とはずがたり

論文の紹介や日々感じたことをつづります

科学否定論者と議論することは無駄ではない

2021-08-09 18:28:42 | その他
Wikipediaによればアメリカでは米国で「進化論」を信じる人は39%にとどまり、全く信じない人が25%なのだそうです。昨今の新型コロナウイルスの議論の中でも「新型コロナウイルスなんて存在しない」というような極端なscience deniers, sceptics(科学否定論者、懐疑論者)の意見を聞くと、絶望的な気持ちになり、「このような人々と議論しても考えを変えることはできない」と思ってしまいます。しかし筆者はそのような態度は「事実としても倫理的にも誤りである」と指摘します。ほとんどの科学否定論者は情報ではなく、信頼が不足しているのであって、忍耐、尊敬、共感を持って、信頼を築くことで考えを変えることは可能である。そのための技術として、まず彼らの話を十分に聞き、対話が始まったら説得ではなく質問を続ける。議論に反論する代わりに、「どんな証拠があれば心が変わるでしょうか?」と尋ねてみる。「証拠」が必要だと言ったら、これまでの証拠が不十分である理由を尋ねる。陰謀説に対しては、なぜ彼らがその証拠を信頼しているのかを尋ねる。このように質問を続けることで、どうしてこのような質問に答えられなかったのかと、自分で不思議に思わせることが重要である、と述べています。 

寄生細菌を用いたデング熱の制圧

2021-06-13 06:07:21 | その他
Wolbachia pipientisは蚊に感染する細菌ですが、この細菌に感染した蚊はデング熱ウイルスへの感染抵抗性であることが明らかになっています。Utariniらはデング熱ウイルスを媒介するネッタイシマカに感染し、蚊の寿命には影響しないWolbachia株を樹立しました。この細菌を感染させたネッタイシマカをデング熱流行地域に放出することによって、デング熱ウイルスを保持するネッタイシマカが減少し、対照群と比べてデング熱の発生が77%抑制されました。一方で殺虫剤を使用した場合にはこのような感染減少はみられませんでした。これは20年以上という長い年月にわたる根気強い研究が結実したもので、殺虫剤のように環境汚染を生じることなく感染を制御する画期的な研究成果です。
N Engl J Med 2021; 384:2177-2186. DOI: 10.1056/NEJMoa2030243

現代人はみずから家畜化を選んだ?

2021-04-02 08:25:03 | その他
会社に過度な忠誠心をもつヒトのことを社畜と呼んだり、「最近の若いもんは飼いならされている」などと言ったりしますが、実はヒトは自ら家畜化への道を選択したのかもしれません。野生の動物が家畜化されると、小さな歯と頭蓋骨などの顔貌の変化が生じますが、これはneural crest stem cell(神経堤幹細胞)を失うことで生じる変化です。ヒトの遺伝病であるWilliams-Beuren syndromeは「妖精様顔貌」と呼ばれる親しみやすい顔貌を特徴とする遺伝性疾患で、BAZ1Bというチロシンキナーゼ遺伝子の機能障害が見られます。ミラノ大学のGiuseppe Testaらは、BAZ1Bは顔面および頭蓋の発達を制御する多くの遺伝子発現に関与しており、ネアンデルタール人やデニソワ人などと比べて現代人ではBAZ1B遺伝子の変異が蓄積し、これは自然淘汰の過程で「親しみやすい顔貌」を選択してきた可能性があると指摘しています。ということで我々は進化的に自ら家畜になることを選択してきたという訳です。「かわいい」ものを選択するというのは我々のDNAに染み付いた性癖なのかもしれません。 
Matteo Zanella et al., Dosage analysis of the 7q11.23 Williams region identifies BAZ1B as a major human gene patterning the modern human face and underlying self-domestication. cience Advances  04 Dec 2019:Vol. 5, no. 12, eaaw7908. DOI: 10.1126/sciadv.aaw7908

2030年におけるPrecision Medicineの未来像

2021-03-29 15:47:20 | その他
2015年1月20日に当時アメリカ大統領であったオバマ氏が個々の患者に対応した医療という意味で、personalized medicineを一歩進めたものとして”precision medicine”という言葉を発表し、Precision Medicine Initiativeという医療政策を推進することを宣言しました。Precision medicineについてはいまだに良い日本語訳がありませんが(精密医療とか個別化医療等とも訳されますが、きちんとしたニュアンスは伝わらないように思います)、個人のゲノム情報など様々な情報を使用することで、より進んだ個別医療を目ざすということかと思います。このCommentaryはNIHのJoshua Denny, Francis Collinsによる2030年におけるprecision medicineの近未来予測です。彼らはprecision medicineを加速させるために以下の7項目の重要性を説いています。
1)Huge, interoperable, longitudinal cohorts(大規模で相互に関連づけ可能な縦断コホート)
2)Improved diversity and inclusion in science(人種や民族などの多様性・包括性の向上)
3)Big data and artificial intelligence(ビッグデータとAIの活用推進)
4)Routine clinical genomics to guide prevention, diagnosis, and therapy(予防、診断、治療への臨床ゲノミクス利用の拡大)
5)EHRs as a source for phenomic and genomic research(表現型やゲノム研究における電子カルテ情報利用拡大)
6)Higher variety, higher resolution phenomics and environmental exposure data for both clinical and research use(多様で高精度な表現型および環境曝露データ活用)
7)Privacy, participant trust, returning value(プライバシー、信頼、価値還元)
新型コロナウイルス感染症研究を見ても、サイエンスはたゆみなく進歩しており、以前は考えられなかったほどの大量の情報が短期間で得られるようになっています。今後は蓄積されていく膨大な情報を、どのようにして多くの研究者にとって簡便に利用可能な形に整理し、人類全体の幸福に役立てて行くかという観点が益々重要になりそうです。
Joshua C Denny, Francis S Collins
Precision medicine in 2030—seven ways to transform healthcare. Cell. 2021 Mar 18;184(6):1415-1419.

この国のあり方?

2021-02-03 09:50:52 | その他
「この国のあり方?」
プラセボを対照としたランダム化比較試験(RCT)は、新薬開発はもちろん臨床研究のゴールドスタンダードといわれており、その重要性は多くの医療者が認識しているところです。とはいえ実際にRCTをやろうとすると、手間がかかるということにも増して、「自分の患者さんにプラセボを投与するのはしのびない」とか「明らかにこちらの手術の方が良いと思っているのに別なことはできない」というような反対意見が現場から聞こえてきます。このような意見は「サイエンティフィックじゃないな~」とも思うのですが、何となく彼らの気持ちもわかる気がします。簡単に言うと「自分の家族が病気になったときに、RCTに参加して、プラセボを投与されて病気が悪化したら後悔するでしょ」ということではないかと思います(そうでしょ、○○先生?)。日常診療の中で、ブレながらも徐々にあるべきゴールに向かっていくというのが自分たちのスタイルなのかと考えています。
どうしてこんな話を始めたかというと、今回のコロナウイルス感染症に対する日本の対応にもそれと通じるものを感じるからです。要人来訪に気を使って中国からの入国禁止措置が遅れたり、経済停滞を懸念して緊急事態宣言発出が遅くなったりなど、挙げればきりがありません。「政府の対応は後手後手でけしからん。トップである総理大臣はもっと強力なリーダーシップを発揮して政策を進めるべきだ。」という意見もしばしば聞かれます。私も正直現在の政府の対応にはイライラすることもありますが、このようにあちこちに忖度してブレながらもよろよろとほどほどのゴールを目指すという進み方こそ、現在のわが国のあり方なのかも、と思うのです。
東日本大震災の時に政権にあった民主党の大ブレ具合を思いだせば(ヘリコプターで水をかけたりとか)、現政権、あるいは自民党だけに問題がある訳でもなさそうです。「日本人そのものがそのような国民性なのだ」という意見もあるかもしれませんが、第二次世界大戦時に「進め一億火の玉だ」というスローガンに国民の多くが熱狂したり、1960年代、70年代の安保闘争、全共闘運動、大学紛争の時にはたくさんの人々がデモに参加したりなど、国民の多くがある方向に向かって行った歴史を見ると、全てを国民性に帰するのは無理がありそうです。「日本人は戦後アメリカに飼いならされておとなしくなったのだ」という陰謀論はあまり現実的とは思えません。
それでは「ブレながら徐々にほどほどのゴールにたどり着く(ことを期待する)」という現在の日本のスタイルは何故築かれたのでしょうか?唐突ですが、私はそのカギは社会の高齢化にあるように思います。日本は65歳以上の高齢者が2019年には約3589万人に達し、人口の28.4%を占めるという超高齢社会です。これは先進国の中でもトップレベルの高齢化率で、高齢化に関しては日本は世界のトップランナーです。また出生率の低下によって若年者の数は減少しています。このような高齢者ドミナントな社会では、制度やシステムのdrasticな変化が好まれなくなっているのではないでしょうか。自分のことを考えても、20代、30代の時のようなパワーは無くなっているように思いますし、これから新しいことにチャレンジしてみよう!チェンジだ!(古い)という気持ちはあるのですが、体力的、気力的に昔のようにはできないのではないかという不安もあります。もちろん「オレは還暦を過ぎてから起業したぞ」というようなアクティビティが高い方がおられるのは確かですが、平均的に言えば65歳を超えた時、20代のアクティビティが失われているのは間違いありません。スピードも遅くなりますし。
高齢者がドミナントな社会の中で、あちこちに忖度しまくりながら進むという現在の日本のあり方は、自分自身が高齢者の仲間入りを果たそうとしている時期においては、心地よかったりするのです。私としてはせめて若い人々のやる気を削ぐことはするまいとは思っておりますが、高齢者が多いために若い人のほうも「おじいちゃん子、おばあちゃん子」になっているようにも思います。孫が危ないことをしようとしていたら、つい「そんな危ないことやったらあかんで~」と注意してしまい、若い人もおじいちゃん・おばあちゃんの言うことは素直に聞くわけです。
若者はもう少しアグレッシブでも良いような気がしますが、彼らの攻撃性を削いでいるのも我々なのかもしれず、悩みは尽きません。
まぁこんなことがRCTをしない言い訳にはなりませんけどね。
知らんけど。