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goo リュウセンの写真日記

自分の思ったことをストレートに携帯やコンパクトデジタルカメラの写真をアップしながら、可能なかぎり毎日書き綴る私日記です。

あなたの名前を職業とせよ

2013-07-27 06:06:14 | 日記・エッセイ・コラム

メルマガを読んで下さっている方の中で少なくない人が、「で、鮒谷って結局、何の仕事しているの?」と思われているはずです。
なぜそんなことを断言できるかというと、しょっちゅう「鮒谷さんって実際のところ、何屋さんなんですか?」と尋ねられるから。
では、具体的に何をしているのかというと、といいたいところですが、私は、「自分は悪い人ではない」と思いながらも、誰が読んでいるか分からない不特定多数に向けたメディアにおいて、具体的なビジネスモデルを全開示するほどのお人よしでもありません。
やっぱり悪い人なんでしょうね。

それはともかくとして、私は「自分を何屋さん、と規定すること自体が間違っている」、「そんな規定をするから商売が楽しくなくなる」、「そんな規定をするから儲からない」という風に思っています。
具体的にいうと、自分が携わっている職業、職種を「(既に職業として認知されている)○○」と決めた瞬間、発想がそのカテゴリーから越えられなくなるのです。
少々極端かもしれませんが、たとえば「わたしは、いちSE」と決めたとすれば、その瞬間から、
SEの業務に関係あるものは勉強するけれども関係ないものは切り捨てるとか、「わたしは、いち一級建築士」と自己規定したとすれば、その瞬間から建築関連については勉強するけれどもそうでないものには興味を持たないということになりかねません。
そんなことにならないよう私は自分の職業あるいは職種を尋ねられたら「鮒谷です」と答えることにしています。
問うた相手は「いやいやいやいや、名前じゃなくてお仕事ですよ」といわれるわけですが、「だから、名前も仕事も鮒谷です。(鮒谷という名前であり、鮒谷という仕事に就いています)」と答えることにしているのです。
どういうことかというと、「職業とか職種なんか、自分で創造するもの」だと考えているので、もし既存のカテゴリーに適当なものがないのであれば、自分で作るしかありません。
そして好きなこと、没頭できることだけ突き詰めていったなら、その延長線上には「既存の範疇に入りきらない仕事」ばかりを行うことになります。
その仕事にカテゴリーはなく、名称もなく、せっかく新しく名称をつくってもどうせすぐにその名称すら踏み越えていってしまうので、面倒くさくなって、あるときから「自分の職業は鮒谷です」
ということにいたしました。
これなら、どれだけ枠を越えて、仕事がいろんな分野に広がっていっても、「鮒谷という仕事」
をやっているのだから、職業、職種が実際に行なっていることと齟齬をきたすといったこともなくなりますし、発想も広がる一方です。
考えてみたら当たり前の話ですが、昔からの発想に凝り固まり、決まった一つの「職種」という枠に自分の存在を当て込もうとするから、おかしなことになるのです。
歯車的な仕事なのであれば、規定された職種に自分を当て込むということも可能でしょう。

けれども、特にこれからの時代、ひとつの職業の範疇に自己の全存在を押し込めてしまうといった考えは自分の可能性を大きく狭めてしまうことにつながるように思えます。
逆に言えば、自分の強みを最大限に伸ばし、やりたいことをやり尽くし、楽しみ尽くし、そこで得た知識や経験の一切を活用しきれる「職種」に就くことができれば、自分の行動にまったく無駄がなくなります。

過去のメルマガであれば、私はその状態が実現されたことを「エコ化された人生」と呼んできたわけです。

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 http://www.2nd-stage.jp/ 平成進化論から一部抜粋20067


これだけは身につけて本当に良かった、と思える力

2013-07-14 07:20:59 | 日記・エッセイ・コラム

私(鮒谷)が「この能力だけは身につけておいて、本当によかった」と思うものがあります。
それは「文章を書く力」です。
もちろん私は本職の物書きでもありませんし、それらの人の書かれる文章と比べると「はなはだ稚拙な文章」であることは認めざるを得ません。
しかし、少なくとも
少なからぬ方が目を通し、ご感想を下さる
多くもないけれども、少なくもない方が文章を通して、セミナー等に足を運んで下さる
といった程度には自分の書いた文章を読んで頂けているようです。
そして、この「文章を書ける」という力が人生を大きく変える原動力となってくれたのです。
さらに文章を書くことから派生し、獲得したものが多々あります。
そういった意味で「書く力」は極めて「波及効果大」の力でありました。
たとえば、文章を書くことが習慣化されたことによって、考える力(対象を抽象化する力)、話す力(書けるから話せる、書けないことは話せない)といった能力は明らかに向上した実感がありますし、考える習慣(日常的にネタ探し)、プレゼンテーションの能力(人を動かす力)も多少は身についたような感覚もありますし、周りの人に協力頂ける機会の増加があったり、書いてきたことの蓄積(HP)が検索エンジン経由で新しい出会いをもたらしてくれるなどという副産物もありました。

他にもここに挙げきれないほどのものを文章を書くことから得られましたが、ではその文章を上手に、とまではいかなくとも、最低限、人さまに読んで頂ける程度に書けるようになるためには、どうすればいいか。

個人的な経験からいうと、それはひとえに「訓練とそれに伴う慣れ」によって身につけられるものであるように思います。
下手でもなんでも、「書いて、書いて、書きつづけけていく」うちに、「それっぽくなってくる」くらいになればしめたもの。
文章がそれっぽくなってくるところまで到達したら、あとはいろいろな文章や情報に触れるたび、「この情報を次に書く文章に入れてみよう」、「この表現を今度、使ってみよう」という小さな改善、改良の意欲が湧いてくるでしょう。
それを繰り返していくうちに段々と、「受け売り臭が強く、つまらなかった文章に独自性が帯び始める」ということになるのです。
そこまでいくと、「目の付け所がシャープだね」、「面白い例えよね」などと褒め言葉を頂くようになり、ますますやる気が出てくるというものです。
ここまでいければ、後は「もっといいことを書けるようになりたい」という欲求、欲望が強くなり、
自律自走で文章執筆中毒になる(はず)です。

まあ、文章執筆中毒になっても、この程度の文章しか書けないわけですが(情けない)それでも少なくとも文章を書くことは嫌いではない(というか大好き)というのは今の時代において、強みにもなるでしょうし、現実問題として役に立っているわけです。

ここまでお読み頂き、そんなにメリットがあるのなら、 私も文章を苦もなくかけるようになりたい、という方がいらっしゃるようなら「四の五の言わずに、まずは書いてみる」ところから始められてみられてはいかがでしょう。

きっと思っているよりも早く、文章の上達を実感されることでしょう。
本当に、本当に、本当に、「文章を苦もなく書けるようになった」という能力だけは身に付けてよかったと心の底からそう思っています。

※有限会社セカンドステージ(代表 鮒谷周史氏)平成進化論から一部抜粋
http://www.2nd-stage.jp/contact/?mag

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夏の花

2013-07-13 09:09:14 | 日記・エッセイ・コラム

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夏になると、あちこちにこの花が咲く。 きれいなオレンジ色だ。

いわゆるつる性の植物なので、元となる樹木などに絡んで育ち、きれいな花を咲かせ、その宿主が枯れると、たぶん自分も枯れてしまのだと思う。

しばらくは共生するのだろうが、結局は宿主を絞め殺し、死に至らしめるというつる性植物のさがだ。

そして、宿主の死とともに、自らも死に至る。 世の中にはこうした関係は意外にも多い。

例えば、自然生態系がそうだ。人間が良かれと思ってやったことなども微妙な生態系のバランスを崩してしまいがちだ。

生態系に組み込まれている動物が人間にとって有害だとかは危険だといって、駆除し、挙げ句の果て絶滅させてしまうことは生態系の微妙なバランスを崩す。

いったん、崩した生態系を元に戻すのは至難のわざだ。絶滅させた場合、それを復活させるのは不可能に近い。

だから、人間は自然に対し、もっと、謙虚であるべきだと考える。

そうでないと、いずれ自然から手ひどいしっぺ返しをくらう。

持続可能な共生社会を構築しなければ、やがて人間は滅亡へと向かってしまうのではないだろうかと考える。

そうならないためにも、また、次世代のためにも生態系の微妙なバランスを維持していきたいものだ。


孤独に耐える

2013-07-12 08:57:43 | 日記・エッセイ・コラム

私がサラリーマン時代に最も苦痛だったこと。
昼食の時の、プロ野球のペナントレースの話。
『●●の打率が●割になったね』『今日の先発は●●だから、間違いなく勝てるね』
そして、グチを言い合うだけの仕事の後の飲み会。
プロジェクトの打ち上げなど、達成感のある飲み会もあるにはあったが、それ以外は殆ど参加しても、仕事仲間の交流は深まっても将来起業を目指す私にとって、それ以上に得るものは無かった。
野球ファンの方は気分を害されるかもしれないが私は野球が嫌いというわけではない。
小学校の頃はソフトボールをやっていたし、メジャーリーグのイチロー選手や松井選手は純粋に、人として尊敬できる。
『ステージに立つ他人の成功や失敗に一喜一憂する時間があれば、自分がそのステージに立てる人間に早く成りたかった』のである。
昼食時に野球の話をするぐらいなら、ビジネスの勉強や、自分が暖めている企画を少しでも前に進めたい、そういう気持ちが強かったのである。
ただ残念ながら、会社内にはそういった、『志を持った仲間』は得られなかった。
会社員としては優秀な人は多い。
しかしやはり、会社へのグチは絶えない。
かといって自分でリスクをとって起業して成功したいという気概を持った人が少なかったように思う。
私が最後に3年間勤めたアクセンチュアという会社は外資系で、
『起業大学』と呼ぶ人もいるほど、途中で独立して自分のビジネスを立ち上げたり、実家の商売を継ぐ人もいた。
しかし、私が所属したプロジェクト内の社員数十名のうち、そのような『起業談話』ができたメンバーはいなかった。
もしかしたら、同じような思いを秘めた人はいたかもしれない。
でも会社という手前、そのような思いを大っぴらにできるわけがない。
会社で開催される飲み会。
かろうじて付き合い程度に一次会には参加しても、9割以上が二次会に参加する中、独り時計を気にしながらもじもじとし、『そろそろ失礼します。』という言葉を発することの何と勇気のいったことか!
最初は一応、仲間は誘ってくれたが、私があまりにも二次会に参加しないので、そのうち『二次会に参加しない人』というカテゴリに属すようになり、暗黙の了解的に、仲間達も私に声をかけなくなった。
これが仕事に支障をきたしていたかというとそうではない。
私は職場で常に上位5%に残る評価を残し、最後には約30名のスタッフを束ねるマネージャの代役まで務めた。
(当時のマネージャが不甲斐なく、歴代2名のマネージャが立て続けに『登社拒否』となり、私が約1年に渡り、マネージャの代役を務めることに。。)
ただ、仲間との飲み会では、素直に楽しめない自分がいた。
会社を辞めて独立してからも、大学の同窓会などに一切参加しない私を見て、
妻は、『アナタって友達いるの?』と言われたぐらいだ(苦笑)
『あまりにもビジネスライクすぎるのでは?』と自分で自問自答した時期もあった。
しかし、今ではこの選択は正しかったと思う。
学生時代に中谷彰宏さんの本が好きで、中谷さんが言っていた言葉で『有名人は実は人付き合いが苦手である』というものがあったが、当時はよくわからなかったが今ではよく理解できる。
芸能人のインタビューを見ていると、実は最近売り出し中の他の芸能人のことをよく知らなかったりする。
それは、彼らが『自分の人生を生きている』からだ。
例えば、俳優の方であれば、ドラマや映画の撮影に没頭するあまり、自分自身は他のドラマや映画を見ていなかったりする。
実は外野席から観戦しているである我々の方が芸能事情に詳しかったりする。
私も孤独に耐え、自分がやるべきことをやってきたから、今があると思う。
『アナタって友達いるの?』と問いかけてきた妻も、それは否定的な言葉としてではなく、『逆に家族を大切にして仕事も頑張ってくれる』という表現の裏返しだったのだから。
今では自分が手がけるビジネスを通して、
・一生つきあっていきたい仲間
・困った時に助け合える仲間
・将来について本音で語り合える仲間
が沢山できた。
また、最近はドラマや映画も見なくなった。
何故ならば、自分の人生の展開が、ドラマや映画以上に面白くなってきたからだ。

※平城 寿代表【スーパーエンジニア養成講座】から一部抜粋2006949


はなかっぱに学ぶ、人生変革の方法

2013-07-06 07:48:55 | 日記・エッセイ・コラム

先日、セミナーにお越しくださった方が「鮒谷さんの話と(一部)共通するところがあった」とお勧め下さった、こんな本?
今日のお勧め本 はなかっぱのだいぼうけん
http://amazon.co.jp/o/ASIN/4840134308/2ndstagejp-22/ref=nosimを読んでみました(笑)

以下、Amazonのサイトから。
<内容紹介>
頭に「とりあえずの花」が咲いている、はなかっぱ。
大人になるときに、自分が何の花を咲かせるか決めなくてはなりません。
自分は、どんな大人になって、何の花を咲かせたいかな?
今回、はなかっぱはおじいちゃんと大冒険に出かけます。
海を渡り、山を越え、世界中の花を見る旅です。
はなかっぱの自分探しが今回のテーマ。
NHK教育テレビでもアニメ化&大人気の、原作絵本です。

<内容(「BOOK」データベースより)>
頭に、お皿のかわりに“とりあえずの花”が咲いているはなかっぱくん。
“とりあえずの花”は、子どもの時だけ咲いている花。
おとなになる時、自分の花としてなにかの花を選ばなくてはいけません。
何のお花を咲かせて、どんなおとなになりたいかな?
はなかっぱくんが、世界の花を見てまわる大冒険に出かけます。

楽しくもなかなか含蓄に富んだストーリーで思わず2回、続けて読んでしまいました。
(それでもかかった時間は数分くらいでしたが 笑)

私はいつもセミナーで「人はそれまでの人生で見てきたもの、見てきた世界しか想像することはできない」とお伝えしています。
触れたことのない世界は想像することができず、したがって、その世界に出たいと思うことも出来ません。
どこに行きたい、という明確な目標が生まれないのだから「変わるための行動を起こすことができない」し、その結果として、「変われない」ということになるのです。
ところで、個別コンサルを行なっている中で、本当によく聞くのが「(漠然とした表現で申し訳ないんですが)今の現状に取り立てて大きな不満があるわけではないけれどもかといって、現状に満足しているわけでもないんですよね」という言葉。
たいていの場合、そのあとに「なにかを行いたいという思いはあるけれどもどこに向かったらいいか、明確にできないのです」という補足説明?があります。
人生を本当に変化させたいのであれば、「現状への不満」が原動力の一つとなるのは、いうまでもありませんが、同時に、「自分の人生において、どんな世界を実現させたいのか」をハッキリさせなければなりません。
そのためには自分の知らない様々な世界を積極的に自分から見に行く必要があるでしょう。
この繰り返しによって、自分の進みたい方向が段々と見えてくるのです。

このメルマガをお読みくださっている方の中で「変わりたいのに変われない」と嘆いている人があるとすれば、「新しい世界を見るために、それまで行かなかったような世界に思い切って飛び込んでみる」ことは本当に効果的ですし、お勧めです。
(やった人だけが分かること。この姿勢が習慣化されると、人生が面白いように変化し始めます)

さらにいうと、そういう時間を積極的に確保することはなによりも刺激的で、楽しいことと気づくでしょう。(これもやった人だけが分かること)
はなかっぱのおじいさんがはなかっぱに語っている言葉でいうならば、「まだまだ たくさんの せかいを みると ええ! じぶんの はなを さがしている じかんこそがじんせい さいこうの たからものなんじゃよ!」ということです。

 
直近一ヶ月の間で、あるいは三ヶ月、半年の間で、「今生きている世界とは異なる世界をどれだけ見てきただろう」そんな自問自答をしてみられてはいかがでしょう。
「変わりたいのに変われなかった」理由に気づかれるかもしれません。

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏
                   http://www.2nd-stage.jp/
 メールマガジン(平成進化論)から一部抜粋

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