本郷三丁目の交差点から、さらに本郷通りを北上すると、右手通りの向こう側に、唐破風の番所を設けた薬医門形式の朱色の門が見えてくる。赤門である。
赤門といえば東大の代名詞になっているが、ここはかつて加賀百万石、前田家の上屋敷があった場所である。
この赤門は、徳川11代将軍、家斉の息女が前田家に輿入れする際につくられたもので、正式には御主殿門という。御主殿門というのは、将軍の娘が、三位以上の大名に嫁した時、御主殿と呼ばれたためである。
ちなみに、この赤門界隈の風景を、歌川広重が『江戸土産』のなかで「本郷通り」と題して描いている。
赤煉瓦塀に囲まれた広大な敷地は、今は東京大学であるが、「切絵図」を見ると、加賀中納言と水戸殿とある。大半は加賀藩の敷地で、水戸藩の中屋敷は、現在、農学部が置かれている敷地である。
ところで、5代将軍、綱吉治世の元禄15年、藩邸の敷地八千坪を使って迎賓館ともいうべき御成御殿がつくられたことがあった。が、その豪華な建物も翌年には焼失。こうした、度々の火災や地震で、幕末の頃には、屋敷はまるで廃墟のように荒んでしまったという。その後、明治9年、東大の前身の建物がつくられ現在に至っている。
東大正門前の一帯は、かつて森川町とよばれていたところである。「切絵図」を見ると岡崎藩主本多美濃守の屋敷地とある。今は本郷六丁目と町名変更しているが、この町に隣接する西方町とともに、一帯は近代文学の作家や学者が多く住んでいたところである。
西方町の町名は現在も健在であるが、この町域は福山藩主阿部伊豫守の屋敷地(中屋敷)があったところだ。阿部家は代々の老中家で、11代正弘は日米和親条約を結んだ筆頭老中として歴史に名高い。
かつてこの地に誠之館という藩校が置かれていたが、同町にある、明治8年開校の誠之小学校はこの藩校の名を引き継いだものだ。
煉瓦塀のつらなる東大前のイチョウ並木をさらに北に向かうと、やがて道は二股に分かれる。ちょうど、東大農学部があるあたりである。
「切絵図」を見ると、追分と記されている。古くから本郷追分と呼ばれ、荷駄の往来で賑わったところである。ここに一里塚があった。
右を行けば、日光御成街道(岩槻街道)、左を行けば中山道(国道17合線)だ。道が分かれるところに、森川金右ヱ門とあるが、森川町の名はこの人物の名をとったもの。
金右ヱ門は、この地にあった御先手組の組頭で、中山道の警備の任についていた人物である。
また、この地には、高崎屋という江戸で有名な現金安売りの酒店があった。
右手の道、御成街道を行く。
このあたり、「切絵図」では、大番組、御小人中間、御先手組の組屋敷が連なっている。いずれも幕府役人が居住していた地域である。
しばらく行くと寺町になり、道の左右に幾つもの寺が現れる。通りの左側にあるのが西谷寺(現在は西善寺)、唐辛子地蔵がある正行寺、そして右側に經妙寺(現在は浩妙寺)、極彩色あふれる浄心寺。この寺には春日局がご愛祈したお地蔵さんがある。そして、長元寺、十方寺とつづく。
やがて、左手に見える向ヶ丘高校を過ぎるあたりで繁華な商店街になる。向ヶ丘二丁目交差点に出たら左に折れる。一言寺(現在は一音寺)の前を過ぎ、中山道を南にもどる。このあたりかつては白山前町と呼ばれたところである。
由来は、近くに白山権現(白山神社)があったからだが、その門前町として賑わった町人地である。
左手に入ったところにあるのが大円寺。しばしば江戸の火事の火元になった寺である。この寺に八百屋お七にちなんだ地蔵が安置されている。この地蔵はほうろく地蔵の名で知られ、焙烙(素焼きの土鍋)を寄進すると、首から上の病気、特に眼病に効き目があるとされ、江戸時代には庶民の絶大な人気を集めたという。
ついでながら、この寺には高島秋帆と斎藤緑雨の墓がある。
秋帆は幕末の洋学者。緑雨は明治期の気骨の文学者で知られている。
大円寺の前の坂道を西に入る。「切絵図」では坂の途中に浄心寺、円乗寺の名が見える。この坂を浄心寺坂という。円乗寺には八百屋お七の墓がある。なぜか三基あるが、中央の墓に妙栄禅定尼の戒名と天和3年(1683)3月29日という処刑の日が刻まれている。
お七の墓がここにあるのは、ここが彼女にとって因縁ある場所であるからだ。
ある日、大円寺の火事で焼け出されたお七一家がここに避難していた時のことだった。そこでお七はその寺小姓と運命的な出逢いを果たすことになった。お七はのちに寺小姓に恋い焦がれ、ついに自分の家に放火するという大罪を犯すことになる。
これが巷間知られる八百屋お七の物語であるが、史実はほとんど分かっていない。
ちなみに、お七の家(八百屋)は本郷追分片町にあったというから、前述の高崎屋と同じ町域にあったことになる。追分を左に進んだ中山道の東側にあたる。
坂を下りきったところで、こんどは傾斜のある通り(白山坂)を上る。「切絵図」を覗くと通りの左に寺社がかたまっている。白山権現(白山神社)を囲むようにして心光寺、妙清寺、竜雲寺などの名が見える。江戸期、このあたりは樹木が鬱蒼とした場所だったのだろう。
白山神社は長い参道を上りつめた台地上にある。明治22年建立の大鳥居をくぐると、緑濃い境内がひろがる。唐破風を張り出した銅板葺き屋根の拝殿は見るからに堂々と古社の雰囲気をたたえている。
神社は小石川を鎮守する古い社であるが、特に5代将軍綱吉とその生母桂昌院の厚い信仰を受けて栄えたという。背後にそそり立つ建物は東洋大学だ。都営三田線白山駅はすぐそばである。
赤門といえば東大の代名詞になっているが、ここはかつて加賀百万石、前田家の上屋敷があった場所である。
この赤門は、徳川11代将軍、家斉の息女が前田家に輿入れする際につくられたもので、正式には御主殿門という。御主殿門というのは、将軍の娘が、三位以上の大名に嫁した時、御主殿と呼ばれたためである。
ちなみに、この赤門界隈の風景を、歌川広重が『江戸土産』のなかで「本郷通り」と題して描いている。
赤煉瓦塀に囲まれた広大な敷地は、今は東京大学であるが、「切絵図」を見ると、加賀中納言と水戸殿とある。大半は加賀藩の敷地で、水戸藩の中屋敷は、現在、農学部が置かれている敷地である。
ところで、5代将軍、綱吉治世の元禄15年、藩邸の敷地八千坪を使って迎賓館ともいうべき御成御殿がつくられたことがあった。が、その豪華な建物も翌年には焼失。こうした、度々の火災や地震で、幕末の頃には、屋敷はまるで廃墟のように荒んでしまったという。その後、明治9年、東大の前身の建物がつくられ現在に至っている。
東大正門前の一帯は、かつて森川町とよばれていたところである。「切絵図」を見ると岡崎藩主本多美濃守の屋敷地とある。今は本郷六丁目と町名変更しているが、この町に隣接する西方町とともに、一帯は近代文学の作家や学者が多く住んでいたところである。
西方町の町名は現在も健在であるが、この町域は福山藩主阿部伊豫守の屋敷地(中屋敷)があったところだ。阿部家は代々の老中家で、11代正弘は日米和親条約を結んだ筆頭老中として歴史に名高い。
かつてこの地に誠之館という藩校が置かれていたが、同町にある、明治8年開校の誠之小学校はこの藩校の名を引き継いだものだ。
煉瓦塀のつらなる東大前のイチョウ並木をさらに北に向かうと、やがて道は二股に分かれる。ちょうど、東大農学部があるあたりである。
「切絵図」を見ると、追分と記されている。古くから本郷追分と呼ばれ、荷駄の往来で賑わったところである。ここに一里塚があった。
右を行けば、日光御成街道(岩槻街道)、左を行けば中山道(国道17合線)だ。道が分かれるところに、森川金右ヱ門とあるが、森川町の名はこの人物の名をとったもの。
金右ヱ門は、この地にあった御先手組の組頭で、中山道の警備の任についていた人物である。
また、この地には、高崎屋という江戸で有名な現金安売りの酒店があった。
右手の道、御成街道を行く。
このあたり、「切絵図」では、大番組、御小人中間、御先手組の組屋敷が連なっている。いずれも幕府役人が居住していた地域である。
しばらく行くと寺町になり、道の左右に幾つもの寺が現れる。通りの左側にあるのが西谷寺(現在は西善寺)、唐辛子地蔵がある正行寺、そして右側に經妙寺(現在は浩妙寺)、極彩色あふれる浄心寺。この寺には春日局がご愛祈したお地蔵さんがある。そして、長元寺、十方寺とつづく。
やがて、左手に見える向ヶ丘高校を過ぎるあたりで繁華な商店街になる。向ヶ丘二丁目交差点に出たら左に折れる。一言寺(現在は一音寺)の前を過ぎ、中山道を南にもどる。このあたりかつては白山前町と呼ばれたところである。
由来は、近くに白山権現(白山神社)があったからだが、その門前町として賑わった町人地である。
左手に入ったところにあるのが大円寺。しばしば江戸の火事の火元になった寺である。この寺に八百屋お七にちなんだ地蔵が安置されている。この地蔵はほうろく地蔵の名で知られ、焙烙(素焼きの土鍋)を寄進すると、首から上の病気、特に眼病に効き目があるとされ、江戸時代には庶民の絶大な人気を集めたという。
ついでながら、この寺には高島秋帆と斎藤緑雨の墓がある。
秋帆は幕末の洋学者。緑雨は明治期の気骨の文学者で知られている。
大円寺の前の坂道を西に入る。「切絵図」では坂の途中に浄心寺、円乗寺の名が見える。この坂を浄心寺坂という。円乗寺には八百屋お七の墓がある。なぜか三基あるが、中央の墓に妙栄禅定尼の戒名と天和3年(1683)3月29日という処刑の日が刻まれている。
お七の墓がここにあるのは、ここが彼女にとって因縁ある場所であるからだ。
ある日、大円寺の火事で焼け出されたお七一家がここに避難していた時のことだった。そこでお七はその寺小姓と運命的な出逢いを果たすことになった。お七はのちに寺小姓に恋い焦がれ、ついに自分の家に放火するという大罪を犯すことになる。
これが巷間知られる八百屋お七の物語であるが、史実はほとんど分かっていない。
ちなみに、お七の家(八百屋)は本郷追分片町にあったというから、前述の高崎屋と同じ町域にあったことになる。追分を左に進んだ中山道の東側にあたる。
坂を下りきったところで、こんどは傾斜のある通り(白山坂)を上る。「切絵図」を覗くと通りの左に寺社がかたまっている。白山権現(白山神社)を囲むようにして心光寺、妙清寺、竜雲寺などの名が見える。江戸期、このあたりは樹木が鬱蒼とした場所だったのだろう。
白山神社は長い参道を上りつめた台地上にある。明治22年建立の大鳥居をくぐると、緑濃い境内がひろがる。唐破風を張り出した銅板葺き屋根の拝殿は見るからに堂々と古社の雰囲気をたたえている。
神社は小石川を鎮守する古い社であるが、特に5代将軍綱吉とその生母桂昌院の厚い信仰を受けて栄えたという。背後にそそり立つ建物は東洋大学だ。都営三田線白山駅はすぐそばである。
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