とはずがたり

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この国のあり方?

2021-02-03 09:50:52 | その他
「この国のあり方?」
プラセボを対照としたランダム化比較試験(RCT)は、新薬開発はもちろん臨床研究のゴールドスタンダードといわれており、その重要性は多くの医療者が認識しているところです。とはいえ実際にRCTをやろうとすると、手間がかかるということにも増して、「自分の患者さんにプラセボを投与するのはしのびない」とか「明らかにこちらの手術の方が良いと思っているのに別なことはできない」というような反対意見が現場から聞こえてきます。このような意見は「サイエンティフィックじゃないな~」とも思うのですが、何となく彼らの気持ちもわかる気がします。簡単に言うと「自分の家族が病気になったときに、RCTに参加して、プラセボを投与されて病気が悪化したら後悔するでしょ」ということではないかと思います(そうでしょ、○○先生?)。日常診療の中で、ブレながらも徐々にあるべきゴールに向かっていくというのが自分たちのスタイルなのかと考えています。
どうしてこんな話を始めたかというと、今回のコロナウイルス感染症に対する日本の対応にもそれと通じるものを感じるからです。要人来訪に気を使って中国からの入国禁止措置が遅れたり、経済停滞を懸念して緊急事態宣言発出が遅くなったりなど、挙げればきりがありません。「政府の対応は後手後手でけしからん。トップである総理大臣はもっと強力なリーダーシップを発揮して政策を進めるべきだ。」という意見もしばしば聞かれます。私も正直現在の政府の対応にはイライラすることもありますが、このようにあちこちに忖度してブレながらもよろよろとほどほどのゴールを目指すという進み方こそ、現在のわが国のあり方なのかも、と思うのです。
東日本大震災の時に政権にあった民主党の大ブレ具合を思いだせば(ヘリコプターで水をかけたりとか)、現政権、あるいは自民党だけに問題がある訳でもなさそうです。「日本人そのものがそのような国民性なのだ」という意見もあるかもしれませんが、第二次世界大戦時に「進め一億火の玉だ」というスローガンに国民の多くが熱狂したり、1960年代、70年代の安保闘争、全共闘運動、大学紛争の時にはたくさんの人々がデモに参加したりなど、国民の多くがある方向に向かって行った歴史を見ると、全てを国民性に帰するのは無理がありそうです。「日本人は戦後アメリカに飼いならされておとなしくなったのだ」という陰謀論はあまり現実的とは思えません。
それでは「ブレながら徐々にほどほどのゴールにたどり着く(ことを期待する)」という現在の日本のスタイルは何故築かれたのでしょうか?唐突ですが、私はそのカギは社会の高齢化にあるように思います。日本は65歳以上の高齢者が2019年には約3589万人に達し、人口の28.4%を占めるという超高齢社会です。これは先進国の中でもトップレベルの高齢化率で、高齢化に関しては日本は世界のトップランナーです。また出生率の低下によって若年者の数は減少しています。このような高齢者ドミナントな社会では、制度やシステムのdrasticな変化が好まれなくなっているのではないでしょうか。自分のことを考えても、20代、30代の時のようなパワーは無くなっているように思いますし、これから新しいことにチャレンジしてみよう!チェンジだ!(古い)という気持ちはあるのですが、体力的、気力的に昔のようにはできないのではないかという不安もあります。もちろん「オレは還暦を過ぎてから起業したぞ」というようなアクティビティが高い方がおられるのは確かですが、平均的に言えば65歳を超えた時、20代のアクティビティが失われているのは間違いありません。スピードも遅くなりますし。
高齢者がドミナントな社会の中で、あちこちに忖度しまくりながら進むという現在の日本のあり方は、自分自身が高齢者の仲間入りを果たそうとしている時期においては、心地よかったりするのです。私としてはせめて若い人々のやる気を削ぐことはするまいとは思っておりますが、高齢者が多いために若い人のほうも「おじいちゃん子、おばあちゃん子」になっているようにも思います。孫が危ないことをしようとしていたら、つい「そんな危ないことやったらあかんで~」と注意してしまい、若い人もおじいちゃん・おばあちゃんの言うことは素直に聞くわけです。
若者はもう少しアグレッシブでも良いような気がしますが、彼らの攻撃性を削いでいるのも我々なのかもしれず、悩みは尽きません。
まぁこんなことがRCTをしない言い訳にはなりませんけどね。
知らんけど。


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