硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

     立冬を迎えた栄華の墓所

2013年11月08日 | 季節の移ろいの中で

 

京都市左京区鹿ケ谷若王子山町にある同志社墓地 新島襄(右)と八重の墓所(左)

 

 

          立冬を迎えた栄華の墓所

 

 哲学の道・南端にある熊野若王子神社付近は、同志社大学の共同墓地へ行く案内板で、辺りは今年随分賑々しいらしい。そこから20分ほど山中に入らなければならないが、永観堂の丁度裏手にあたる位置に同志社の墓地がある。新島襄は無論、新島八重や実兄・山本覺馬や、権八や佐久や三郎などの八重の家族もあり、八重を「鵺(ぬえ)」呼ばわりした徳富猪一郎(=蘇峰、後年鵺発言を謝罪し、襄亡き後、同志社設立に大いに貢献し、八重の墓碑銘を書いた)の墓所もある。初期・同志社建学の精神がここには眠っているのだろう。私学設立には余程難渋したに違いないが、而して私学は私学の存在意義は大いにあり、官学ではなしえない自由と進取の精神に富んでいると思われる。

 立冬のこの時季、大原・古知谷の阿弥陀寺には、白やピンクの大文字草の花が見事に満開になっているから嬉しい。ツワブキも鮮やかな黄色に染まって、紅葉より一足先に楽しめる。先日、山縣有朋(狂助)の悪口をここで書いたら、二三叱責を受けた。確かに奇兵隊を率いた明治の元勲には違いないし、日本国軍の父であったと思うものの、たった6年半で終局を迎えた奇兵隊は、山縣にとって、果たしてどれだけの意味があったのだろうかと疑ってやまない。奇兵隊は高杉晋作が創設した長州藩の一諸隊に過ぎないが、高杉が教法寺事件の責を取り、たった三ケ月で失脚すると、その後を担ったのは吉田松陰松下村塾、初の優秀な卒業生であった赤禰武人であった。かくして赤禰が総督となり、極めて優れた隊規となった「諭示(ゆじ)」を残している。明治政府は各藩の精鋭部隊をすべて解散させ、奇兵隊は脆くも消え去った時、赤禰武人は藩内を纏めようとしていたが、槇村は言い訳を一切許さず、28歳で非業の斬首となってしまった。長州藩を一つに纏めようとしたに過ぎないのに、幕府方のスパイと見做されたからだろう。こうして奇兵隊は最後過酷な運命が待っていたのである。恩義があり、前の隊長であった赤禰武人を、何故山縣狂助は赤禰を助けなかったのか。理解不能である。早々に、明治政府の命令によって欧州へ軍隊創設の留学をさせられていたからだと言えばそれまでだが、長州藩が割れて、正義派(山口)と俗論派(萩)の二手で内部分裂をするところであったから赤禰にとって気が気ではなかっただけなのに。高杉をして死の直前に、赤禰武人を「武人の気持ちを察することが出来なかったのは残念だ」と病床にて語らせている。だが足軽出で、最後の奇兵隊の長であった山縣は、松下村塾の丸太棒であり、出来損ないであったことは明白であり、諸氏には許して貰えないだろうか。無論その後山縣によって、陸軍が創設され、国民皆兵制となって、列強から、日本を守った偉人であることは充分分かるのだが、赤禰武人の「諭示」の本懐を理解していたのだろうか。松下村塾の最劣等生が、最も長生きして、陸軍大将から総理まで上り詰め、名声を勝ち得たことになる出世に、聊かの躊躇があるのは致し方あるまいと存ずる。要するに個人的な毛嫌いがあるからで、太平洋戦争まで続いた陸軍の軍閥と思い上がりは、百年千年の智慧がなかった山縣まで遡るのではなかろうかと、小生は密かに実証してみたい気で満々である。

 あのスッカラカンの管直人が組閣した時、なんの意味があってか知らぬが、自身の内閣を「奇兵隊内閣」と豪語したのが、未だに意味不明であり、笑止千万の極みである。所詮、小市民運動家で終わって欲しいだけで、何が東京工業大学出身者だと自慢し豪語したのかと思う。あの原発事故を巨大化し肥大化させた張本人、それは貴殿であっただろう。

 それにしても山本覺馬の活躍は、京都府議会の初代議長であったばかりではなく、佐久間象山仕込のグローバルな視点がモノを言った。京都人の公家や町衆まで誰一人知り得なかった明治天皇の東京奠都(秘密裡に短時間で決行された)が実行され、大都は急速に活気がなくなってくる。その廃れ行く京都を救ったのは旧会津藩で砲術指南役の山本覺馬ではなかったか。覺馬のような骨格の太い人物が初期議会や初期商工会議所にとって、どれだけの功績があったか計り知れない。覺馬が薩摩藩中牢座敷で書き上げた「管見」三権分立の「政体」に始まり、大院・小院の二院制の「議事院」、「学校」、「変制」、封建制から郡県制への移行や世襲制の廃止、税制改革まで唱えた「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、女子教育を勧めた「女学」、遺産の平均分与の「平均法」、「醸造法」、「条約」、「軍艦国体」、「港制」、「救民」、「髪制」、寺の学校への開放を唱えた「変仏法」、「商律」、「時法」、太陽暦の採用を勧めた「暦法」、西洋医の登用を訴えた「官医」と内容は多岐にわたり、将来を見据え 優れた先見性に富んでいる)は、明治新政府の政策の骨格とも繋がり、明治憲法制定に多大な影響を与えたものであったろう。覺馬と対立した槇村正直は、府知事であったが、どこに功績があったのだろうか。精々ヒゲでも伸ばし、中央官庁に行って、山縣同様華族になるのがオチであったろう。下士の子の、品格のなさを大変に残念に嘆くのみ。

 

 同志社墓所内にある山本覺馬の墓 墓碑銘は勝海舟による

 

 京都の紅葉はまだこれからだが、立冬を迎えて、漸くそれらしい美味しい寒さになっているようだ。上賀茂社近くの、すべてお任せ料理である「秋山」で、マツタケと鱧の土瓶蒸しでも戴きたいものだが、京北の「登喜和」で、予め発注しておいてのマツタケ入りすき焼きも魅力がある。いやいや、自宅で、里芋と和牛と長葱と舞茸だけ入れ、単純で素朴な山形風お醤油味の「芋煮」も、お手軽でいいのかも知れない。冬の味覚に、しばし思いを馳せる。玄界灘のクエ(九州ではアラ、モロコなどともいう)には絶品の季節、越前蟹、ふぐ、マナガツオ、青首(マガモ)、鯉料理、牡蠣、マル(スッポン)、甘鯛(白皮が一番だが、赤アマ=グジも扱いによっては最高)、黍魚子(キビナゴ)、虎魚(オコゼ)、皮剥(カワハギ)、秋刀魚(サンマ)、鮭(シャケ)、蕪(カブラ)、白菜、山東菜、柚子、色々と秋の美味しさを演出する日本の至宝だ。お節料理や、四季折々の一般庶民の民俗性豊かな和食を取り入れた日本の和食文化を、世界無形文化遺産としての登録が、この十二月に正式に認められる見通しである。これは和食離れしていることへの警鐘であり、信じがたいワンプレート料理(カレー、パスタ、ハンバーグ)しか、現代の主婦が作りたがなくなり、米離れも深刻化しているからであろう。日本文化は食文化から崩壊しつつある危機的状況であるのだ。味だって、お手軽に各社によって味の素類の商品で溢れ、インスタント食品だらけで大仰だ。味そのものが全く均一化し、舌の劣化が進んでいる証拠である。そうした現代人の舌の都合に合わせ、名店や各デパートや有名お惣菜屋まで、偽装、若しくは誤表示されていても、全く気づかない筈であり、情けない。和食文化の世界無形文化遺産への登録は、飽く迄今日的事情の逆説と捉えるべきである。

 様々に失われようとしているものもあれば、新しく萌芽するものもたくさんある。今後50年先には、台風の目は主に800hPa(ヘクトパスカル)台に確実に巨大化し、風速80㍍~100㍍が標準となりそうでソラ恐ろしい。地球温暖化の影響で、益々異常気象が起こり得るだろう。現在の世界総人口は70億人だが、100億人を突破するのは時間の問題である。第一水資源の確保であり、地球温暖化のストップであり、食糧不足の解消であり、汚染された放射能や水銀濃度の管理が最も大切である。〇〇劇場よろしく脱原発だけを吹聴している方がいるが、誰しも原発に依存しない社会を望んでいるのは当たり前だ。でも現在存在している原発を、今後最低10万年は管理していかなければならない責務がある。従って再稼働するかどうかの小規模問題(いずれ無くなる故)より、半永久的に管理して行く若手研究者を、今後も強力に継続し育てて行かなければならない。ここが問題だ。放射能は半減期や地上に吸い込まれて行く性質もあるが、水銀汚染は深刻である。今回熊本で締結された水俣条約は非常に重要な問題であり、水銀は永遠に半減することがないからである。日本は生産量が少なくなったからと言っても、未だに輸出大国である。硫黄と化合させ、超高速撹拌し、別な化学物質に替えることが、日本では既に技術開発がなされている。早く普及して欲しいものだ。水俣条約の批准を世界が急いで欲しい一点である。

 私たちは私たちで出来ることを仲間とともに進めて行くしかない。日本の森林は70%以上もあるのだが、国内で使用される70%の木材は廉価な輸入木材に、その多くは頼っている。この足許の異様さと異常さ。賢明なる読者諸氏にはきっとご理解戴けることだろう。

 

 私たちに出来ること 広葉樹の樹木や山櫻を生産し、広範に移植し、代々に亘って続けて行くこと

 


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