≪寺報【最乗寺だより】 2010年夏号 表紙記事より≫
スペインの優勝で幕を閉じたサッカーワールドカップ。
日本代表の善戦に列島が熱狂したことは記憶に新しいことと思います。
今大会で印象に残る場面はいくつかありますが、中でもイングランド対ドイツの試合中に起こった「疑惑のゴール」については考えさせられるものがありました。
イングランドの選手が放ったシュートが、ゴールポストに当たり、ゴールライン内にバウンドしたことで得点が入り、同点となるはずでした。
しかし、それを見ていたはずの副審がノーゴールと判断したため加点がされず、結局イングランドはその後も点を取ることができず4対1で敗退。
この判定について、すでにFIFAの会長が誤審だったことを認め謝罪していますが、このような誤審は今回が初めてだったわけではありません。
なのに、映像による確認がなされない要因の一つに、サッカーはその長い歴史の中で「誤審はある」という前提で行われてきたスポーツだったからだという解説がありました。
人間が下す審判が、完璧ではないということを踏まえた上で成立したスポーツ。
間違ってはいけない。
けれど間違うこともある。
それでもその間違いに立ち止まらず、振り切るようにゴールへと踏み出す選手達の姿に、自身の間違いは棚に上げ、相手の間違いばかりを責めている、都合の良い自分の姿が見えてきました。
「誤審はある」という前提は寛大なようでもありますが、自分が常に正しいわけではないということの前提でもあるということです。
肝に銘じておかなくてはなりませんね。
(時事ネタのため、早めに投稿しました)