有馬在住

有馬温泉の旅館で働くスタッフのブログ。
有馬温泉・神戸・六甲山の自然や文化を紹介します。

三木城跡

2009-02-23 01:01:00 | 三木

三木城跡

神戸電鉄「上の丸」駅の近くに、戦国時代に東播磨の8郡を支配した別所氏の居城跡があります。秀吉軍の兵糧攻めによって、城内に立て籠もっていた家来や領民は餓えに苦しみ、ネズミや雑草、さらには壁土に混じるワラまで食べるという悲惨な状態でした。このため、この合戦は「三木の干し殺し」とも呼ばれました。城主の別所長治は家来や領民の助命を嘆願し、一族とともに自決しました。

江戸時代の初めには、姫路城の支城の一つでしたが、幕府の一国一城令によって廃城となり、本丸周辺だけが“上の丸公園”として残っています。公園内には、馬上の別所長治像、辞世の句が刻まれている歌碑、抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」があります。毎年5月5日に、三木の大恩人である長治公を偲ぶ「別所公春祭り」が開催されます。当日は、長治公の歌碑の前で「歌碑祭」が行われ、長治公を偲ぶ献詠歌を募集し、優秀作を朗詠しています。


別所長治公首塚

2009-02-20 01:01:00 | 三木

別所長治公首塚

平安時代の創建と伝えられていますが、三木城の城郭の一部にあったため、秀吉軍による城攻めの折に伽藍などは全て焼失しました。秀吉の兵糧攻めに敗れた三木城主の別所長治は、自分の命と引き換えに家来や領民の助命を歎願し降伏しました。長治は、雲龍寺の住職に愛用の天目茶碗などを形見として贈った後、切腹しましたが、その湯飲み茶碗は現在も寺宝として受け継がれています。山門の前を通り過ぎ左に曲がると、住職が長治夫妻の首を貰い受けて埋葬したと伝えられる首塚があります。

別所長治公首塚

雲龍寺では、毎年1月17日に長治公の遺徳を偲んで「別所公祥月命日法要」が行われますが、当日は、餓えに苦しむ領民を思う長治公の遺志を後世に語り継ぐため、ワラに見立てたウドンを食べる伝統行事「うどん会」も開催されます。


竹中半兵衛の墓

2009-02-18 01:01:00 | 三木

竹中半兵衛の墓

「平井山観光ぶどう園」の近くに秀吉の軍師として活躍した竹中半兵衛の墓があります。元来は、美濃の斉藤家の重臣でしたが、秀吉に説得されて斉藤家を見限り、秀吉の軍師として数々の戦功を立てました。三木城攻めの最中に平井山の陣中で病死し、この地に埋葬されました。墓はブドウ畑の真ん中にあり、周囲を白い練り塀に囲まれています。


藤原惺窩生誕地

2009-02-17 01:01:00 | 三木

藤原惺窩生誕地

江戸時代の儒学の祖と言われる藤原惺窩(せいか)は、徳川家康に進講し、大きな影響を与えました。江戸幕府の体制を固めた林羅山など、多くの著名人が彼を師と仰いでいます。生まれ故郷の三木市細川町には「生誕の地」の石碑と銅像が建てられており、毎年、「惺窩祭」が開催されています。


御坂サイフォン橋(眼鏡橋)

2009-02-16 19:37:00 | 三木

御坂サイフォン橋

御坂(みさか)神社の裏山にある、サイフォン(噴水管)原理を応用した水路は、淡河川から送られて来た水を山頂から急角度で52.5m下へ落下させ、その勢いで神社の前を流れる志染川に架けられた「サイフォン橋」の中を通って反対側の高さ50mの台地まで押し上げます。この水路は、神戸市西区など高台にある開拓農地に農業用水を送るために造られました。最初に開拓地の灌漑工事が計画されたのは、江戸中期の1771年でしたが、英国人技師によって着工されたのは117年後の1888年でした。内務省雇員だった英国陸軍のパーマー少将が設計・監督したもので、水路の鉄管も英国製です。

志染川を横切って立体交差で、淡河川の水を運ぶサイフォン橋は、眼鏡橋になっています。下流側から眺めた眼鏡橋は後世に拡幅されたものですが、上流側は明治時代の石組みがそのまま残っています。緑豊かな山間を流れる川に架かる眼鏡橋とその周囲の光景は、欧州の風景画のような雰囲気があります。