船入澗(ふないりま)は、大型船が接岸できるふ頭が作られる以前、港湾荷役
の中心だった艀(はしけ)による貨物の積み下ろし場でした。
日本郵船船入澗は、明治20年代に海岸の埋め立てと合わせてこの場所に整備
されたもので、支店事務所と周囲の石造倉庫群が一体化した光景の中、貨物を
満載した艀が活発に出入りする姿が見られました。
この公園内の池は、当時の船入澗を4分の1の面積で再現したものですが、
実際の船入澗のあった位置には、四隅に青銅板を配置し、それらを黒御影石で
結んでおります。
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1999年の都市景観賞
うるおいのあるまちづくりに寄与したことをたたえて 小樽市
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敷地内に彫刻あり。
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正四位勲二等 伊藤長右衛門君像
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伊藤長右衛門
1875(明治8)年福井生まれ。
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東京帝国大学で、のち日本近代港湾建設の父といわれた廣井勇に指示。卒業後、
廣井の後を継いで第2代小樽築港事務所長に就任し、第二期工事に携わる。
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彼が考案した上がらしい技術は、その後の各地の築港工事の模範となった。
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地域に生きる 峯山冨美 の石碑あり。
検索すると、書名 地域に生きる : 小樽運河と共に 著作者等 峯山 冨美 とのこと。
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もう一つ胸像あり。
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昭和4年10月建立
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工学博士廣井勇君之像
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博士は文久2年土佐に生れ昭和3年東京に逝く 学徳高く一斉の憬仰する所なり
その北海道港湾の修築に貢献したる功績はこれを永遠に傳うべし
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廣井勇
1862(文久2)年高知生まれ。
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札幌農学校第2期生。アメリカ、ドイツで橋梁工学・土木工学を学び、帰国後、
札幌農学校工学科教授。のち北海道の港湾改良と築港工事に携わる。
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彼の指導による小樽築港第一期工事は、日本の近代化港湾建設技術を確立し、
世界に高く評価された。
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日本郵船船入澗跡は道を挟んで運河に接しています。
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小樽運河の艀(はしけ)
この船は「艀(はしけ)」と呼ばれ、沖に停泊中の本船と小樽運河などとの間で、
旅客や貨物を運ぶために活躍した小型の運搬船です。
小樽運河は、この艀のために建設されたものです。
小樽港がもっとも賑わった時期は、大正の末期から昭和の初期にかけてであり、
大正13年には、艀の数は600隻以上、八子家の積み卸しに携わる労働者の数は
1300人以上にのぼりました。
多くの米、塩、木材、鰊粕などを積んだ運送艀や旅客を載せた乗用艀が本船と
運河を頻繁に行き来し、艀は活気あふれる小樽運河の主役でした。
小樽市
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炭鉄港カードから小樽の歴史に触れることができたのでした。