石狩市 マンホールカード をもらいに、道の駅石狩「あいろーど厚田」
に行ってきました。
平成30年4月27日オープンしたばかりの新しい道の駅です。
ファイターズの選手たちが迎えてくれます。
2階で厚田と北前船の展示がありました。
古潭の北前船
北前船は大阪と蝦夷地・北海道を日本海経由で往来した商船です。
松前藩は江差、箱館、松前の三港以北への往来を禁じていたため、石狩や厚田
小樽に北前船が来航するようになったのは、幕府が蝦夷地を直轄とした安政年間
以降で、最盛期は明治時代でした。当時の厚田の様子について、北前船が入港
すると、船から一文銭がばらまかれ、子供たちには飴玉が配られました。
さらに船からは羽織袴の船頭が船箪笥や手箱を担いだ水夫たちを引き連れて
船宿に向かいました。船宿までの道中で水夫たちは子供たちにおにぎりを配り、
お祭りのような賑わいでした。といった記録が伝わっています。
佐藤松太郎の持船「長栄丸」が厚田古潭の押琴湾に入港した情景を表現しています。
北前船では、鰊粕や身欠き鰊などの海産物が厚田から本州へ運ばれました。
厚田神社には鰊の豊漁と地域の繁栄を記録した明治24年の鰊豊漁記念碑が
残されています。大量に漁獲された鰊は主に食用ではなく肥料として販売され、
開拓期の北海道経済を支えました。主な生産物であった「鰊粕」は、鰊を
居合水でゆでてから魚油を搾りだし、乾燥させてから砕いておよそ90kg(24貫)
の俵に詰めました。畿内や瀬戸内、北陸では、綿花、菜種、藍、漆などの
高価な商品作物を生産するために魚肥を施すことが必要でした。
かつて利用していた瀬戸内や房総の鰯が枯渇したため北海道で生産される
鰊粕に依存していたのです。北前船ではその他身欠き鰊や数の子、塩引鮭、
魚油、昆布なども運ばれました。鰊漁業の繁栄は、道内各地に残された鰊御殿
と称される豪華な住宅や巨大な番屋建築に見ることができます。石狩市内では
浜益区の旧白鳥家番屋が保存され、「はまなす郷土資料館」として活用されて
います。
マンホールカードはこちらのカウンターでいただけます。
石狩市 マンホールカード
本デザインは、小中学生から寄せられた172の作品から選ばれました。
夕日が沈む日本海を背景に、実稲穂とサケ。、そして暑寒別天売焼尻
国定公園の一部に指定されたルーラン海岸の「オモイの洞門」が描か
れています。
道の駅石狩「あいろーど厚田」
石狩市厚田区厚田98-2
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