週刊 最乗寺だより

小田原のほうではなく、横浜市都筑区にある浄土真宗本願寺派のお寺です。

勝田山 最乗寺
045-941-3541

悪魔の証明

2012-08-27 23:45:25 | 法話のようなもの

前回の記事が手違いでアップできていませんでした。(汗)

長くなって申し訳ありませんが、前回と合わせてお読みください。

 

幼稚園の夏祭りで入ったお化け屋敷。

幼稚園での出し物なので、それほど怖くないと踏んでいたのがそもそもの誤りでした。

龍くんはだんだんと怖くなってきたようで、今でも思い出しては顔をクシャクシャにして泣くのを耐えている表情を浮かべています。

お化けって、現実に存在するか否かは別として、「存在する」ことを前提に物事を考えた瞬間からその人の中に存在してしまうという、ある意味とても厄介なものだと私は思っています。

そのことについて昔に書いたコラムがあったので、ついでに載せておきます。

 

【ある】と【ない】
【ない】ことを証明するのは、【ある】ことを証明するより難しい。

霊魂や幽霊が、存在するか否かでの論争は、テレビで昔からよくされていた。

存在すると主張する人もいれば、存在しないと否定する人もいるし。
どちらでもいいし、どちらでも構わないと思う人もいることだろう。

けれど実状は、「霊魂」や「幽霊」という言葉の存在を認め、その概念の定義が一般化されている。
それらの言葉や概念が【ある】という前提の上での論争で。
それらの言葉や概念を成り立たせるべき存在を【ない】と証明することは…。

【ある】に関わる全ての現象や証言を打ち消し、【ない】ということを過去・現在・未来においての全ての事例で検証しなくてはならないということになる。

これを、「悪魔の証明」という。

それは単に、不可能な証明を指して使う場合もあるし。
「霊魂は存在しないとは言い切れないから、霊魂は存在する」というように、論の展開が間違っていることに使う場合もある。

どちらにせよ、【ない】ということの証明は、【ある】ということを証明することより、数段難しいということ。
つまり、この論争がなくならないことこそ、【ある】かもしれないという証明となる。

対してお釈迦さまは、物理的・概念的な対象が、存在する理由や根拠といった形而上学的な質問に、答えないという態度を守られた。
挑まれた論争に、看破するのではなく、知り得ぬことは沈黙で返す。

【ある】とか【ない】とか。
考えることで、答えることで、人も自分もそのことに、こだわり執着する。
それは悟りの妨げでしかなく、ありのままの真実をみることをできなくさせる。

【ある】でも【ない】でもなく、明かにする必要のないもの。

「霊魂」も「幽霊」も、存在に対する問いは、沈黙を保たれる。
それでも問おうという、その欲求を抑えられないところに、人の苦しみはある。
そして、沈黙という答えに、執われている自分の姿を、知ることになるのだろう。

 

さて、沈黙ではなく、涙で返す龍くんが執われているものは、いったい何なのでしょうね……とりあえず、幼稚園へ行くことへの恐怖が一番なのでしょうが(ため息)