解りにくいかも知れませんが・・・・どど~ん、と大きな「福袋」です。
こんなに大きな福袋は見たことありません。
イベントを何か考えて、利用しなきゃ(笑)(^.^)
解りにくいかも知れませんが・・・・どど~ん、と大きな「福袋」です。
こんなに大きな福袋は見たことありません。
イベントを何か考えて、利用しなきゃ(笑)(^.^)
長い長い梅雨の合間、有馬温泉街を散策してみました。
有馬温泉駅から温泉街に向かう途中、湯けむり広場に、雨に濡れる「太閤豊臣秀吉像」が、どっしりと佇んでいます。
そうだ!今日は、久しぶりに「太閤の湯殿館」に行ってみよう!
ぶらぶら歩くこと約5分、寺町界隈に到着しました。
寺町界隈に入ると温泉寺・念仏寺に隣接して極楽寺が見えてきます。
極楽寺は、593年に聖徳太子によって創建された浄土宗の寺です。1773年、大火で焼失しましたが、9年後に再建されたのが現在の建物です。古い歴史のある寺で、かつては念仏の大道場として栄えたと言われています。
寺宝の厨子は、徳川五代将軍綱吉の母である桂昌院の寄進とされており、火除観世音菩薩や法然上人ゆかりの橋杭地蔵尊なども宝物とされています。1995年の阪神淡路大震災で損壊した庫裏(くり:寺の調理場)の修理中に、安土桃山時代の遺跡が発掘され、秀吉が造らせたと伝えられていた「湯山御殿」 の浴室や庭園の跡であると確認されました。湯殿の存在は昔から言い伝えられていたようですが、古文書や絵図面などの文献資料はありませんでした。庫裏の下から400年の時を経て、数々の遺構や出土品が出てきたため、言い伝えが正しかったことが判明し、1997年に神戸市指定文化財の史跡に指定されました。
さらに、1999年、これらの遺跡と出土した瓦や茶器などを保存・公開するとともに、 秀吉が愛した有馬温泉の歴史と文化を紹介するため、この御殿跡に「太閤の湯殿館」がオープンしました。
館内には、蒸し風呂と岩風呂の遺構を展示してある他、焼き物や瓦などの出土品、復元した龍の飾り瓦、さらには秀吉と有馬温泉の深い関わりを示す資料などが展示されています。内装には、安土桃山時代の「ふすま絵」や「飾り欄間(らんま)」のレプリカが取り入れられ、太閤秀吉の “夢の跡” を現代に再現しています。
湯殿館に入る前に、極楽寺の境内には、豊太閤の碑があります。普段は、あまり気付かない石碑です。
太閤豊臣秀吉は有馬温泉三恩人の中の第一人者だと言われています。
湯殿館前の庭園は、地下約1mの所に埋没保存されている湯山御殿を復元したものです。園池は花崗岩と凝灰岩でつくられており、茶の湯に使用する水を汲んだと考えられます。
庭園には、手水鉢もあります。この手水鉢は、鍋島藩・菊池家に「太閤秀吉公ゆかりの品」と伝わるもので平成11年8月、神戸市に寄贈されたものです。
太閤の湯殿館に入ると向かって右手に、岩風呂の遺構があります。これは秀吉が病に倒れて、遂に入れなかった岩風呂です。
この浴槽は、現在のように、お湯に浸かるタイプのもので、水風呂(すいぶろ)と呼ばれていたそうです。岩風呂の遺構は2種類あり、いずれも、周囲に柱穴が見られないところから、露天風呂か、または、使用時に周囲に幔幕を巡らすようなものであったと、推定されています。二つの岩風呂は、それぞれ一辺が210cm、深さ65cmの方形で、底面は、砂地のままで酸化鉄が固く沈着しています。南側の岩風呂では、筧で引かれたお湯が岩肌の裂け目から滝湯のように浴槽に流れ込む仕組みになっています。
今の旅館などで見られる露天風呂そのままという感じです。秀吉さんも、このお風呂に入りたかったことでしょう・・・
岩風呂の北に隣接して、蒸し風呂の遺構があります。秀吉の時代のお風呂は、もっぱら、今で言うサウナで、蒸気を小屋の中に引いて温まっていたそうです。
ここでは、本物の遺構の上に風呂場が再現してあります。この遺跡では、2種類の蒸し風呂が発見されていますが、浴室に蒸気をこもらせるタイプが復元・展示されています。
この浴室は半地下式(保温性を高めるための工夫)で、広さは約1坪です。蒸気を十分こもらせるように、天井を低くしてあり、かがみ込んで入るような構造だったと言われています。粘土状の床面に砕石を敷き詰めて、その上に、スノコを敷いて寝そべったり、座ったりして、入ったという当時の雰囲気がよく分かります。
もう1種類の蒸し風呂は、粘土を固めた床面の8cm下に直径約6cmの竹製パイプを埋め込んで、それに蒸気を通して浴室を暖めるという方式です。
正面に展示されている龍の飾り瓦「竜紋棟飾り瓦」です。本物は破片の形で出土されており、展示されているのは復元品ですが、38x162cmと、迫力満点です。
65軒もの家を立ち退かせて造ったという記録も残っていますが、屋根の飾りにこんな立派な瓦を使用していたということは、 太閤さんの権勢を示すような、贅を尽くした御殿だったと思われます。
瓦屋根の棟部分には熨斗(のし)瓦・棟込瓦と呼ばれる飾り瓦が葺かれ、幾何学的な装飾を施すのが一般的ですが、出土品の瓦には、身をくねらせた龍が造形されています。これは、福山市鞆町の慈徳禅院などに見られる龍紋棟飾り瓦と考えられます。脚部分が欠損していて不明ですが、中国では、皇帝の持ち物に造形される龍の指の本数は5本、高官や諸国の王は4本、それ以下は3本というきまりがあります。
秀吉さんははたして何本にさせたんでしょうか?5本やろなぁ…
碁石は、黒色だけが出土しました。黒石は那智黒という石ですが、白石は朝鮮蛤が使われていました。貝殻はカルシウムの固まりなので、酸性土の中に埋まっている間に溶けてしまって、一つも残っていません。
へぇ~。碁石が一番、おもしろかったです。
なんと、軽石も出土しました。重さは68グラム。丈夫なヒモを通した穴を確認できます。
当時から軽石が使われていたんですねぇ。
温泉をひくためのパイプ(樋)の内部に沈殿した湯垢の一部です。この湯垢は金泉の主成分の酸化鉄です。延長20m近くが確認されたうちの一部で、この樋は源泉から庭園地下を通り温泉寺本堂の方向にのびていました。樋自体は朽ちて残っていませんでしたが、湯垢にのこる形状などから断面方形で、幅約15cm・内法幅9cmであることを確認できました。
今でも、有馬温泉の金泉の管理は大変です。鉄分が参加してパイプに詰まります。当時の人も同じ様にパイプや樋を、頻繁に入れ替えていたと思います。
桃太郎が鬼を退治したように「桃」は鬼をも圧倒するといわれています。桃紋の鬼瓦は鬼面の鬼瓦よりも威力があり、鬼門すなわち建物の北東隅にこれが置かれます。
太閤の湯殿跡からもこの、桃紋の鬼瓦が出土しています。ホントに歴史は興味深いです。
大阪市四天王寺から同じ唐草紋の型で製作された瓦が出土していて、中央の「天」は四天王寺の「天」と考えられます。
同じ巴紋の型で製作された瓦が大坂城などから出土していて、豊臣氏おかかえの瓦師の製作であることが判明しました。
このあたり、まだまだ、いろいろな物が眠ってそうです。埋蔵金なんかもあるかも・・・
久しぶりに、有馬温泉歴史探訪倶楽部のブログを更新しました。これからも、有馬温泉の寺社仏閣や旧所名跡を巡って、詳しく掘り下げてご紹介していきたいと思います。