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有馬在住

有馬温泉の旅館で働くスタッフのブログ。
有馬温泉・神戸・六甲山の自然や文化を紹介します。

木元(このもと)の火伏せ(ひふせ)地蔵

2009-03-10 17:39:05 | 有馬の昔話
むかしは、有馬を「湯の山」と呼び、病気や疲れを治すために、大勢の人がやってきました。京都・大阪から湯の山へ行くには、生瀬を通ります。せっかく近くに来たのだからと、木元地蔵(このもと・じぞう)さんにお詣りする人がたくさんいました。近くの村人たちは、子どもや女の人を守ってくださる、優しいお地蔵さんだと、大切にしていました。

そのあたりに、川辺(かわべ)の音次というお百姓さんが住んでいましたが、若いのに日ごろから仏さまを深く信じ、木元地蔵さんによくお詣りしていました。

夫婦にはかわいい赤ん坊が一人ありましたが、ある日、夫婦で裏山へ薪を取りに行く時に、よく眠っていたので、わらカゴに寝かせたまま出かけました。

一生懸命に木の枝を集め、縄でくくって、帰り支度を始めました。「やれやれ、今日の山仕事はこれですんだ。さあ帰ろうか。」その時、ふもとの方を見ると、家の辺りに黒い煙が立ちのぼっています。「火事だ!」背負った薪をかなぐり捨てて、二人は一目散に山をかけ下りました。家中火の海になった中でかわいい赤ん坊が眠っている!そう思ったら、気も狂わんばかりで、息せき切って家の中に飛び込みました。



一面の煙と炎の中で、二人が目にしたのは、日ごろお詣りしている木元のお地蔵さんの立ち姿でした。赤ん坊は、お地蔵さんの胸に抱かれ、スヤスヤと寝ているのです。いつも優しい顔のお地蔵さんが厳しい顔になって煙や火の粉が赤ん坊に降りかかってこないように、衣の袖で懸命に払っていました。音次は急いで赤ん坊を抱き取り、外へ飛び出しました。妻に赤ん坊を手渡すと、音次は再び家の中に飛び込みましたが、激しく燃えている火の中に、お地蔵さんはどこにも見えません。



家が焼け落ちた後、音次は、ハッと気がついて、木元のお堂へかけつけました。お堂の中には、いつもと変わらぬお地蔵さんが優しい目をしてこちらをご覧になっていましたが、お顔や衣が焼けこげて黒くなっていました。
「赤ん坊を火事から助けて下さったのは、お地蔵さんだったんだ!」「ありがとうございます。おかげ様で私どものかわいい子どもが助かりました。このご恩は一生忘れません!」

母親も赤ん坊を抱いてかけつけ、親子三人はお地蔵さんを拝んだまま、長い間その前を離れようとしませんでした。

今でも、お地蔵さんの左の頬と左の衣に傷あとがはっきり残っていて、「火伏せ(ひふせ)地蔵」と言い伝えられています。


行基上人と船坂の鯉塚

2009-02-22 01:01:00 | 有馬の昔話

むかし、行基上人(ぎょうき・しょうにん)があちこちと旅をしながら、病に苦しむ人たちを見かけると治していました。

摂津の国の有馬に名湯があるとの話を聞いて、やってきた時のことです。
険しい山を越えて、ちょうど船坂あたりにさしかかると、上人は一歩も歩くことができなくなってしまいました。山仕事を終えた村人たちが通りかかり、松の木にもたれ、ぐったりとしている上人を見つけ、急いで村へ連れて帰りました。

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村人たちは、「何か元気の出る食物を」と考えるのですが、貧しくて其の日暮しがやっとで、そまつな食物しかありませんでした。「そうだ、鯉を食べると元気が出ると聞いたぞ!」
「よし、わしがひとっ走りして山を越えて、奥の池の鯉を捕まえて来よう!」威勢のいい若者が大きなカゴを抱えて、かけ出していきました。

やがて、帰ってきた若者のカゴには、池の主かと思われるような見事な大鯉が入っていました。さっそく村人たちがその鯉を料理し、食べさせると、上人はみるみる元気になっていきました。

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しかし、体はすっかり元気になった上人ですが、なぜか心は晴れません。庭に捨てられた鯉の骨を見て、考えるのでした。「わたしの命は助かったが、その代わりに命あるものが一つ消えてしまった。」上人は念仏を唱えながら、ていねいに鯉の骨を拾い集めて、塚をつくり、鯉の供養をしました。

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西宮北有料道路(盤滝トンネル)の北側に船坂(ふなさか)交差点がありますが、その近くのゴルフ場になっている辺りに「鯉塚(こいづか)」という地名が残っています。

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おとくさん

2009-02-05 01:01:00 | 有馬の昔話

有馬温泉の桃源洞町に古くから伝わる民話をご紹介します。

まだ、有馬温泉が「摂津国の湯山」と呼ばれていた頃のお話です。湯山には、温泉を湯治場として病気を治す目的のお客さんが大勢来ておりました。また、病気を治す仏様として薬師堂にお参りに来るお客さんも来ておりました。

桃源洞は、大谷川(現在の有馬川)の上流にあって、そこには大きな岩や石がゴロゴロとした広い河原と山林がありました。そのため、三田街道は、現在よりもずっと山側に高巻き、つまり高いところを通って湯山入りしていました。栄町にある宝塔から先が湯山、つまり有馬温泉になり、この高巻き道が湯山に入る最後の峠でした。この峠には小さなお堂がありましたが、この当時のお堂は、旅人が道しるべとしたり、休んだり、雨宿りしたりするための小屋で、仏様やお地蔵様などをお祀りしていました。

このお堂に、おとくという身寄りのない小母さんが住み、一人暮らしをしておりました。

ふだんは、宿屋でお客さんの食事の材料とする山菜摘みをしておりました。おとくさんは、いつもお客さんに体の調子を尋ねてから山菜を摘みに行き、それを食べてもらいました。

すると、湯治と山菜料理でお客さんの病気がどんどん回復していきました。うわさが広まって、この宿屋には丹波、京、大阪など各地からお客さんが大勢やって来るようになり、大繁盛しました。

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ある日、丹後から女の子と母親の二人連れというお客さんがやってきました。話を聞いてみると、一家四人が揃って手足がしびれ、痛みが激しくて毎日苦しんでいるが、お金が十分ないので、とりあえず娘と二人だけで来た。治れば、もっと働いて家にいる旦那と息子も連れて来たいと言いました。おとくさんは、直ぐに山菜摘みに行き、食べてもらい、湯治もさせましたが、一向に治りませんでした。母娘は、日毎に弱っていきました。そして、お金がもう無くなったので明日帰りますと言って布団の上に横たわったままで泣くのです。

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おとくさんは、どんな病気にもよく効くという木の実を知っていました。その木は、おとくさんが住んでいるお堂の上の方にある、こんぶ滝の直ぐそばに生えていました。

しかし、この木の実は、その辺りに住む狼の大好物だったので、これまでは、狼の仕返しを恐れて絶対にこの実だけは摘んだりしませんでした。しかし、日毎に弱っていく母娘の様子を見ていて、可哀想に思い、ついに木の実を摘みに行く決心をしました。

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こんぶ滝に行ってみると、万病に効くという木の実がなっていました。狼の食べる分を残して、母娘二人分の木の実を持って、帰り支度を始めました。その時に、ふと丹後で苦しんでいるという旦那さんと息子さんの姿を思い浮かべて、思わず狼の食べる分まで摘んでしまいました。

宿屋に帰って母娘に食べさせると、見る見るうちに熱が下がり、痛みが取れて痺れもなくなりました。そこで、家で待っている旦那さんと息子さんのために取ってきた木の実をおみやげに差し上げました。

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やがて、すっかり元気になった母娘は峠の下あたりまで何度も振り返って頭を下げ、お礼を言い、丹後に帰っていきました。おとくさんも、その母娘の姿を見て大変喜びました。

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それからは、湯山の他の宿屋も毎日お客さんのためにいい食材を探しに山菜摘みに行き、料理にもいろいろと工夫したので、ますます湯山の町が栄えました。

それから何日かがすぎました。おとくさんがズッと姿を見せないので、心配した宿屋の主人がお堂まで探しに行きました。しかし、お堂の中はひどく荒らされていて、おとくさんの姿がありませんでした。そこで、近所に住む人々が総出で山や谷を毎日探し歩きましたが、おとくさんは見つかりませんでした。数日たって、山奥にある十八丁谷でおとくさんの着物をくわえた狼を見かけたという人が現れました。人々は、それを聞いて大そう悲しみました。そして、おとくさんのために、皆でお堂の前に立派なお墓を立てました。

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それから一年ほど経って、丹後から病気の治った家族が四人そろって、丹後ちりめんの着物を持って、おとくさんにお礼にやって来ました。しかし、おとくさんの哀れな最後を宿屋の主人から聞いて、とても驚き悲しみました。そこで、おとくさんを偲んで、お堂の中に石佛を安置して丹後ちりめんを着せました。それからも、その仏様には、毎年新しい丹後ちりめんが着せられていたそうです。そして、おとくさんは湯山の宿屋で働く人たちのお手本となり、その命日には絶えることなく花が供えられていました。

今は地名として、桃源堂(峠堂)、こんぶ滝(旧幼稚園の北側)、おとくら谷、おとくら橋などが残っています。


こぶ坂

2009-01-22 17:36:46 | 有馬の昔話
むかしむかし、ひとりの病人がいました。
眼の上に大きなこぶが出来たので、有馬温泉に入り、薬師如来様にお祈りして治そうとしました。

こぶ坂

はるばると、有馬まで来て温泉につかり治そうとしましたが、残念ながら病は治りませんでした。仕方なく、病人はすごすごと有馬を後にしました。
ところが、有馬の東のはずれにある坂道にさしかかると、突然、熟した果物が木から落ちるように眼の上のこぶがポロリと取れました。

こぶ坂

それを聞いた人々は、この坂を「こぶ坂」と呼ぶようになりました。
有馬温泉から瑞宝寺に通じるこの坂道は、今ではきれいに舗装されています。

阿弥陀堂と古茶釜

2009-01-05 01:01:00 | 有馬の昔話

ある時、太閤秀吉が天神山のそばの金湯山蘭若院阿弥陀堂という禅寺を訪ねた時のことです。

和尚さんは澄西和尚といいました。

この和尚さんの頭は、とても大きく猪みたいな形をしていたので、太閤様は「妙な形の頭じゃな。そうじゃ、利休を呼べ!」と、千利休を呼び、和尚の頭の形をした茶釜を作るように命じました。

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利休はこの釜を天下一与次郎に作らせて、「猪首釜」と名付けましたが、人々は寺の名から「猪首釜」のことを「阿弥陀堂(あみだどう)」と呼ぶようになりました。

これが茶の湯に用いられる「阿弥陀堂釜」の始まりです。

この阿弥陀堂釜は、糸桜で有名な善福寺に今も伝わっています。