週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

寺報完成

2010-07-16 00:12:53 | 近況報告

夏の寺報が完成しました。

今回の寺報は、4月に厳修された【親鸞聖人七五〇回大遠忌 神奈川組お待ち受け法要】の特集記事に紙面を割きました。
なので、いつもの見開きページの間に1枚入って、計6ページとボリュームアップ。
写真を多めに載せていますので、当日会場に来られなかった方々に、少しでも雰囲気をお伝えできればと思っています。

表紙・後書きには、サッカーワールドカップについて。
特集記事の後には、最乗寺で初めてお勤めした初参式の模様を。
今後の予定と近況報告も載せてあります。

ご門徒の皆さまには通常通り発送いたしますが、寺報は本堂にも置いてありますので、近くをお通りの際は、どうぞお手にとってご覧下さい。


凡夫のススメ (後編)

2010-07-14 00:02:42 | 法話のようなもの

  ≪7月11日のお経の会での法話より(後編)≫


さて、ここからが本題ですが、今回の自民党のキャッチフレーズは「いちばん」だそうです。
選挙戦で、谷垣総裁が人差し指を立てて演説している姿が印象的なんですが、この「いちばん」という言葉を聞いて、思い出した話があります。

それは数年前の僧侶研修会で、経済学を専門とした講師が話された言葉。

 自分がどれだけ優秀な能力を持っているか、自分がいかに優れた人材か。
 そういうことを、他人を蹴落としてでもアピールするのが今の社会だ。
 そんな社会にあっても、仏教は誰もが凡夫だと説く。
 仏の前では、自分は本当に小さな凡夫だと説く。
 自分が凡夫であることの自覚を促す。
 それはとても凄いことだ。

凡夫とは「仏教の道理を理解していない、世俗の愚か者」という意味があります。
そして、死ぬまで煩悩に満ちた生き方しかできないものも凡夫と言います。

今回の自民党のキャッチフレーズは、民主党の蓮舫議員が事業仕分けの際に発した言葉に掛けていることは想像できます。

【一番じゃなきゃいけないんですか? 二番じゃダメなんですか?】

一番を尊び、二番に対しては一番を目指して頑張れと発破をかける。
それが当たり前のように思ってきた中で、蓮舫議員の言葉は足を止めさせるだけの力がありました。
けれど、それも一瞬のこと。
やっぱり一番がいいし、誰よりも優遇されたい気持ちが芽生えてきます。
(もっとも、蓮舫議員も3番目、ましてやビリだったら同じ言葉は言えないはず)

しかし、人を優劣で判断することは、とても怖いことです。
優劣をつけることで、人は優越感に浸り、劣等感に潰される。
優越感は時に人を傷つけ、劣等感は時に人を投げやりにさせる。

聖徳太子の『十七条憲法』第十条には、このような記述があります。

 我かならずしも聖にあらず 彼かならずしも愚にあらず
 共にこれ凡夫なり


心の中で恨みに思うな。
目に角を立てて怒るな。
他人が自分に逆らったからといって、憤怒するな。(中略)
他人が正しいと考えることが、自分は間違っていると考え、
自分が正しいと考えることを、他人は間違っていると考える。
けれど、自分が聖者というわけでも、他人が愚者というわけでもないんだ。
みんな、誤りに満ちて、不完全で、人間以上でも人間以下でもない。
ただの凡夫に過ぎないんだから…(超意訳)


凡夫をここでは「ただびと」と読みます。

仏の前には、世俗の価値観は持ち込めません。
みんな等しく「ただのひと」。
だからこそ、聖徳太子は互いを許しあう生き方を説いているのです。

自分が一番だと胸を張り、それを目指して頑張ることが賞賛される世の中で、
「ただのひと」「世俗の愚か者」「それは煩悩に縛られた生き方だ」
そう言うことは、確かに凄い。

けれど、そう言うことで、自らを省みて、他者を顧みることができるのかもしれません。
そして、頑張りすぎて、緊張しすぎて、強張ってしまった心と体が、ほんの少し穏やかになったり、軽くなったりすることもあるのかもしれません。

仏の前では、誰もが等しく小さな凡夫です。

けれど、これは仏さまに対した時に、自分自身がそう思うことに意味があります。
どこまでもどこまでも、己を省みるのが仏教です。
政治家に対して「あなたは、ただのひとだ」「あなたは世俗の愚か者だ」と言うのは筋違いなのでご注意を。

明日は我が子への願いをこめた一票の重さを、分かってもらえる候補者に投票しようと思います。


凡夫のススメ (前編)

2010-07-13 00:34:03 | 法話のようなもの

 ≪7月11日のお経の会での法話より(前編)≫


明日は参議院選挙ですが、皆さんは投票に行かれますか?

私は選挙権を得て10ウン年経つのですが、恥ずかしながら、その権利を行使したのは片手で余るほど…。
なので、政治についてあまり意見を言うことを控えているのですが、それはそれは責任逃れのような感じも否めませんね。
正直、今回も誰が立候補しているのかさえ把握していないのですが、そう言うと母に、

「我が子のことを考えたら…」

というようなことを言われました。
けれど、その言葉を聞いて思ったのですが、そうやって今までの親たちが我が子の将来のことを考えて投票してきたはずなのに、今の社会はどうなんでしょう?

子供にとって良い社会なのでしょうか?
大人にとって良い社会なのでしょうか?
理想を託して投票をして、繰り返された選挙によって、いったい誰にとって良い社会になったのでしょうか?

さあ、どうでしょう?

私の見解ですが、きっと、それぞれの幸せの形が違うということが根底にあるのではないでしょうか。

例えば、親たちが子供の将来のことを考えて投票しても、それぞれが思い描いた理想を託す候補者が、同じ政党の候補者とは限りません。
求めるものが違う人々が、その理想を託して投票する。
けれど、その理想を語った候補者もまた、違う幸せの形を追い求める。

幸せは、そのときそのときの環境や状態によって変わってくるものです。

私も独身時代と結婚後とは考えが変わりましたし、子供を産んでまた変わりました。
当然、男と女では異なるし、言い詰めれば、一人一人が違っていて、その一人一人も歳を経たり、環境が変わったり、精神状態が変わったりすれば、考え方も変わるということです。

そういう中で選挙をして、当選した議員達が決めた法案によって成り立っている社会の中で、全ての人が「良い社会」だと感じることができるのは、なかなか難しいのかもしれません。

そもそも「良い社会」とはどういうものか?

単純に、優遇されていれば「良い社会」と感じるし、優遇されていないと感じれば「良い社会」なんて思わない。

そう感じるか否かは、個人の主観でしかないのに、その主観で社会全体の良し悪しを決めてしまう。
そう考えて、自分の視野の狭さを改めて痛感しました。

             
                                       (後編に続く)


勝田山 最乗寺

2010-07-12 00:33:09 | 勝田山 最乗寺

本日より、最乗寺の公式ブログを開設いたしました。

【最乗寺】というと、小田原にある大きなお寺のほうと勘違いされがちなのですが、こちらの最乗寺は横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派(お西)のお寺です。

歴史は古く、この地で520年の時をご門徒の方々と歩み、当世で18代目となりました。
江戸時代(1795年)に建築された本堂は、今なお聞法の場として多くの方にお参り頂いており、また境内の大銀杏は、600年以上も昔から、この地を見守り続けています。

港北ニュータウンの外れにあって、開発から取り残された地域にある最乗寺。
ほんの少し不便ではあるけれど、その分、風の音や鳥のさえずり、木々の葉が擦れ合う音が、耳を澄まさなくても、あなたの耳に届くはず…。

緑豊かで、季節によってはジャングルのように生い茂る草木と、梅や桜、紅葉など四季折々の色彩が、お参りされた方の目を楽しませてくれることでしょう。

その光景を皆さまにご覧頂きたい。
そして、この地で伝え続けた浄土真宗のみ教えを、少しでも多くの方に触れて頂きたい。

そのために、まずはタイトルにあるように、基本的に週一回程度の更新から始めてみたいと思います。
調子が上がれば【日刊 最乗寺】になるかもしれませんが…大風呂敷は広げないほうが長続きしそうですね。

内容としては、過去の寺報記事・法話・近況報告・行事の案内など。
管理人(跡取り娘)の気分により、文体が変わることがありますが、あまり気にせず読んでいただけたら幸いです。

では皆さま、どうか末永いお付き合いを宜しくお願いいたします。