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goo リュウセンの写真日記

自分の思ったことをストレートに携帯やコンパクトデジタルカメラの写真をアップしながら、可能なかぎり毎日書き綴る私日記です。

ありのままの自分を発信するメリット

2013-06-18 07:19:40 | 日記・エッセイ・コラム

「(短期的な利益や欲望充足を目的とするあまり)自己を過剰に、あるいは自身が望まない方向に表現する危険性」について警鐘を鳴らしました。

ソーシャル疲れ、ならびそれによって引き起こされる燃え尽き症候群についての対応方法として、「自然体、ありのまま、無理をしない」という話をしてきました。
具体的には、「ありのままの姿を発信するメリットを意識する」ことが大切だと思っています。

ありのままの姿を発信するとは「等身大の自分を、自身の言葉で語る」ということです。
これによって、私たちは日々の思考や行動の記録が一つ一つ、紛れもなく、蓄積されていくという内なる喜びや達成感を味わえます。

ソーシャルメディアを使って発信していて陥りやすいのは「何のために、これをやってるのだろう?」という疑念や不毛感に苛(さいな)まされることですが、それは肝心の自分の喜びを軽視し、「対外的にいい格好をしようとする」ところから生まれます。

そのような外側に向けての動機ではなく、内側から湧き上がる欲求こそ大切にすべき、そんな風に考えているのです。
たとえば、もし仮に、発信しているのが自分の言葉ではなく、引用、転載ばかりであったとするならば、忙しくなってきたら、「この時間のない中、なんでこんなことやってるんだー(怒)」ということにもなりかねません。
※別に誰かが頼んでやってもらっているわけでもないんですけどね。

あるいは、取り繕わない、素のままの自分を出すからこそ得られるメリットを確認する、自覚するというのもいいでしょう。
演じている自分には「そこで演じられている姿」に魅力を感じる人が集まります。
でも、それは決して、本当の自分ではないから、段々と苦しくなってくるのです。

(ちょっと違うかもしれませんが、一つのイメージとして)最初に小さな嘘をついてしまったが故に、その小さな嘘を糊塗、彌縫するために、さらに嘘をつき、やがてはにっちもさっちもいかなくなって、絶望に突き落とされるのと似ているかもしれません。
本来の自分とかけ離れた姿を演じているうちに遂には乖離が許容範囲を越えて、「あー、もういい!」「もーやめた!」となるのです。

その反対に、ありのままの姿を発信していれば、そんな自分に共感して下さる人もきっとあるわけだから、時間の経過とともに、いたって心地よい環境に取り巻かれることにもなるでしょう。

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 平成進化論から一部抜粋

普段から私の主張している古くからのことわざ「急がば回れ」、「急いては事をし損ずる」、また、「自然体で自分の思うままに行動し、できるだけ無理をしない」という考え方に近いものがあったので、素晴らしいと思います。

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三角貿易的に知識貿易を行う

2013-06-16 18:37:50 | 日記・エッセイ・コラム

具体的にはちょっと書けないのですが、先日、その知識の質、量、幅において当代屈指のと世間一般にも広く認知されているある博覧強記の方と食事をご一緒させていただく機会がありました。
ただたくさんの知識を知っているというだけに留まらぬ大変に魅力的な方であったわけですが、この出来事が「自身の知識の質・量・幅」を増やすための方法論について改めて考えてみる、見なおしてみる、直接のきっかけとなりました。

この方に限らず、私の知る幾名かの、博覧強記かつ人間的にも魅力ある方々の話を振り返ると、披瀝される膨大な背景を感じさせる話は書物経由で得られたものに加え、多様な人との接触によって得られた生の話が多分に含まれていることに気付かされます。

それぞれの分野において実際に経験した人にしか絶対に分からない生々しい話を大量に仕入れ、加工し、伝達しているからこそ話に臨場感や緊迫感をもたらすし、結果として、話し手に「魅力のオーラ」を身にまとわせることにもつながっていくのでしょう。

過去、繰り返し見てきたそんな場面を反芻しているうちにふと出てきたのが「知識貿易」という概念でした。
ここで話は大きく飛びますが「三角貿易」という言葉があります。
辞書で調べると、二国間の貿易では収支の均衡がとれない場合、第三国を介入させて全体の収支の均衡を図り、貿易量を拡大しようという貿易方法。
経済史上、一八世紀に盛んだったイギリス(綿布)、西アフリカ(奴隷)、西インド諸島(綿花)間の貿易が有名。(三省堂 大辞林から)といった説明が出てきます。

1:1の情報交換を長く続けると交換のバランスが不均衡に陥ることがありますが、知識・情報の交換について、三角貿易をアナロジーとして、捉え直してみてはどうか、と思われた次第なのです。
この交易を知識貿易と名付けるならば、現在、自分の手元にある知識を三角のみならず、四角、五角、六角、七角、、、、と多角的に展開する形で情報貿易を行い、多様な知識や情報を入手しては広く他者に流通させる。そこで得られた情報をさらに他者に流通させる。
そんなサイクルを繰り返すことによって、「自国を富ませる(=博覧強記化)」(そして、他国も富ませる)ことが可能になるのではないでしょうか。

特に、この方法は原則として対面で行われるので、お互いの生きた情報、鮮度の高い情報、内輪話でしかやりとりされない情報、が入手できるため、このような交易を継続的に実施することによって、「無機質な博覧強記(?)」ではない「魅力的な博覧強記(!)」(=活字のみから得た知識による博覧強記ではない人を介して得た生々しい情報も持つ人間)
となるための有効な一手段となるのではないかと思われました。

※有限会社セカンドステージ(代表 鮒谷周史氏)平成進化論から一部抜粋

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思いもよらないところから道は開ける

2013-06-15 07:04:04 | 日記・エッセイ・コラム

【お勧め本 泣き虫しょったんの奇跡 完全版
               <サラリーマンから将棋のプロへ> 】
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4062765829/2ndstagejp-22/ref=nosim

この本は、10代の初めから20代半ばまでという青春時代のすべてを捧げ、プロ棋士を志すも、年齢制限のために断念せざるを得なくなった著者(瀬川晶司さん)が再起を遂げるまでを時系列で描いた自伝です。
 
挫折、絶望を乗り越え、アマ名人戦優勝などを経て、前例のないプロ編入将棋試験を実現させ、プロ棋士への昇格を果たすまでの感動の軌跡が描かれています。
何年か前に、ニュースとして一般メディアでも大きく報道されたことがあったので、ご記憶の方も多いでしょう。
挫折経験のある人には(にこそ)ぜひ読んで頂きたい本。
なによりも今、まさに挫折して落ち込んでいるという方がいらっしゃれば、ぜひお読み頂きたいなと。
私も自分の履歴を振り返り、

・人は出会いによって大きく生まれ変わることがある。
 
・心が強烈に反応するものをひたすら追いかけることで「好き」が「強み」へと昇華されていく。
 
・思いもよらないところから道が開けることがある。
・人柄、人間性、慕われる力、応援される力は大切。
・前例がなければ前例を作ればいい。
・人間万事塞翁が馬、災い転じて福となす、は本当。
・一人ひとりの居場所があり、それは自分独自の履歴から生まれる。
・毎日を真剣に生き切ることから自分独自の誇れる履歴(と強み)がもたらされる。
・人生に無駄なことはない。
といったことを考えながら、夢中で読み進めました。
この本を読んでの感想を自分なりに総括すると、「素晴らしい他者との出会いを触媒としつつ、自分の心に正直であり続けることで必ず道は開ける」ということかなと。

そして、「思いもよらないところから道が開ける」ことがあるわけだからどんな窮地に陥っても
絶対に希望を失わない、諦めないこと。
そんな生きる姿勢を身につけられれば、ぶれない心がもたらされ、安定感が生まれるのではないかと思われた次第なのです。
ご興味を持たれた方はぜひ【お勧め本 泣き虫しょったんの奇跡 完全版
               <サラリーマンから将棋のプロへ> 】
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4062765829/2ndstagejp-22/ref=nosim
をご一読されることをお勧めします。
勇気と希望が与えられること、間違いありません。
  

※有限会社セカンドステージ(代表 鮒谷周史氏)平成進化論から一部抜粋

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試金石に足りうる人との交流

2013-06-13 00:44:23 | 日記・エッセイ・コラム

「迷ったら古典に帰れ」
 
詩の教養的価値を説いた十九世紀のイギリスの詩人・批評家マシュー・アーノルド(1822~88)は詩の価値を見極める際に、「偉大なる古典の詩をいわば試金石として用いる」手法を提唱した。
 
価値の定まった名詩と並べて読み比べてみれば、それがどれくらいの格の詩であるかが判別できるという考え方である。
 
情報でも、芸術作品でも、あるいはスポーツ選手でもいま自分の目の前にあるものを格付けしたいとき、それを超一流のもの、「本物」と比べてみると、少なくともその相対的な価値が測れる場合がある。
それを試金石とすり合わせてみるのである。
 
 

ここで「試金石」の意味を改めて調べてみると、

 
1 金など貴金属の鑑定に用いられる黒色の硬い石。
表面に金をこすりつけ、その条痕(じょうこん)色を標準品のものと比較して純度を判定する。金(かね)付け石。
2 物の価値や人の力量などを計る基準となる物事。
  「政府の行政能力を問う」(デジタル大辞泉)
とあります。
 
この箇所を読み、我々も自分自身の格付け、あるいは純度(?)を知るために、己の至らなさ、情けなさ、ダメさ加減、ヌルさ加減等を知らせてくれる人と直接触れ、その人を試金石としてすり合わせる必要があるのではないかと思った次第なのです。
試金石とのすり合わせがなければ、自分を客観視することができず、己がスリーナイン、フォーナインといった純度の高い金(gold)ではないかと勘違いすることもあるかもしれません。
(大いなる勘違いに過ぎないわけですが)
ところが、人格、教養、知識、立ち居振る舞い等において、自分よりもはるかに純度の高い(=秀でた)人とすり合わせる(=交流する)ことによって、自身の至らなさ、情けなさ、ダメさ加減、ヌルさ加減を確認させてもらえます。その確認が非常に大切なのだと考えます。
 
 
なぜならば、それは自らの甘えを排し、謙虚さをもたらし、向上をもたらす力となるからです。
 
ただし、1つだけ注意すべき点があるとすれば、「この人を試金石としてすり合わせよう」
と思ったとき、果たしてその人が本当に試金石とするに足る人物であるかどうか、よくよく吟味する必要があるというところでしょうか。
もし、真に試金石とするに足る圧倒的、超越的な存在に触れることができれば、「自分がいかに純度の低い人間であったか」が(ある種の心地よさと共に)自覚されることでしょう。
もちろん私(鮒谷)も数名の人生の大先輩を「試金石」として自らとすり合わさせていただいては日々、「己の低純度さ加減」を知らされているところです。

※有限会社セカンドステージ(代表鮒谷周史氏)平成進化論から一部抜粋

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無駄ではないけれど、勿体無い

2013-06-12 08:55:11 | 日記・エッセイ・コラム

いつも、「変わりたいと思っている人が変われるようになるために」
必要なことをお伝えしているわけですが、人が変わるためには「思考を切り替える」のと同時に、「行動する」ことが絶対に必要です。

  
どれだけ勉強していても、行動に移さなければ、実生活に変化がもたらされることはありません。(当たり前)
だからこそ、単なる考え方をお伝えするだけではなくいい大人に対して(!)「行動の宿題」を出してまで、実践を促します。
なぜなら、実際に取り組んでみなければ、そこでぶつかる課題に苦しみ、その壁を乗り越える
喜びが分からず、さらに次に出てくる新しい課題を解決しよう、という連続した挑戦も、生まれてきようがないからです。
 
いくら「こうやったら、こうなりますよ、こんな問題も生じてきますよ」と話をしても、体験がなければ、イメージがわかず、せっかくの話も聞いているのに、その意を汲めない「聞いて聞かず」
の状態になり、足踏みを続けることはよくあります。

そうならないように、「実践 → 学び → 実践 → 学び → 実践 → 学び ……」のサイクルを交互に、あるいは同時並行的に、回していく必要があるのです。

このサイクルに乗っている、すぉして、この循環が回るようになり、そこで初めて「同じ話を繰り返し聞く、同じ本を繰り返し読む」意味が出てくるのだと思います。
反対に、何も体を動かしていないけれども、勉強だけはしっかり、というのは「無駄とまでは言わないまでも、勿体無い」とは言えると思います。

※ 有限会社セカンドステージ(代表 鮒谷周史)平成進化論から一部抜粋

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