場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

将門伝説を歩く・・・・坂東の地に起きた武士の謀反ーその1

2022-01-07 22:42:05 | 場所の記憶
  どこまでも明るく曇りない空がひろがっている。目を遠くにやると、はるかかなたに、ゆるやかな裾野をひろげる筑波山の黒い山容が望める。澄みわたった大気がじつに清々しい。
 そんな光の満ちる風景のなかを、いま目の前を馬に鞭をあてながら東をめざして疾駆していく武士の一団がいる。狩衣姿の武将を先頭に、その郎党らしき男たちが土煙をあげながら野面を走ってゆく
 いまからさかのぼること千五十年ほど前の、天慶二年(939)十二月一日、平将門が謀反を起こしたという知らせが京の朝廷にもたらされた。世に天慶の乱と呼ぶ。 
 謀反を起こした将門が根拠としていた地は鬼怒川の西域、豊田、猿島両郡一帯であった。現在の茨城県岩井市を中心とする地域である。古図をひろげて見ると、その地域は、いくつもの川が並行して流れ、沼池が点在する水郷地帯であったことがわかる。水の豊かな地は河川の氾濫がくりかえされる乱流地帯でもあった。それだけに地形の変化が激しかった。なかでも荒れ狂う川として知られる鬼怒川の河川地帯はその変貌がいちじるしかった。
 河川が氾濫するたびに土地の様相が一変するという地理的条件は、当然のことながら土地を所有する豪族たちの領地の確定を不安定なものにした。
 『将門記』によれば、平将門が身内の平家一門の伯父(叔父)たちと争いを起こし、やがて、京の朝廷に反旗をひるがえすまでに至る、その遠因に土地所有の争いがあったとされる。その争いの背景にあったものは、たびたび氾濫する

 一千年も前の出来事を追想しながら、その旧蹟をたどろうというのである。どれだけのことが可能なのか、出かける前に多少の不安があった。
 まず訪れたのは将門が本拠を置いた館跡である。そこは石下町の西方、鬼怒川の流れを東に見る微高地(向石下)で、かつてその南方には古間木という名の沼がひかえていたという。館の立地としては格好の場所であったことがうかがえる。 
 豊田の館と呼ばれたその館は、いまは将門公苑という名のあまり広くない緑地になっていて、そこには「平将門公本據豊田館跡」の石碑が立っている。
 豊田の館の由来を詳細に解説する大きな看板と、りりしい面貌をした、弓を手にする将門のエッチング座像がこの地の記憶をよみがえらせてくれる。 
 その頃の豪族の館の多くがそうであったように、館がおかれた微高地の周囲には、深い濠がつくられ、高い土塁がめぐらされていた
 敷地内には防風林にかこまれて、質素な茅葺きの館-家族が住まう寝殿、公務の場所である政所、馬屋、倉庫、工房など、が幾棟もならんでいたにちがいない。将門は妻子や母、兄弟たちと共にそこで生活していたのである。
 そして、その館の周囲には近親者や従類たち(郎党)の小宅が軒をならべ、さらに、その外域には広大な田畑がひろがっていた。
 その田畑で働く人々は、伴類と呼ばれる家人たちであった。彼らは、ふだんは私宅に住み、私有地を耕す生活を送っているが、農繁期になると将門一族の直営田の耕作に従事した。
 この頃の武士というのは、後世のように職業的な身分ではなかった。実態は武装した在地地主ほどの意味であった。日ごろは農事に専念し、ひとたび事が起こると、従類は騎馬隊として、伴類は歩兵として戦場に駆り出されたのである。
 将門が自分の所領としていた土地は、亡くなった父親から受け継いだものだった。その土地というのは、父が原野を新たに開墾した私営地であった。
 一帯は、いまでこそ美田のひらける米作地帯であるが、将門の生きた時代は、いまだ開墾の行き届かない原野がひろがっていた。
 その原野の名残とも思える雑木におおわれた小丘が、いまも水田や畑地のここかしこに残されている。そこは野生の鹿が走り回るような場所でもあった。
 ところで、将門が父から受けついだものは、農地だけではなかった。官営の牧場の(官牧司)という役務があった。 
その官営の牧場とも言うべき官牧は、豊田の館に近い大結馬牧(現在の大間木)と石井の営所の後背地である長洲馬牧(現在の長須)にあった。
 古図を見ると、いずれの地も、沼(広江)や川(利根川)が流入する砂州状の台地にある。つまり、これら台地を利用して放牧地がつくられていたことがわかる。馬の名を冠した馬立、馬場、駒込などの地名がこの地区に散見されるのもその名残だろう。
 将門がのちにこの地域を制覇することになるのは官牧司として馬の扱いに熟練していたことがあげられる。騎馬戦に強い軍団であったのは当然であった。
 将門が最初の争いに巻きこまれたのは野本という地であった。将門がはじめて武力をもって争った地とされる野本という場所は、現在の野爪あたりであろうと比定されている。鬼怒川の西岸のこの地には、いま鹿島神社が建っている。
 鹿島神社の創建は大同元年(806)というから、将門が乱を起こす百年以上も前からすでにこの地に鎮まっていたことになる。常総十六郷の総鎮守という格式ある神社である。神社の来歴にも、承平五年(935)二月、将門の乱の兵火により炎上するという記録が見られるので、すでに将門の時代には存在したことは確かである
 いま見る建物がいつ頃のものか定かではないが、千木をつきたてた傾斜の強い屋根をのせる古格な神明づくりの社殿が威厳をはなっている。 
 将門がこの地ではじめて争いを起こした相手というのは源護という地方豪族である。源護の本拠地は、現在、大宝八幡社がある大串の地にあった。
 ついでながら、将門も戦勝祈願したという大宝八幡社の創建は大宝元年(701)と、これもかなり古い。その地には平安から南北朝にかけて城が築かれていたらしい。
 源護の館もこの地にあったのだろうか。三方を断崖に囲まれた地形は、いま見ても要害の地であったことをうかがわせる。 
 両者の争いの発端は土地争いをめぐってであるとされている。大串にあった源護の本拠地と将門の所領とはどうやら隣接していたようである。それゆえに生じた争いであった。
 鬼怒川をはさんで隣接した所領をもつ間柄となれば、川の氾濫で流れが変わり、それが土地の境界を不明瞭にし、争いの基になるということは大いにあり得ることである。 
 野本の争いは、まず源護側が将門軍を迎え撃つ形ではじまったと『将門記』は記している。 
 ふいの待ち伏せで将門軍は進むことも退くこともできなくなり、意を決し敵中に突進した。幸いにもこの時一陣の追い風が起こり、将門軍が放った矢は風にのり、流れるように走り、相手方の兵士をつぎつぎと射貫いていった。
 この戦いで、源護の三人の子息、扶、隆、繁らは相次いで戦死。源護の軍勢は総退却を余儀なくされたのである。
 じつは、この戦いには将門の伯父(叔父)たちもかかわっていたのである。伯父の国香、良兼と叔父の良正の妻たちは、いずれも源護の娘であった。そうしたしがらみから、一族でない源護に平一族の伯父(伯父)たちが加担することになったのである。
 勝利の波にのった将門軍は攻撃をやめなかった。勢いに乗じた将門軍はなおも騎馬を駆って源護の本拠地である大串を襲い、取本(現在の木本)をぬけ筑波山西麓にある石田にまで攻め入った。
 さらに、筑波、真壁、新治地区にある伴類の家々五百ほどを焼き尽くした。伴類というのは、源護や将門の伯父(叔父)たちと同類の者たちのことで、さきにも述べたように彼らは半農半兵の農民である。
 『将門記』は言う。「雷を論じ響を施し、其の時の煙色は雲と争うて空を覆う」と。
 筑波山の西側にひろがる広大な曠野のあちこちで、ごうごうと音をたてて黒煙が渦巻き、それらが空をおおったというのである。春まだ浅き平和な地にとつじょ巻き起こった騒乱であった。
 狂ったような将門軍のふるまいである。たまりにたまった憤怒のエネルギーを放出したかのようだ。それは将門の胸の内にあった屈辱を晴らす行動でもあった。
 将門はこの戦いのさなか伯父の平国香の館を襲っている。一族の長老である伯父の国香が住まう石田の館を焼きつくし、国香を殺戮した。
 筑波山麓の石田地区一帯には、いまも白壁をめぐらした豪農を思わせる家や海鼠壁の立派な屋敷門をかまえる家が散在する。石田の地は昔から豊かな農村地帯であったのである。
 ところで、『将門記』にもあるように、この争いには女の問題があったというが、真相はどうだったのだろうか。「いささか女論によって、舅甥の中すでに相違う」と『将門記』が記すところの舅甥とは将門と将門の伯父のひとり良兼のことである。この記述からすると、将門にとって良兼は、伯父であると同時に舅でもあったことが知れる。 
 このことから、将門は良兼の娘を妻にしていて、そのことで伯父(舅)と甥との関係が悪化していたということになる。
 ここでひとつの推論を述べてみよう。
 そもそも娘を将門の嫁とすることに良兼は反対だったのではないか。にもかかわらず、甥である将門が自分の娘を、強引に妻にしたのだ。これが女論の中身ではなかったのか。
 そうした両者の冷えた関係のなかで、将門が源護一族と争いを起こした。さきに述べたように、良兼の妻は源護の娘である。以前からの関係の悪さからしてもこの争いを座視するわけにいかない立場であった。
 一方、将門にとっても、父親から引き継ぐべき土地の問題で、良兼に対しては、以前から少なからずわだかまりを抱いていた。伯父の平良兼の管理下にあったその土地が、将門のたびたびの返還要求にもかかわらず一向に返される様子がなかったのである。妻のことでもすでに仲を違えている。日頃からの双方の不信が一挙に爆発したことになる。 
 承平五年(935)二月に突如起こった騒乱により常総の地は以来、戦乱の地と化した。
 秋の収穫期の終わりを待ちかねたように、その年の十月二十一日のことである、将門の無法に怒った叔父のひとり良正が将門征伐に立ち上がった。良正はこの時、新治郡の川曲渡しから将門の領地に侵入した。川曲渡しは、野爪の北方にある鬼怒川が大きく曲流する地で、現在の関城町関本あたりと比定されている。
 川曲渡しがあったと思われる鬼怒川の土手に立つと、遠く筑波の峰がゆるやかに裾野をえがいているのが遠望できる。良正は下妻の北を迂回して鬼怒川を渡河したのである。だが、良正は将門になんなく撃退されてしまう。
 良正の本拠は水守(みのと)という地にあった。水守は今のつくば市水守である。そこは国香の館がある石田からも近い。
 目的を果たせなかった良正は、こんどは、兄の良兼に助けを求めた。良正の要請により良兼が腰をあげたのは、翌年の承平六年六月二六日のことである。ついに、良兼との直接対決を迎えることになる。
 上総の国府(現在の市原市五井町)にあった良兼は、大軍を率いて、途中、鹿島神宮に戦勝祈願をし、それから下野の国に入った。そこから鬼怒川の上流をわたり、将門の豊田郡に侵入した。その数三千の大軍であった。
 だが、この良兼の大軍も将門にうち負かされることになる。あげくのはてに良兼は下野の国府に逃げこむはめになる。 
 将門の力はすでに伯父(叔父)たちを圧倒するまでに強力になっていたのである。抗争はしだいに拡大していった。やがて、その争いの様子は都にも達するまでになる。
 争いの仲介を求めて、双方の当事者が京の朝廷に使いを出すのもこの頃である。将門自身も京に上洛することになった。   
 が、この間にも常総の争いはエスカレートしていった。 続く


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