場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

桜田門の変 ・・・ 鮮血にそまった江戸城の一角ーその2

2022-02-11 18:53:11 | 場所の記憶
 が、ついに、その時がやって来た。
 彦根藩の赤門が開かれ、長い行列が静々と現れたのである。
 行列はきざみ足で堀端のサイカチ河岸をこちらに向かって進んで来る。その数六十名ほどの供回りを従えての、いつもながらの大規模な行列だった。いずれも赤合羽に身を纏い、かぶり笠を被っている。何かを警戒する様子はなかった。
 手はずのとおり、十八名の男たちは、すでにそれぞれの配置についていた。彼らの出で立ちは、合羽姿の者、羽織を着る者とさまざまだった。
 雪の降る見通しの悪い日であったので、互いに鉢巻きし、襷をかけること、合言葉を交わし合うことなどが取り決められていた。
 佐野、大関、海後、稲田、森山、広岡らは濠側に待機していた。一方、黒沢を先頭に、有村、山口、増子、杉山らは杵築藩主松平大隅守屋敷の塀ぎわをそぞろ歩いていた。さらに斎藤、蓮田、広木、鯉淵、岡部らが後攻めとしてその後方についた。そして、ひとり関鉄之介が全体の指揮をとるべく桜田門際の濠側に立っていた。 
 井伊の行列の先頭が、濠沿いから今まさに桜田門方向に向きを変えようとする時だった。 
 襲撃のきっかけをつくったのは桜田門辻番所のそばに潜んでいた森五六郎だった。
 森が下駄をぬぎ捨て、雪中を駆け足で、あたかもなにかを直訴でもするように行列に近づいた。そして、やおら饅頭笠をはねあげると、羽織を脱ぎ捨てた。
 すると、中から白鉢巻きに十文字の襷姿が現れた。森はただちに抜刀すると行列に襲いかかった。
 その時、銃声が一発、鳴り響いた。それは全員が行動を開始するための合図の銃声だった。黒沢が撃ったものだった。
 ついに、襲撃がはじまったのである。
 行列は千々に乱れて、すぐさま乱闘となった。襲いかかる者、それを防ぐ者。
 襲撃の側が左右から押し寄せたので、襲われた方は狼狽した。しかも、井伊家側の供廻りは、雪の降るこの日、刀身が湿気ないように皆、鞘を袋で覆っていたため、すぐさま抜刀できないのが致命的だった。
 慌てたのは襲われた井伊側ばかりではなかった。襲撃側の浪士たちにとっても、前日に決めた段取り通りに事は運ばなかった。
 敵味方、間違わないようにと取り決めた白鉢巻き、白襷姿の装いは守られなかった。雪の降りしきる中、味方同士、刃を斬り結ぶ者がいた。
 狂気の眼は、冷静な判断を失わせていた。間合いをとって斬り合うなどということはなく、身体をぶつけ合い、鍔ぜり合いをしながら斬り結んだ。そのため、指が取れ、耳を切り裂かれるといった者が多く出た。 
 乱闘のさなか直弼の駕籠は地上に放置されていた。駕籠の陸尺が恐怖のあまり逃げ出したのである。それを目ざとく見つけた稲田が深手の身体であるにもかかわらず、よろけながら近寄り太刀を両手で支え、駕籠をぶすりと刺し貫いた。
 これを見た海後がつづいて刺す。さらに佐野が。最後に、有村が業を煮やして駕籠をかき開け井伊直弼の襟首をつかんで引きずり出す。この時、すでに直弼は虫の息であったという。
 有村は直弼の首をかき取り、それを刀の先に突き刺して、ふり絞るような声で何かを叫んで歓声をあげた。
 直弼の首級をあげた後も闘いは散発的につづいたが、戦闘はわずか10分ほどで終わった。白い雪があちこちで真っ赤に染まるなかに、斬り倒された者が点々と横たわっていた。
 この戦闘の結果、浪士側の犠牲者は、その場で斬り倒された稲田をはじめ重傷を負って、その後、自栽あるいは絶命した佐野、広岡有村、山口、鯉淵、斎藤、黒沢ら八名に及んだ。また、大関、森山、杉山、蓮田、森ら5名は、襲撃の後、斬奸状を携えて自首。残りの者は逃亡した。
 一方、彦根藩側の犠牲者は、井伊直弼ほか、8名(内四名は重傷を負ってのちに死亡)が死亡、10名が負傷した。また、この乱闘に藩邸に逃げ帰った7名が斬首されている。
要撃側の人間はほとんどが水戸藩脱藩の下中級の次、三男の青壮年だった。開国か攘夷かで国論が二分されていた幕末の社会状況のなか、彼らもその対立の波に呑まれていったのである。 
 時の幕府は、大老井伊直弼の独断で開国政策をおし進め、対立する尊王攘夷論者の徹底的な粛清を計っていた。世にいう安政の大獄である。
 水戸藩は尊王攘夷論の牙城であった。朝廷は水戸藩に勅命書を下し、攘夷の実行と幕政改革を求めた。これに対し、井伊直弼は勅命を無視して、開国を断行し、強権をもって水戸藩を弾圧した。
 この井伊の措置に反発した一部の水戸藩士たちは、井伊を倒すことで、政治の流れを変えようと試みた。彼らは脱藩し、大老打倒の行動を起こしたのである。
 この桜田門の変のあと、幕末の社会は血生臭いテロが続発し、やがてそれが幕府崩壊への道を加速させたとも言われている。
 力をもって現状を変革できるという期待感を、この出来事は尊王攘夷を信奉する武士たちに抱かせたことになる。 
 回向院には、現在、この事件関係者の墓碑が十六基並び立っている。大関、森、森山、杉山、蓮田ら5名の自首した者と関、岡部ら逃亡ののち捕まった者たちの墓が計七基。彼らはいずれも、武士の名誉としての切腹ではなく死罪を申し渡され、断首されている。
 このほかに戦闘で死亡した者たちの墓が八基。彼ら8名の遺体は事件後、塩漬けにされたあと首を斬られ小塚原に打ち捨てられた。さらに、大老襲撃には直接参加していなかったが、計画の首謀者である金子孫次郎の墓がある。金子はのちに、四日市で捕縛され死罪になった。
 18名の参加者のうち、逃亡した広木松之介は二年後、同志のほとんどが死に絶えたことを知って絶望し自刃した。残る増子金八、海後嵯磯之介の二人は、明治の時代まで生き延びた。
 今、桜田門事件のあった辺りには、過去の面影は微塵もない。旧彦根藩邸には現在憲政記念館が建ち、乱闘のあった警視庁前辺りは広く拡張され、車の往来がしきりである。通り沿いには近代的な建物が林立し、その反対側には静まりかえった濠と、皇居の緑のかたまりを望むばかりだ。
とはいえ、その地に、ひとつの歴史的出来事の記憶が深く刻み込まれていることには変わりない。   完

タイトル写真:回向院(南千住)桜田門外の変、関係者墓地
 

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