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硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

 夢殿

2007年07月11日 | 季節の移ろいの中で

 

 

 

夢殿

 

  

 法隆寺・夢殿は、私の憧れの御寺です。

春秋一般公開があるのですが、春の一般公開は格別の歓びです。

型の櫻の花びらで、枝垂れ櫻が、夢殿の直ぐ脇で咲いてくれるからです。

最も大型の櫻は太白と言う品種の櫻があるのですが 

その大きさと殆ど変わりませぬ。白に近い淡いピンクの花で、

その美しい御姿はとても印象が強いです。

美しい八角円堂の御堂とうまくマッチして、

何とも妙なる美となっているのです。

 

 聖徳太子が住まわれた斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、

聖徳太子の御遺徳を偲んで、天平11年(739)に建てた

伽藍を上宮王院(東院伽藍)と言います。

その中心となる建物がこの夢殿です。

八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身大と伝えられる

秘仏救世観音像(飛鳥時代)が安置され、

その周囲には聖観音菩薩像(平安時代)、

乾漆の行信僧都像(奈良時代)、

平安時代に夢殿の修理をされた道詮律師の

塑像(平安時代)なども安置されております。

この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、

まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための殿堂として、

神秘的な雰囲気を漂わせて立っています。

 

 救世観音(くぜかんのん)は、明治17年(1884年)

古都の美術調査をしていたアメリカ人学者フェノロサと

東洋美術の先駆者である岡倉天心が、

法隆寺に来て厨子をあけるまで、

何百年も間日の目を見ることがありませんでした。

寺僧が、厨子をあければ仏罰によって寺塔が倒れると言って

夢殿の扉を開けることを許さなかったのですが、

再三の説得によって、開扉すると、

幾重にも巻かれて白布にくるまった一体の像があり、

グルグル巻きの白布を取り除くと、

像高178.8センチの聖徳太子の等身大の身長に、

宝珠形の頭光と山形の宝冠をいただく救世観音が現れました。

仏像は、本来礼拝するものであるのに、何故白布でぐるぐる巻きにし、

人目に触れないようにされていたのか。

ここにも聖徳太子と悲惨な死を遂げた一族と、

法隆寺に関わる謎が隠されているのではないでしょうか。

 

 白布にくるまれた救世観音は、何百年もの間、

何を思っておられたのだろうか。争いのなかった時代はなく、

世界のどこかで、今も、誰かが殺されている。

憎しみや悲しみ、苦しみ、人間の心は、

聖徳太子が生きておられた時代も、今も変わらない。

白布にくるまれていた時も、白布を取り除かれてからも、

救世観音はすべての人間から苦悩を取り除き、

救いたいという願いは変わっていないのでしょう。

救世観音が造られたのも、法隆寺が再建されたのも、

当時の権力者が聖徳太子と太子一族の怨霊を

鎮めるためだったのかも知れません。

時の権力者にとっては、法隆寺は祟り(怨霊)の寺であったのでしょうが、

権力者の思いとは別に、聖徳太子を本当に慕う民衆の心が、

法隆寺を祈りのお寺に変え、世界に誇る法隆寺として、

今日まで、守り伝えてくれたのでしょう。

 

 ところがところが不可思議なことがあるもので、

新しい解釈を正確に試みられておられるます。

梅原猛氏は『隠された十字架』の中でこう述べています。

法隆寺再建の年次はわからないが、

夢殿が建立された年次は明確であり、これが重要なヒントになると。

更に梅原猛氏は言います。

“西暦724年。藤原不比等の娘・宮子が文武天皇との間で

産んだ首(おびと)皇子が聖武天皇となり、

不比等の四人の息子も重要な官職につき藤原全盛の世でしたが、

737年にこの四人の息子が当時大流行した天然痘のため

全員がほぼ同時に死んでしまいました。

これは聖徳太子の祟り以外にないということで、

翌々年739年に夢殿を建立し、

太子の祟りを鎮めるべく救世観音を作ったのだ”と。

 

 救世観音の頭と胸に釘が打ち込まれているのがその何よりの証であり、

頭の後ろの光背は、通常は背中で支えるのが普通だが、

救世観音はなんと頭に直接釘で打ち込まれているのです。

頭に釘が打ち込まれている仏像など聞いたことがありません。

更に、胸の部分の十字の木組みの真ん中にも釘が打ち付けられている。

救世観音(聖徳太子)の祟りとは一体何なのでしょうか。

何故そこまで恐れられたのでしょうか。

 

 あくまでもふくよかで、笑みをたたえたこの面持ちに、

フェノロサは東洋の神秘アーカイックスマイルの真髄と褒め称え、

モナリザに並ぶ 逸品と称されました。

憎悪の塊の対象が果たしてここまでの傑作を創るのでしょうか。

 様々な謎を秘め、救世観音は今日も静かに人々の

安穏と国家鎮護をされていらっしゃいます。

又高村光太郎は、この像の彫り方、そのすさまじさに感嘆しています。

「負」に向かう力であっても、やはり、人の作った物には違いはない。

「負」の心であっても、人の心のかよった物であるならば、訴えかける力

があるのでしょう。いろいろな意味で、これだけの怖さを、人々に与えた

この像は、やはり「逸品」の中の一つという事なのでしょう。

そして 祈りは美しさの中に…と。

 

 やはりここで思い起こされるのは、歌人として書家として、

私が大好きな会津八一の歌詠みに御任せ致しましょう。

会津の『鹿鳴集』の「夢殿の救世観音に」と題された歌、

 

    あめつちにわれひとりゐてたつことき

            このさひしさをきみはほほゑむ

    阿目津知耳我一人居天立如紀此寂尾君葉保々恵武

 

【大意】天地の間に、私がたった独り立っているかのようなこの寂しさを、

貴殿は超然として微笑んで見ておられる。

 

 何と言う歌でしょう。孤高の歌人と言われ、生涯を独身で過ごし、

古都奈良をこよなく愛した詩人の魂が爆裂しているかのような歌で、

この御尊像に最も相応しいような気がしています。

政治的に謀略を受けても尚、超然として時代を超え、

我々に勇気を与え続けておられる聖徳太子の

魂そのものの歌ではないでしょうか。

歴史とは隠された真実で本当の歴史が 成り立っているようですが、

そこから遥かに食み出た部分もきっと多いのだろうと思われてなりませぬ。

そろそろ後数編で、このブログを終了するに当たり、

どうしてもこれだけは書いておきたかったことでした。
 



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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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深遠なる世界~ (道草~硯水亭)
2007-07-13 00:14:19
深遠なる世界 (道草) 
             2007-07-11 16;42;20


夢殿の救世観音については中学か高校の日本史で習った程度しか認識が無く、かくの如く立派な論考に対して口を挟むべき余地の無いことは重々自覚しております。素人の浅薄な視野とお笑い下さい。
仏像はもちろん信仰の対象として造られたものなのでしょうが、それを人間の超越的な表現として接するか、或いは美術的な対象として観るかによって理解の仕方も異なる場合があるようです。いずれにしても、救世観音が納まっている夢殿は八角の建物です。この「八」という数字は、実に深い意味があると思います。八面玲瓏・八面六臂・八不中道・八紘一宇・四方八方・八埏・八卦・八戒・八体・・八景・八宗・八講・・八幡・・・・。
硯水亭さんはご存知と思いますが、四国八十八箇所巡りを記述した何かに「迷うが故に三界に城。悟るが故に十方は空・本来東西無く何処にか南北あり」との言葉があって、「迷うからこそ、三界は城壁のある幻の城。悟れば上と下、八方を合わせた十方世界は、伽藍の空。伽藍の空の本来は東も西も南も北もなく、御仏の無分別の知恵が、あらゆる方向に降り注いでいる。」と説明されています。従って、夢殿の救世観音の鎮座する世界は、八面・八方を表し、八角の世界、つまり宇宙を意味している。観音像が地を踏んで立つのは天地を意味し、併せて十方世界=全宇宙を表わしているからである。そして、観音が太子を通して不老不死=永遠を語る姿を示しているのだ。との説明を読んだことがあります。とすれば、建物一つ仏像一つとっても、実に深遠な哲学や思想が包含されているものであると、私の理解を超えただひたすら平伏するばかりです。
それはさて置き、硯水亭さんにお伺いしたいのですが、会津八一の読んだ歌は有名で知る人ぞ知るでしよう。ただ、使われている語句に「きみ」という表現があります。これが救世観音つまり仏を指す言葉とすれば、少し違和感があります。その点は如何なものなのでしょうか。作者の意図の説明文があるやも知れませんが、私にはよく分かりません。
下記の歌は広く大和の世界を詠ったのでしょうが、素直に心に沁み入るようです。

「そのかみ」   福永武彦

むかし
馬酔木の花にうつろひ
にほひは寧楽(なら)を遠く流れた

妹(いも)わびしらにいくそ度か虹のうち
夏野の草 いろこ雲 暮れはてる
ああ あそこまでどの位……
濡れた黒髪は風に揺れよう

かぼそくも桜児(さくらこ)に想ひはしづんで
きららかな快執(けしふ)は二人の腕をつるぎにも

櫟(くぬぎ)の林はしじまだつたし
黄葉(もみじば)は吹きつもつて
をとめは空蝉(うつせみ) かへつてこない

桜児は挿頭(かざし)にもならないで散つてしまつた
        *
その日日四季はしづかに寧楽にめぐり
時は馬酔木のにほひのなかに









整然としたお考えで (硯水亭)

2007-07-11 23:35:42

      道草先生

 本当に頭が下がります。先生のご意見はいつも整然とされていて、決して情に流されることはないようで、羨ましい限りです。「それを人間の超越的な表現として接するか、或いは美術的な対象として観るか」全くその通りでして、先生の理路整然とされる習慣はお若い時からの訓練の御蔭なのでしょうね。切り口からして、う~~んと唸らせられました。私はこの記事では、歴史的な部分からはみだして今日まで受け継がれて来たことへの畏敬の念が中心であります。その部分で申し上げれば、美術史的な観点は完璧に捨てているのかも知れません。

 更に申し上げれば、多分法隆寺再建から夢殿が出来るまで、約百年の時間の経過があります。酷い言い方をすれば、朝廷も一豪族でしかなかったような、そんな時代の背景があったのでしょう。ですからその間に何があって、どうして誰が誰にこの御尊像を造らせたのかと言うことであります。更に申し上げれば、確かに先生の仰られるように、こうした八角形や六角形などは呪詛を行われる場所だとうかがったことがあります。何故太子一族が皆悉く排撃され、そうして百年も経ってから、このような形で、或る意味では復活なさったかと言うことになります。

 空海が帰国後、直ぐに入京が出来ませんでした。福岡に長く滞在しながら、その機会を待っていたのですが、天皇が代わって初めて空海に光が当たり始め、当時比叡山と南都六宗の間に争いごとが絶えませんでしたので、その沈静を画策されて、最初東大寺の当主になられたのです。その一件からも想像される通り、天皇家は跡目相続やら、豪族との折り合いやらで大変だったとうかがえます。まして飛鳥時代のことです。秩序も何もあったものではなかったのでしょう。天皇家から見ればあかの他人が入り込んで来て、嫁入りさせ、天皇誕生を我が物にしていた藤原一門の力は凄かったのでしょう。興福寺は藤原の氏寺で、春日大社は藤原の氏神さまでした。怖いものはなかった時代に、そこは人間なのでしょう。やはり恐れを知ったからかも知れませんが、祟りと言う観念と呪縛から逃げられなかったのではないでしょうか。従って一門総出で、この御尊像を作らせ、早く祟りから逃れたいために、早く急がせたはずです。光背は普通は足許から伸びるのが本当ですが、救世観音には背中の途中からしかありません。梅原流の説はかなりな確度で信憑性が御座いますから。今後も諸説異説が大いに出て来るやも知れません。ざっと数えても百に近い疑問があるのです。正確には今後の研究などを待つしかないのでしょう。

 先生と同じように、私もひれ伏して、ただお祈りするのが心情です。ですが、その畏敬の念と、もっともっと知りたい気持ちに揺れ動いています。深淵な思想か、歴史のゴタゴタがあったのか、私なりに見極めたいと言うそれだけの一文でした。

 会津八一の「きみ」と言う表現は確かに違和感が否めませんが、別な見方からすれば「きみ」と言う言い方は今の表現とは違って、やんごとない人を指して言えるようです。よく我々は「焼香」に出掛けますが、従三位以上の方へ焼香する場合、「拈香(ねんこう)」と表現したのは室町時代末期まででした。「きみ」と言う表現も同じように、鎌倉前期まであったようにうかがっております。今の時代では失礼な言い方でも、昔昔のお話をする場合、その時代の尺度に合わせた表現があってもいいのでしょう。会津先生はきっとその辺を押さえられて歌われたと承知しております。どこの解釈書にも書かれてありませんが、『群書類聚』などの文献漁りをすると、何処となくあっと驚くような場面に出会うことがあります。表現の基本は表現の時代考証も必要なことではないでしょうか。

 福永武彦さんの詩は凄いですねぇ。寧楽の情感にぴたりと参りました。翳しの櫻子が美しい立て線になっています。驚くほどの詩です。勉強をさせて戴きました。有難う御座いました。合掌!
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