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goo リュウセンの写真日記

自分の思ったことをストレートに携帯やコンパクトデジタルカメラの写真をアップしながら、可能なかぎり毎日書き綴る私日記です。

買え買えオーラ」を消し去れ!

2013-08-11 19:52:00 | 日記・エッセイ・コラム

以前、「商売するときに大切なのは『売るのではなく、売れていくように』という視点で仕事を設計すること」とお伝えいたしました。
なにやら難しそうな気がするかもしれませんが、そんなに難しいことではありません。
売ろう、売ろうとすればするほど、お客さんが逃げていく、というのは当たり前の話ですよね。
こういう姿勢で顧客と接していると、「買え、買えオーラ」が全身から発散されてしまうから近づいてきた瞬間に後ずさりされ、さらにもう一歩近づいていったら後ろを向いて一目散に逃げられるということになるのです。
あなたも百貨店などの売り場で一歩、後ずさりし、さらには全力で逃げ出したという経験が一度ならずあるのではないでしょうか。
 
我々が売り込まれるのを嫌うのと同じようにお客さんも売り込まれるのが大嫌い。
だから、売り込むのではなく、お客さんが買いたくなるようにという観点から「顧客の意思決定の動線を設計し直す」必要があるのです。
すると、それまで当たり前のように行なってきた行動を大前提から疑うことも必要になるかもしれません。
たとえばこれまで「見込み客を見つけ次第、急襲する(逃さず営業!)。これこそが売り上げアップの秘訣だ!」と思っていたならば、その方法論を疑い「自分の方から接近していかない。
まずは相手に興味を持ってもらうために、情報提供だけに徹する」ことを試してみてはどうでしょう。
もちろん、取り組みはじめは一時的に売り上げも落ちることでしょう。
すると、数週間、場合によっては数ヶ月はその状態が続くこととなりますが、やがて上向きに転じ始めることでしょう。
あるいは、自分の口から「うちの商品(サービス)は凄いぞ!」といくらいっても、それは売り込みの言葉にしか聞こえません。
けれども、既にお客さんになってくれた方から体験談や経験談を頂戴し、「この商品(サービス)は凄いですよ!」と推薦頂けば、それは売り込みの言葉ではなく「買い気を起こしてもらうための参考情報」ということにもなるでしょう。
このようにして、「売るのではなく、売れていくように」という基準で、ビジネスにおける全てのことを見直していくのです。
野球選手がフォームを作り変えるのと同じように、営業のフォームを作り変えることで以降、半永久的に、これまで以上の売り上げを立てられるようになるでしょう。
そして、以上のようなことは何も、経営とか営業の話に留まるものではありません。
自分が周囲から求められるのか、反対に、疎んじられるのか。
これもひとえに、「自己の存在を押し付けるのか、他者から求められるように振る舞うのか」によって決定されてしまいます。
一事が万事。

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 http://www.2nd-stage.jp/平成進化論から一部抜粋

これはとても参考になることなので、ここに転載させていただきました。

20068


来月から本気を出すという人につける薬

2013-08-10 08:49:03 | 日記・エッセイ・コラム

先日、友人からこんなメールが届きました。
(ここから)
ひでえw↓
【1月】  初っ端から飛ばすと後でばてる。
       2月から本気を出す
【2月】  まだまだ寒い。これではやる気が出ない。
       3月から本気出す
【3月】  年度の終わりでタイミングが悪い。
       4月から本気を出す
【4月】  季節の変わり目は体調を崩しやすい。
       5月から本気を出す
【5月】  区切りの良い4月を逃してしまった。
       6月から本気を出す
【6月】  梅雨で気分が落ち込む。
       梅雨明けの7月から本気を出す
【7月】  これからどんどん気温が上昇していく。
       体力温存の為8月から本気を出す
【8月】  暑すぎて気力がそがれる。
       9月から本気を出す
【9月】  休みボケが抜けない。
       無理しても効果が無いので10月から本気を出す
【10月】 中途半端な時期。ここは雌伏の時。
       11月から本気を出す
【11月】 急に冷えてきた。こういう時こそ無理は禁物。
       12月から本気を出す 
【12月】 もう今年は終わり。今年はチャンスが無かった。
       来年から本気出す
(ここまで)

これって、ネットで有名なんですかね。
なんか昔の自分の姿を思い出してしまいました(汗)
こういうのを見ると、人間って本当に言い訳を考えるのがうまい(というか、天才的)と思わずにおれません。
置かれた状況に応じて、ありとあらゆる言い訳を思いつくものです(私だけ?)
つまりは、よく言われるように、「できない理由はいくらでも挙げられる」わけで、そんな私は、「やると決める」という決断をしない限りは、死ぬまでずっと「来月から本気を出す」と言い続けながら、何も変わらないということになるのかもしれません(恐)
この繰り返しによって自尊心が毀損され、毀損された自尊心によって、さらに先送り癖が強化され、再び先送って自尊心が毀損され、ますます先送り癖が強化されというエンドレスのループから抜け出すために必要なのは、気合いではなくして、
 1、(何かを始める)きっかけ
 2、志を同じくする仲間
 3、お互いが報告しあえる場
の3つです。
なにかを始めるときにはとくに最初に重い腰を上げる時には、かなりの負荷がかかります。
この「よっこらしょ」に当たるのが「きっかけ」です。
この「きっかけ」を求めて、外に出て、セミナーに行ったり、講演に参加したり、友達と話をしたり、本を読んだりして、刺激を受け、興奮したら、その次の瞬間に「よっこらしょ」と腰を上げることをぜひとも習慣化してください。
経験上、これを繰り返しているうちにしばらくしたら、「先送り癖」は劇的に解消いたします。
ここで大切なのは「思考をはさまない」こと。
思考をはさまず、次の一手(行動)をまず起こすことが大事。
下手に考えると言い訳を編み出してしまいます。
下手の考え休むに似たり、という言葉がありますが、「似たり」どころではありません。
先送りの思考習慣、行動習慣が完全に定着してしまった人にとっては「考える=休む」のとイコールなのです。
だから、きっかけをもらったら、考えず、躊躇なく、次の行動をまず起こしてみてください。
行動できた、という、その事実こそが、自尊心を取り戻させ、先送り癖を徐々に溶かし始めていくでしょう。
とはいえ、いくら「よっこらしょ」と一瞬、立ち上がれても、(新しいことを始める足腰が弱っているので)よろめく身体を支えてくれる人がいなければ、そのまま再び、ドスンと尻餅をついてしまいかねません。
だから、誰かと一緒に支えあうことが大切になってきます。
みんな、足腰が弱くてへっぴり腰になっていたとしても、立ち上がって、プルプル震えながら、慣れてきたら、ヨタヨタ歩きながら、お互いに支えあっているうちに、徐々に筋肉もついてくるというものです。
このような理由から、何かを始めるときには協力しあえる仲間や友人を必ず巻き込むことが必須です。
さらに強調したいのがせっかく仲間を作っても、互いの状況報告が1週間に一度、一ヶ月に一度といった頻度であれば、弱った筋力では、それだけの長期間、重たい身体を支えきれず、
やっぱり一人また一人と倒れていくという事実。
そんなことにならないよう毎日、毎日、お互いに現状報告することがとても有効です。
「今日はこんなことをやったぞ、すげーだろ」
「たったそれだけしかやってないの?俺(私)はこれだけやったよ」
「お前ら、情けないな。活動の絶対量が全然足りんなあ」
とお互いに貶し合いながら(もとい)切磋琢磨しながら、筋肉を鍛えていくのが一番です。
   
以上をまとめると、こういうこと。
変わりたい!と思ったならば、
 1、きっかけ
 2、志を同じくする仲間
 3、お互いが報告しあえる場
以上の3点セットを必ず用意すべきです。
一人で孤独に戦い抜けるほど、人は強くはありません。
あらゆることを先送りしてしまう弱い自分であることを認めて、「そんな弱い自分を縛るシステム」に、この身を投じることが大事です。
こうして一人、また一人、と変わり始めていくのです。
(こんなことをいくら聞いていてもやらなければ、変わりません。当たり前ですが、究極のところ、最後の最後は自己責任)

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏http://www.2nd-stage.jp/ 平成進化論から一部抜粋

自分にも当てはまることが多々あったので、ここに紹介させていただきました。

200610


外的環境を整えるより、内的喜びを感受する力

2013-08-06 18:11:50 | 日記・エッセイ・コラム

最近、よく考えることがあります。
それは、「今を幸せに生きられない人は未来も幸せに生きられないのでは」ということ。
どんな境涯にあっても幸せに感じられるという資質は一つの(後天的に身に付け得る)長所であり、無形資産に数えて良いであろう、
心持ち、心的態度です。
反対に、どのような環境に恵まれても幸福を感じられないというのは、これまた(後天的に身についてしまい得る)短所であり、無形負債の一つにカウントされるべきであろう心のありようであり、心的習慣です。

このような理由から、どれだけお金を持っている人であっても、幸福感から程遠い人もあるし、まったくお金がなくても幸福感いっぱいの人もあるわけです。
もちろん外的な環境からもたらされる喜びもそれはそれで大切だけれども、より重要だと思われるのは微細な内的な喜びを見出し、感受する力。
そして後者は外的な環境(カネや社会的地位、立場など)を手に入れようと思い、あれやこれやするほどに、遠ざかっていくもののようにも思われます。
だからこそ、たまには「所詮、カネのことでしょ」「所詮、社会的地位や立場のことでしょ」といったように、「外的な装飾」を思い切り向こう側に突き放して、捉えてみてもいいのではと考えているのです。
さらに、内的な喜びを捕らえる繊細な検知器を手に入れるために、いかなる境涯にあっても、その環境の中で喜びを見出す術を知る人の存在を知り、近くに感じ、さらにその認識の枠組みを自らの中にも設えることが大切ではないか、そのように思われます。

※セカンドステージ代表 鮒谷周史 http://www.2nd-stage.jp/平成進化論から一部抜粋200610


余裕が余裕を生む世界

2013-08-03 07:05:09 | 日記・エッセイ・コラム

あなたは「余裕が余裕を生む」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。
そうですか、ありませんか。
それはそうですよね。
私の作った言葉ですから(笑)
昨日のコンサルにおいて、「集客」をテーマに少しお話をしたのですが、話をしていて気づいたのは、つまるところ、集客というのは「少しの余裕がさらなる余裕を生み、さらなる余裕がより多くの余裕を生み出す」というサイクルを回しながら、最終的に「圧倒的な余裕が、王者の貫禄をもたらす」という世界に到達できるまで地道なプロセスを飽きることなく続ける、ということではないか、ということ。

逆からいうと、「王者の貫禄」を漂わせる集客力というのは余裕を再投資し続けるところからしか生まれません。
だからこそ、まず最初に「(自転車操業を抜けた)ほんのすこしの集客的余裕」を目指すべきなのです。
自転車操業を繰り返す限りにおいては、ちょっとハンドル操作を誤ると、「余裕が余裕を生む世界」の反対、すなわち「貧すれば鈍するの世界」にあっという間に落ちていってしまいます。
だからこそ、まずは種銭となるべき余剰の集客力(≒売り上げ)をなにがなんでも立てる必要があるのです。
さらにそこまでたどり着いてもそこで安心して手を抜くのではなく、より大きな余剰を獲得するために積極的な再投資を行う必要があるでしょう。
この繰り返しにより、徐々に徐々に商売はラクになっていくのです。
ですから、商売に携わるものはすべからく皆、「余裕が余裕を生む」という言葉を唱えながら、
1、まずは小さな余裕でいいので、自転車操業を脱却することを目指す
2、自転車操業を越えれば、次はその小さな余剰をより大きな余剰をもたらすための再投資に回す
3、さらに生まれた余剰を躊躇なく、再び再投資に突っ込む
これを続けていくことによって、「余裕が余裕を生む」世界が実感されることとなるでしょう。

で、既にお気づきの方もあるでしょうけれども実はこれ、なにも「集客」に限ったことではありません。
お金、時間、情報、人間関係、あらゆるものに当てはまります。これらのものを潤沢に欲しいのであれば、上に記した1~3をひたすら繰り返せばよいのです。2006951

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 平成進化論から一部抜粋
  http://www.2nd-stage.jp/


デジタル奴隷に平穏は訪れない

2013-07-29 10:18:05 | 日記・エッセイ・コラム

今日は少し過激に、「デジタル奴隷に平穏は訪れない」というお話をいたします。
デジタルツールをうまく使いこなせば、生活を豊かにできることはいうまでもありません。
(私もその恩恵にあずかっています)
 
が、私は、ある一定のところまでいったら、そこから先は、むしろどれだけデジタルから離れて生きていくかに工夫をこらしたほうがいいと思っています。

生活のデジタル化を進めていくと、あるところまでは効果(=便利さや幸福感)が逓増していく、つまり、成果、結果につながり、目的に資する手段となる、わけですが、ある一定のところを過ぎ、デジタル化による恩恵を越えて、デジタル依存のような状態になってくると、効果(=便利さや幸福感)が逓減していくことになるのです。

このようにして、手段が目的化する、手段が目的を駆逐するということが起こり始めます。
デジタル機器依存症になり、片時もそれらが手放せなくなると、それにともなって、自分の用いる時間の単位も細切れになっていき、それらを用いて効率化された生活を過ごせるはずが反対に、なにかに追い立てられるようになっていく。

たしかに自由に外の世界につながり、アクセスできるのは便利だけれども、実は気づかないところで、デジタルツールを通じて自由になったのではなく、単に外の世界に縛り付けられた奴隷になっていただけという状況に陥ることが現実にあるのです。

最初は便利になるからとおもって使っているうちに、使う事自体が目的となってしまい、デジタルツールを使うために使う、手元にツールがあるからついつい使ってしまう(本当はそこまで使う必要もないのに)ということは私も経験したことがあります。

 
そのような状態は明らかに不健康ですし、幸福感とかリラックスとは程遠いことにあるとき気付き、以来、私は、よほどのことがない限り、ノートパソコンなども持ち歩かなくなりました。

ちなみにiPhoneは壊れてから10ヶ月くらい経ち、修理にも出していませんが、一向に不便を感じません。
むしろ壊れてくれたことによって、より優雅な生活を取り戻すことができたとすら思えます。

ただし、一方的なデジタル機器を敵対視するわけではありません。
いざというときのため、念のためにiPad(もしくはiPad mini)は持ち歩いています。
これだとiPhoneよりはデカいから、頻繁にチェックしようという気にはならないし、けれども、なにかあったときにはすぐに対応することもできるから。
そんな風にして極力、細切れの時間を作らず、自らの意思で何者にも邪魔されない大きな塊としてのまとまった時間を確保するからこそ、趣味、道楽の読書など、ゆっくりとした時間を楽しめるし、花鳥風月を愛でる愉悦に浸ることもできるというものです。
いろんな発想も湧いてきますし、友人との会食も心置きなく楽しめます。
(そのためにこそ、デジタルツールを用いた効率化を進める必要があるのではないでしょうか)

これは、私が昔から使っている表現でいうと、<3233号 効率化を極め、非効率を楽しむ>
 
 http://www.2nd-stage.jp/backnumber/ppf_full/2012/07/3233.html
ということになるのですが、効率化と非効率の両者が最適化されるポイントは「効率化を進めていくなかでその効果が逓増から逓減に向き始めるあたり」にあるのでは、と思っています。

そんなこんなを考えながら、「過度のデジタル依存はデジタル奴隷を生む」、「デジタル奴隷に平穏は訪れない」という過激なお話をしてみました。
読者さんの中にもたくさんいらっしゃるであろうA社をはじめとする関連業界の方、すみません(汗)

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 平成進化論から一部抜粋
                   http://www.2nd-stage.jp/

200610