史や、社会に対して思いつくことどもを記す

お札の話  ④国産紙幣

2012-07-14 14:51:11 | Weblog



初めての国産洋式紙幣。
 横に長い洋式のデザインが取りいれられ、印刷局(当時大蔵省紙幣局)がヨーロッパから移入した最新の技術により製造された。
 現在の中央銀行制度が導入される以前、各地に設立された国立銀行が発行した紙幣。
 一圓札は、右に水兵の図を描くことから「水兵札」の異名をもつ。 
 五円紙幣は鍛冶屋の図を入れている





 新紙幣に代わる初めての肖像入り「改造紙幣」発行。
神功皇后(じんぐうこうごう)像が肖像に使われたため「神功皇后札」と呼ばれた。
 これまで発行された紙幣のなかでは最初の女性肖像入り。
 神功皇后は伝説的な人物であり、当時も肖像画などはなかったため、想像して描かれた肖像である。
 紙幣寮(現大蔵省印刷局)のイタリア人彫刻家エドアルド・キヨソネが原版を作成したため、その風貌は外国女性風になっている。

お札の話 ③国立銀行紙幣 兌換紙幣

2012-07-12 12:37:17 | Weblog




当時は金本位制と兌換紙幣制が国際的な流れであり、明治政府が発行する不換紙幣の「明治通宝」では国際的には近代国家として認知されない。
こうした背景で、国際的な立場からも日本でも「兌換紙幣」を発行する必要性があった。
 明治政府はアメリカの制度に範をとり、明治5(1872)年に国立銀行条例を公布して、政府発行の不換紙幣の回収整理、兌換制度確立、殖産興業資金の供給を目的とした国立銀行制度の導入を図った。

 そこで財政基盤が無い明治政府は、金本位制度の確立を民間に任せることとし、兌換紙幣制度の確立を民間に任せた。
 政府は、民間に高まった銀行設立の機運を捉え、民間銀行に兌換銀行券を発行させる
ことになった。国立銀行条例に基づいて設置された、あくまでも民間銀行である。
 このため、国立銀行は、兌換銀行券発行相当額の「日本政府国債証書」を大蔵省に預けた。
 この国立銀行は当初4行が設立され、金貨と兌換できる紙幣の発行が認められた。
 こうして明治6年8月から発行された紙幣が「国立銀行紙幣」である。
 こうして明治6年(1873年)国立銀行紙幣(旧券)を製造をアメリカに依頼して発行した。しかし金貨の不足から経営不振に陥り、やむなく国立銀行条例を改正し「不換紙幣」の発行が認められるようになった。そからは銀行の数が急増し、新たな国立銀行紙幣(不換紙幣)が発行された。

お札の話  ②明治通宝(めいじつうほう)

2012-07-12 12:16:32 | 歴史
 


太政官札の発行のあと、近代国家の整備のため共通通貨として「円」を採用し、近代的紙幣を導入した。
このお札が「明治通宝(めいじつうほう)」で、1872年(明治5年)4月に発行され、民衆からは新時代の到来を告げる斬新な紙幣として歓迎され、雑多な旧紙幣の回収も進められた。
 新貨幣の呼称を円とするとともに、金貨を本位貨幣と定め、金1.5g=1円と定めたのである。新貨条例では、本位金貨に加え、貿易上の便益をはかる目的で1円銀貨(貿易銀)の鋳造と、開港場での無制限通用を定めていた。

 日本では西洋式印刷術による初めての紙幣として有名である。
 ただ、まだ近代的紙幣の印刷技術がなく、偽造防止のためドイツ・フランクフルトの民間工場で製造された。このことから「ゲルマン札」の別名がある。
 これは「エルヘート凸版」による印刷が、偽造防止に効果があるとの判断からである。
太政官札1両を、明治通宝1円として交換された。
 やがて「明治通宝」に不便な事があることが判明した。
 まずサイズが額面によっては同一であったため、それに付け込んで額面を変造する不正が横行したほか、偽造が多発した。また紙幣の洋紙が日本の高温多湿の気候に合わなかったため、損傷しやすく変色しやすいという欠陥があった。
その後、当初の契約通り技術移転が行われ、印刷原版が日本側に引き渡された。そのため明治通宝札は日本国産のものに切り替えられ、折りしも1877年(明治10年)に勃発した西南戦争の際には莫大な軍事費支出に役立つこととなった。


お札の話  ①太政官札

2012-07-07 23:39:24 | Weblog


日本初の全国に通用する紙幣は太政官札と呼ばれている。
 明治政府によって慶応4年5月から明治2年5月まで発行された「政府紙幣」で、金札とも呼ばれた。
「通用期限は13年間」との期限を決めた紙幣である。
 江戸時代の貨幣も流通していたため、通貨単位は江戸時代に引き続いて両、分、朱のままであった。実際に発行されたのは4,800万両であった。
 1879年(明治12年)11月までに、新紙幣や公債証券と交換、回収されるまで流通した。
 成立したばかりの明治政府は、戊辰戦争に多額の費用を要したため、資金不足をう目的で発行された。
ただ、まだ新政府の信用が低く、不換紙幣であった太政官札は流通は困難をきわめ、太政官札100両を以て金貨40両に交換するほどであったらしい。
ところが、金貨で一番流通していた二分金(にぶきん)に贋物が出回り、その他の政策もあり次第に太政官札が流通した。
 ところが、太政官札の偽札が流通し始め、真贋の区別が難しくなったため、流通は再び滞るようになった。
(続く)

金に糸目は付けぬ

2012-07-02 11:47:18 | 経済

 古風な表現だが「金に糸目は付けない」という表現がある。
 その価値を見いだしたものには、大金をつぎ込むという意味に使われる。
 実は、「糸目」とは貨幣単位のひとつであった。
 戦国期から江戸初期に流通した金貨の一種に「甲州金」があった。

 かつて甲斐(山梨県)には、黒川金山(きんざん)や湯之奥金山などで豊富な埋蔵量があった。
 武田信玄の時代には、南蛮渡来の掘削技術や精錬手法を取り入れ、莫大な量の金を産出した。これらの採鉱された金(きん)で、戦国時代最強の武田騎馬軍団をつくり、領土を拡げたのである。この有力な財源として、金貨を鋳造し流通させた。
 
 甲州金は、当初は砂金や金塊の状態であったらしい。
 次第に板金(いたがね)、碁石金(ごいしきん)、延金(のべがね)などが造られた。いずれも重量をはかって、その交換価値を算出する秤量貨幣(ひようりようかへい)であった。

 その後、武田信玄の時代に、四家に鋳造の特権を与え、鋳造や秤量の技術進歩で、量目(りようめ)(目方、重さ)単位が確立した。
 つまり一定の量目単位と形状に鋳造し、表面に一定の価格を表示した計数貨幣となったのである。

 その量目単位は、「四進法」が用いられた。
 金1両は、金4匁(もんめ)(15グラム)と定められた。
 これを基に1両の4分の1が1分(ぶ)、1分の4分の1が1朱と定められた。
いずれも円形の金貨であった。つまり1朱は1両の16分の1で、0・25匁(=0・94グラム)の金で造られ、その金の量目が正確であった。
その下に「二進法」の方形金貨がある。
 1朱の2分の1が朱中(しゆなか)、朱中の2分の1が糸目(いとめ)、糸目の2分の1が小糸目と、七段階に体系化されていた。
 つまり「糸目」とは、金0.235gのことである。
7月2日の金相場価格は、グラム当たり 4,335円である。
 この価格を強引に「糸目」に引き当てると、1019円に相当する。
 ついでながら、歴史的価値を無視すれば、甲州金1両は、6万5千円程度に換算できる。

 日本の貨幣は、律令時代に銅銭の「和同開珎(わどうかいちん)」が鋳造されたことがあるが、のちに貨幣経済が十一世紀あたりで一時途絶えた。このため十二世紀後半から、宋銭や明銭などが輸入され流通していた。いずれも円形の銅貨であった。

 この甲州金は、江戸時代に入っても、唯一の例外として公認された地方貨幣として、文政年間(1818~1829)まで鋳造や通用が認められ、徳川幕府の貨幣制度でも立派に通用したという。
 武田信玄が定めた貨幣制度の四進法は、徳川家康が踏襲し、江戸幕府の貨幣制度に採用されている。それだけ普及していたといえる。
 戦国武将では、織田信長が領地経営で経済を重視し、楽市楽座などを設け、先進的な領地経営を行っているが、武田信玄のように、通貨を発行するという考え方は持っていなかった。いかに武田信玄が、経済というものに明るかったかがわかる。

金に「糸目は付けない」の糸目の語源は、この甲州金からきており、金額が小さい象徴である。さらに「太鼓判を捺(お)す」の慣用表現も、この甲州金の量目や形態に由来するといわれている。つまり太鼓判は太鼓形の1両を表し、転じて確実な保証の意を表している。



社会的なヒステリーについて

2012-06-28 12:02:23 | 社会批評
 最近、報道などで、「絶対反対」という行動がクローズアップされている。

 「消費税値上げ 絶対反対」
 「原子力発電再稼働、絶対反対」
 「電気料金値上げ、絶対反対」
 「東北の震災ガレキ受け入れ 絶対反対」
 「普天間基地へのオスプレー配備、絶対反対」
 近くでは、「市民病院の移転建設絶対反対」

 ともかく、世の中に「絶対反対」の意見が多い。
 それぞれに立場が違えば、意見が異なるのはあたりまえです。
 それぞれが、それぞれの意見が言える、行動を起こせる自由は有り難い。
 しかし、反対意見があっても、民主主義である以上、多数意見に従わねばならない。

 ときとして、実力行使が行われたりする。
 震災ガレキの試験焼却のため、持ち込まれた車の前に立ちはだかり、
声高に叫ぶ人たちが居た。

「命が大切だ」「環境汚染を持ち込むな」
と、科学的な根拠もない、ヒステリーのような行動には唖然とする。
 日本人としての「絆」はどこへ行ったのか。

 そもそも日本人は近隣社会の絆を大切に育んできた。
 今日のグローバルな社会では、「オラが町」や「おらが村」だけが近隣では無い。
 日本全体が一つの近隣社会といえる。
 
 いたずらに「絶対反対」ではなく、もっと最善の道をみつける知恵をだしあったらどうだろうか?
 突出した「絶対反対」は、いわば社会的なヒステリーだと思っている。

Facebookに登録

2012-06-28 11:49:50 | Weblog
 久しぶりにブログの更新です。

 見よう見まねで、Facebookに登録しました。
 世界最大のSNSで、中東では政権すら倒す力がある。そういうものの存在は知っていましたが、
自分がそのネットワークに入るには知識不足で躊躇がありました。
 しかし、時代に遅れないようにと、思い切って登録を試みました。
 覆面社会といわれる中で、自分の顔をみせるネットワークは、社会的な存在意義があると思います。
 ただ、未だ十分に使いこなせるか、ちょっと不安です。

 最近「健康寿命」という言葉が使われ出しました。
 介護を受けず、いつまでも自立して、さらには社会との関わりを維持し続ける。
 この基本に立ち返り、ブログの更新や、Facebookにもアクセスしていきたいと思います。

原油価格高騰と投機マネー

2008-05-28 12:49:27 | 経済
原油価格高騰と投機マネー


 再々に渡ってガソリン価格が上昇している。
 ガソリンを入れるたびに、価格が高騰しているという実感がある。こんなに急激にガソリン価格が上昇し続けることは、かつて経験したことがない。
 まさに異常な原油価格の高騰であり、あらゆる産業分野や化学製品などにも影響を与えており、さらには穀物などの農産物の価格上昇まで招いている。
 まさに世界的なインフレの状況を呈しているといえる。

その原因は、投機マネーの仕業である。
 報道によると、原油価格は投機マネーにより、実勢価格の1・5倍以上に膨れあがっているという。
 政府が発表した2007年度のエネルギー白書によると、原油や穀物などの一次産品に投資する「商品インデックスファンド」の投資残高は1800億ドルあり、その内3分の1にあたる約500億ドルが原油取引に流入しているという。この投機資金が、原油価格の高騰の元凶とみなされている。

 そもそも、世界的な余剰資金である「投機資金」は、産油国のオイルマネーが1・5兆円、世界の年金資産が約1・5兆円、新興国マネーが約2兆円といわれている。
 これらの膨大な「投機資金」が、「機関投資家」や「政府系投資ファンド」、「ヘッジファンド」などさまざまなファンドを通じて、世界のさまざまな金融商品や株式市場や土地投機や商品先物市場などに流れ込んでいる。
 そのひとつが、アメリカの低所得者向けの住宅ローンの「サブプライムロー」ンであった。このアメリカを発生源とした「虚構のサブプライムローン」が、証券化され細分化されて、世界中の金融機関や機関投資家、あらゆる投資ファンドに組み込まれた。
 この「虚構のサブプライムローン」が当然破綻を来たし、世界中の金融機関に大損害を与えた。

 アメリカの経済的行き詰まり感から、行き場を失ったこれらの投機資金が、「商品インデックスファンド」に大量に流れ込み、原油取引や穀物取引に流れ込み、この異常な高騰の原因となっている。
 特に原油はあらゆる産業の根幹をなしている。
 大規模な穀物生産や遠洋漁業などにも石油が大量に消費されている。様々な商品や資材も流通段階で石油を必要としている。その価格高騰に波及的な影響は計り知れない。
 また、中国などの新興国の経済成長にともなう石油の消費が急増し、産油国の増産余力も少ないという。
 人類の英知で、この限られた資源の消費を抑える努力と、一方で異常な高騰を抑制する市場制限を課することはできないものか。

後期高齢者医療制度

2008-05-17 12:04:12 | 社会批評
後期高齢者医療制度

 これは政治問題というより、大きな社会問題としても取り上げるべき問題と思う。
 そもそも、後期高齢者とは一体どういう人達であろうか 。
 誰しも一気に年齢を重ねるわけではない。当然、働き盛りの長い現役の時代には、日本の戦後復興期や、その後の不況期を乗り越えて高度成長期を支え、粒々辛苦して仕事に励
んできた。
 高い所得税や年金を積み立て、さらに高い社会保険料を払いつつも、まずは病院に掛かることもなく、元気に乗り切って人たちである。

 戦後の日本経済を支え続けて、ようやく豊かになった日本で、老後の悠々自適の生活を楽しむ世代である。
 孫やひ孫たちに囲まれ、少しでも経済的に豊かになった日本で 、衰えつつある身体を労りつつ、少しでも長生きを楽しみたいと思っている世代である。
 当然、身体の衰えには逆らえず、さまざまな疾患を抱えている。だからこそ、長い現役の時代に、高い医療費を負担し続けてきたその見返りを、高齢になったいまこそ、享受できるはずである。
 彼らの現役世代に負担し続けた社会保険料は、当然、当時の高齢者の医療費に大半が宛がわれたことは想像に難くない。
 そもそも健康保険制度とは、現役世代の健康な人々が保険料を負担し、高齢の弱者が享受するという仕組みである。

 ところが、いざ自分たちが高齢になって、医療保険の恩恵に浴すべき年代になった時、社会保険料を負担すべき若い世代が減少していて、高齢者の医療負担をするには現役世代の負担が大きすぎるとの理由から、一般の社会保険制度から切り離された。
 要は、膨らんだ医療費負担の削減が必要だから、病院通いの多い高齢者は、別途、「後期高齢者医療保険」として切り離し、応分の負担をせよという仕組みである。
 切り離されれば、当然、後期高齢者の保険料負担が必要となる。
 言わずもながら、後期高齢者とは社会的には弱者に属する。
 多くの人々が、年金生活に入っている。子供達がいれば、当然その扶養家族となっている場合が多い。
 ところが、突然、その仕組みを壊し、改めて後期高齢者医療保険制度に組み入れられ、保険料を年金から天引きをはじめた。
 後期高齢者にとっては、まさに青天の霹靂の事態てに遭遇したといえる。
 そもそも憲法に保障されている「健康で文化的な生活」をおくる権利は何処へ行った。
 
このまま社会保険で医療費負担が増加し続ければ、やがて社会保険制度そのものが崩壊すると言う。
 つまりは、少子化が進み、いわゆる団塊の世代が退職し始めると、社会保険料が現役世代の負担能力を超えてしまい、社会保険制度そのものが崩壊するともいう。
 
 しかし、このような事態は、当然予測されたことである。
 突然に湧いてきた話ではない。なのに、政治的には何の手だてもされず、縦割り行政の役人の考える保険制度という枠の中だけで話が進行している。
 政治家のリーダーシップが全く見えず、まさに全体像を見る能力のない、自己保身に汲々とする小役人のいうままに新しい保険制度が発足した。
 そもそ、役人とは無責任で、自己保身しか考えない下等人間である。
 社会保険庁の無責任な年金制度の管理に言を待つもでもなく、国土交通省の道路特定財源の無駄遣や、無責任な高い道路建設と無駄なダム建設、農林水産省の無責任な農林行政、外務省の無駄遣いなど、上げればきりがない程の行政の無駄が多い。

 こういう事態こそ、政治家の出番ではない。
 そもそも、何のために政治があるのか。
 強者だけが生き残り、弱者が滅ぼされるような社会を矯正するために政治は存在するはずである。社会的な弱者を救うことこそ、政治ではないのか。
 弱者もそれなりに生を全うし、努力した者が報われる社会でなくてはならない。
 それに逆行する後期高齢者医療保険制度は、まさに政治の無責任である。
 その能なしの政治家を、人気投票のようにして選んできたり、我田引水のような政治家に投票してきた人々も同罪といえるかもしれない。
 ともかく、弱者の我々が気を取り直して、政治家を真剣に選び、大きな社会問題を自らの手で直していかねばならない。
 社会的な弱者こそ、いま手を携えて立ち上がる時である。

紙布

2006-09-04 10:17:27 | Weblog
和紙の歴史


紙布

紙衣とは別に、紙を細く切り撚って紙糸にしたものを織機で織り上げた紙布も衣料として利用された。 
紙糸を経緯ともに用いたもの諸紙布という。経糸に絹・綿・麻糸を使い、緯糸に紙糸を使ったものを、絹紙布・綿紙布・麻紙布という。 
柿渋を引いた紙衣と違い、織機で織ったちゃんとした織物で、軽くて肌触りがよく特に女性の夏衣として珍重された。
紙布が生産されるようになったのは近世に入ってからで、正保二年(1645)の『毛吹草』、元禄五年(1692)の『諸国万買物調方記』などに、陸奥の特産として紙布をあげている。
正徳三年(1713)の『和漢三歳図絵』に紙布について、

「按ずるに紙布は紙を撚り、線のごとくにして織る。奥州白石より出ず。
    人以て襦となす」

 とある。宮城県白石市の特産で、当初は奉書紙の反故紙で紙糸を作って織ったと考えられている。
仙台藩の白石城主片倉家は、紙衣や紙布つくりを奨励し、さまざまの工夫を重ねて技術改良された。
江戸中期からは、この紙布が幕府に献上されるようになり、京都の公家たちへの進物ものとなっていた。
紙布の織り方も始めは平織りだけであったが、細かい皺のある縮緬織りや、斜文にした雲斉織、杉綾織、竜紋織など高級品も開発されている。
紙布用の紙糸の原紙は、当初は奉書紙の反故紙を細く切って糸に撚っていたが、後には専用の紙を漉いて用いるようになった。紙衣は十文字漉きを行ったが、紙布の場合は縦方向にだけ揺すり、紙糸にしたとき繊維の方向が一定で紙糸の強さが出るようにカジノキの一種の長繊維を丹念に精選してセルロースだけの長い繊維のまま漉いている。
白石の紙布は、明治六年にウィーン万国博に出品して進歩賞を受け、大正三年の大正博覧会まで出品されていたが、やがて作られなくなっている。
白石の紙布とは別に、明治期にはガンピを原料とした紙布で壁紙が作られるようになった。
 明治二十三年の第三回内国勧業博覧会に、東京本所の今井直四郎が紙布壁紙を出品している。