2012年3月30日
訪問診療。
水曜日はいろいろあって見舞いには行かず。
いつものように訪問、「こんにちは~。おじゃましま~す」ってあがると遠くから「あ~い」っといつもよりは少し小さな声で迎えてくれる。
喫煙は続いている。この部屋はいつも紫煙に包まれている。
むせるぜ。マスクが必要だぜ。あんなに愛煙家だったのに今はすっかり嫌煙家。
オババにとってタバコとは人生の伴侶のようなものなんだろう。
しゃあない。寝たきり、楽しみはタバコと時々見舞いに来てくれる人たち。
毎日毎日 四六時中 布団に横になって天井ばかり見ていたら気が狂うだろうな。
もし自分がこの立場だったら?耐えられないだろう。思うように体は動かない、動くとしたら寝返りのみ。
俺15歳の時バイクで電柱に突っ込んで骨折して入院したんだけど、2週間ベッド上生活だった。まあ、手術してそのあとからは離床できたんだけど。2週間の間にいろいろ考えた。
「このままずっと歩けなくなるんじゃないか?」
「障害が残ったら・・・」
「あ~あ、とことんついてない。人生終わったって感じ」
置いていかれちゃった。って感じで、社会からの疎外感を感じた時、人って思いっきり心が折れる。
あっけないくらい、ポキッて。
無気力・無感情、自業自得だって自分を責めても後悔してみても、な~んにも変わらない。
結果が残るのみ。
なんて人生は無常なんだろうと思う。
呼吸音:RATTINGは消失。
訪問するたびに感じること。オババから牙(オラオラ感)がなくなっていく。
キューブラー・ロスという精神科医が昔いて「死の受容過程」ってのを唱えてた。経験的に全ての過程を通過することはあまりなくあってもその時間は個人によって長かったり、短かったり様々。
1週間もしないうちにいろんな葛藤を抱えたりしていつの間にか死を受容している人もいれば、初見の時から既に達観の域に達していると思っていたのが最後の最後で乱れたり。
人それぞれだ。
オババは元気だった時は「オレはもういつ死んだっていいんだ!!」って言ってたけれど、ちょこっと具合が悪くなった時に会った時は(杖ついてヨボヨボしてた)「アタイ、もうちょっと生きたいんだよ」って言ってた。
どっちも本音なんだろうね。その時のコンディションに応じた自分の本音。嘘ではない。粋がってもいない。
自分に余裕のあるときは他者に対して思いやりを持てる。でも、自分に余裕のないときは他者に対して思いやりを持てるか?なんていうとそれは難しいと思う。
「自分を犠牲にしてでもその人に尽くしても良い」ってなかなか思えないと思う。
さきほど話に出したキューブラー・ロスさんは自身の終末の時、悪態をついて死んでいったようだ。
知る人ぞ知る有名な話。誰も死んだことなんてないんだし、未知なものに不安を抱えるのは当然のことだと思う。
まあ、きっと呆けていたのもあるのだろうけれどね。
俺も看護師って名称をなんとなく名乗って早13年目。
死亡症例には数えてないけど、相当数経験してる。別に特別な感情なんて一切持ったことがないけれど。
そういうと「心が無いんだね」とか訳ワカンナイこという人に時たま出会ったりすることあるけれど、その人の最期に接する時ちゃんと看取っているよ。て思うこともたまにある。
いろんな人の最期を見ていて(病院、在宅限定)、ときどき思うことがある。
自分の死に様ってどういうふうになるんだろう???って。
この度 不思議なことに、興味が沸いたのでオババの事を日記にしているけれど、今はこれを書き止める余裕があるから書けるんだな。
何年か後に読み返したら、思い出がよみがえってきて楽しいんだろうね。
どうなんだろうね。
still I don't knowって感じ?
訪問診療。
水曜日はいろいろあって見舞いには行かず。
いつものように訪問、「こんにちは~。おじゃましま~す」ってあがると遠くから「あ~い」っといつもよりは少し小さな声で迎えてくれる。
喫煙は続いている。この部屋はいつも紫煙に包まれている。
むせるぜ。マスクが必要だぜ。あんなに愛煙家だったのに今はすっかり嫌煙家。
オババにとってタバコとは人生の伴侶のようなものなんだろう。
しゃあない。寝たきり、楽しみはタバコと時々見舞いに来てくれる人たち。
毎日毎日 四六時中 布団に横になって天井ばかり見ていたら気が狂うだろうな。
もし自分がこの立場だったら?耐えられないだろう。思うように体は動かない、動くとしたら寝返りのみ。
俺15歳の時バイクで電柱に突っ込んで骨折して入院したんだけど、2週間ベッド上生活だった。まあ、手術してそのあとからは離床できたんだけど。2週間の間にいろいろ考えた。
「このままずっと歩けなくなるんじゃないか?」
「障害が残ったら・・・」
「あ~あ、とことんついてない。人生終わったって感じ」
置いていかれちゃった。って感じで、社会からの疎外感を感じた時、人って思いっきり心が折れる。
あっけないくらい、ポキッて。
無気力・無感情、自業自得だって自分を責めても後悔してみても、な~んにも変わらない。
結果が残るのみ。
なんて人生は無常なんだろうと思う。
呼吸音:RATTINGは消失。
訪問するたびに感じること。オババから牙(オラオラ感)がなくなっていく。
キューブラー・ロスという精神科医が昔いて「死の受容過程」ってのを唱えてた。経験的に全ての過程を通過することはあまりなくあってもその時間は個人によって長かったり、短かったり様々。
1週間もしないうちにいろんな葛藤を抱えたりしていつの間にか死を受容している人もいれば、初見の時から既に達観の域に達していると思っていたのが最後の最後で乱れたり。
人それぞれだ。
オババは元気だった時は「オレはもういつ死んだっていいんだ!!」って言ってたけれど、ちょこっと具合が悪くなった時に会った時は(杖ついてヨボヨボしてた)「アタイ、もうちょっと生きたいんだよ」って言ってた。
どっちも本音なんだろうね。その時のコンディションに応じた自分の本音。嘘ではない。粋がってもいない。
自分に余裕のあるときは他者に対して思いやりを持てる。でも、自分に余裕のないときは他者に対して思いやりを持てるか?なんていうとそれは難しいと思う。
「自分を犠牲にしてでもその人に尽くしても良い」ってなかなか思えないと思う。
さきほど話に出したキューブラー・ロスさんは自身の終末の時、悪態をついて死んでいったようだ。
知る人ぞ知る有名な話。誰も死んだことなんてないんだし、未知なものに不安を抱えるのは当然のことだと思う。
まあ、きっと呆けていたのもあるのだろうけれどね。
俺も看護師って名称をなんとなく名乗って早13年目。
死亡症例には数えてないけど、相当数経験してる。別に特別な感情なんて一切持ったことがないけれど。
そういうと「心が無いんだね」とか訳ワカンナイこという人に時たま出会ったりすることあるけれど、その人の最期に接する時ちゃんと看取っているよ。て思うこともたまにある。
いろんな人の最期を見ていて(病院、在宅限定)、ときどき思うことがある。
自分の死に様ってどういうふうになるんだろう???って。
この度 不思議なことに、興味が沸いたのでオババの事を日記にしているけれど、今はこれを書き止める余裕があるから書けるんだな。
何年か後に読み返したら、思い出がよみがえってきて楽しいんだろうね。
どうなんだろうね。
still I don't knowって感じ?