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goo リュウセンの写真日記

自分の思ったことをストレートに携帯やコンパクトデジタルカメラの写真をアップしながら、可能なかぎり毎日書き綴る私日記です。

一人ひとり「基準とする時間単位」を持っている

2013-08-23 22:50:23 | 日記・エッセイ・コラム

「自分の時間感覚に連動する形で付き合う人が決まってくる」という話をいたしました。

飲み会でサクッと切り上げて帰る人と最後までいようとする人、あるいは、テレビを全く見ない人と時間があればどれだけでも見てしまう人、この両者は(良い悪いではなく)純粋に時間感覚、波長が異なり、この両者が真に親しく交わることはないのではそんなお話でした。

このことを別の角度から見れば、「秒単位で生きている人」「分単位で生きている人」「10分刻み、30分刻みで生きている人」「1時間単位で生きている人」「朝昼晩、午前・午後、業務時間中・業務時間外という括りで生きている人」「1日、ないし1週間という単位で生きている人」が混在している世界の中で異なる時間軸で生きている人とはそれぞれ容易に交わることはないと言えるようにも思われます。
そして、少なくない場合において、コミュニケーションの場で「時間感覚の相違」に意識が向けられていないようなのです。
もう少し詳しく言うと、おそらくは「秒単位で生きている人」にとっては「分単位で生きている人」
「10分刻み、30分刻みで生きている人」「1時間単位で生きている人」「朝・昼・晩、午前・午後、業務時間中・業務時間外という括りで生きている人」「1日、ないし1週間という単位で生きている人」が、それぞれどのような時間の流れで生きているか理解できますが、その反対はおそらく不可能です。
「30分刻み、30分刻みで生きている人」にとっては、「10分刻みで生きている人」の内的世界はイメージがつけられても「秒単位で生きている人」「分単位で生きている人」については、ほとんどその感覚を理解することはできないでしょう。

反対に、「1時間単位で生きている人」「朝・昼・晩、午前・午後、業務時間中・業務時間外という括りで生きている人」「1日、ないし1週間という単位で生きている人」にとっては、それぞれのレベル感が手に取るように分かるのです。

人それぞれ、普段、意識に乗らないところで、自分にとっての「基準とする時間単位」のようなものを持っています。
そして、その基準とする時間単位に基づいて、付き合う人間関係も規定されていきます。

つまり(はっきりいえば)こういうこと。あまりにもゆっくりとした時間感覚で動いている人とは、せっかちな人とは付き合いきれず、逆に、あまりにせっかちな時間感覚で動いている人とは、
ゆっくりとした時の流れに生きている人は付き合おうとも思わない、ということ。
このような意味で「自分の時間感覚に連動する形で付き合う人が決まってくる」と記しました。
自らの時間に対する認識、捉え方が「人間関係における引力・斥力」※斥力(せきりょく)とは、互いに反発しあう力を発生させているのです。

この自覚があったうえで、意図的に、そして、確信を持って、「今のコミュニケーションスタイル」を取っているのであればいいのですが、無自覚に、何も考えず、「今のコミュニケーションスタイル」をとることで、知らぬ間に人間関係に斥力を発生させている(=せっかくの関係性を深められない)ということも往々にしてあるものです。

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏http://www.2nd-stage.jp/平成進化論から一部抜粋

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時間感覚に連動する形で付き合う人が決まる

2013-08-19 08:40:13 | 日記・エッセイ・コラム

最近、強く感じることがあります。
それは「自分の時間感覚に連動する形で付き合う人も決まってくる」ということ。
※ところで予めお断りしておきますが、これから書くことは決して、いい、悪い、とか、正しい、正しくないという類のものではありません。
ただ、やっぱり「そういうものであった」と自分なりに理解したということに過ぎません。

「時間感覚に連動する形で付き合う人も決まってくる」というのはどういうことかというと、(以下、イメージを付けてもらいやすくするための一般論ですが)
たとえば、飲み会に行ったとして、ある人はきっちりと時間を切り上げて、一次会のみで帰ります。
別のある人は、二次会までは付き合うけれどもその後までは付き合わない。
さらに別のある人は三次会に行き、四次会に行き、全員が帰るまで帰らない。(というか、むしろ積極的に最後まで残ろうとする 笑)
繰り返しますが、いずれが正しいというわけではありません。
けれども、一次会でさくっと切り上げて帰る人と、いつも延々と飲み続けようとする人とは決して一定以上の関係性にはなれないような気がします。
テレビを見る、といったことでも同じことがいえそうです。
テレビを全く見ない人は同じようにテレビを全く見ない人かあるいは、見てもせいぜい1日平均にすると、1時間以下しか見ない人とお付き合いすることになります。
反対に、毎日、テレビを3時間も4時間も5時間も見る人があったとするならば、その人はきっと(?)同じようにテレビを3時間も4時間も5時間も見る人と親しくお付き合いをするということになるのではないでしょうか。

人それぞれ、時間感覚の波長のようなものがきっとあるのです。
その波長にあった人同士が付き合うことになるわけですから、もしあなたが「この人と親しくお付き合いをしたい」と心から思ったなら、まずは同じ時間感覚の波長に合わせにかかる必要がありそうです。

そこがずれたまま、ご縁を深めていこうとおもっても、こちらの自覚なく、いっさい気づかぬうちに「先方から門前払いされていた」ということも往々にしてありそうです。
あまり触れられることはないようにも思われますが、案外この「時間感覚の波長が合う、合わない」というのは、「親しいお付き合いに発展するか否かを決定する重要な要素」であるようにも思われます。

※平成進化論 時間感覚に連動する形で付き合う人が決まる
セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 http://www.2nd-stage.jp/ から一部抜粋

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ありがとうを頂くためのシステム化

2013-08-17 07:23:10 | 日記・エッセイ・コラム

「お客さまの声を集めれば商売繁盛する」というのは現象面から見れば、その通りだけれどもその裏側にある「心」が抜けていれば、とんでもないことになる、という話をいたしました。

仕事を行うものにとって、「顧客が求めるものを常に期待値を超えて提供することを自らに課す」ことは非常に重たい目標です。
このような目標を掲げ、さらにそれを毎回、顧客に提供し続けることは甚だ難しいことである、
のは率直に認めざるを得ません。
しかし、だからといって、そこで諦める、手を抜くということであってはなりません

私はそういう真剣勝負の結果として、「ありがとう」「おかげさまで」「助かった」「道が開けた」「希望が湧いてきた」「一歩踏み出せた」という言葉を頂くために仕事をしています。
そうやって頂く言葉はなにより、「私自身の存在証明」となるのです。(ときに実現できず、凹むこともあるわけですが、、)
実際に、「カネ儲けがうまい」と100回、1000回、10000回、いわれるよりも「ありがとう」「おかげさまで」「助かった」と100回、1000回、10000回、いわれたほうが圧倒的に自尊心も自己重要感も増すし、社会に居場所を与えてもらっている感覚も得られると思いませんか。

そのような状態になれば、当然の帰結として、「日本銀行券で投票」してもらえるようになるのだから、お礼の言葉を言われる回数が増えるにつれ、あとで潤沢にお金も頂けるようになってくるのです。

※「日本銀行券で投票」という言い回しは先日、ある方から教えていただいたもので、(洋菓子メーカーの)モロゾフの社長であった故・葛野友太郎氏の言葉だそうです。
正確には「商売はお客様に日本銀行券で投票してもらうことだ」というものだそうで、ほかにもさまざまな記憶に留まる言葉を残しているようです。
ところで、このような思いを持つことを前提とした上でもう一つ商売人、経営者が実行すべきは「システム化を推進する」ことです。
一人の人間が自分の力だけで、(実際は不可能ですが)24時間寝ずに頑張っても「ありがとう」「おかげさまで」「助かった」の数を劇的に増やすことはできません。
より多くの価値を提供し、より多くの喜びの言葉をいただこうと思ったなら、どうしても「システム化」を進めていく必要があるのです。
さらに大事なのは、システム化を推進すると無機質になりがちなのでそうならないよう「人間的な部分を残しつつ積極的にシステム化を進める」という仕組みづくり。
つまり、「手抜きのためのシステム化」、「金儲けのためのシステム化」ではなく、「顧客満足の質・量のいずれもを高めるためのシステム化」を推進する必要があるということです。

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 平成進化論から一部抜粋
http://www.2nd-stage.jp/ 20067


震えるほど恐ろしく、震えるほどのやり甲斐

2013-08-16 09:47:30 | 日記・エッセイ・コラム

ビジネスの世界ではよく「『お客さまの声』を集めれば商売繁盛する」ということがいわれます。
これはその通りで現象的には間違いなく、お客さまの声が集まれば、結果として商売繁盛になるでしょう。
ただし、「顧客にお喜び頂けるだけの価値を提供して、お客さまの声を頂く」という強い使命感なく、ただ、「顧客の声を集めて紹介すれば、売り上げが上がって儲かるんだろう」などという安直というか、思考停止というか、そんな発想ではいけません。
安易な思考の延長線上に生まれるのは「それなら顧客の声をでっち上げればいいんだよね」
といった考え。
これは本末転倒も甚だしい話ですね。
ビジネスにおいて本来あるべき、自然な姿というのは「顧客に喜んでいただくから、お客さまの声がいただけ、その輪が徐々に広がり、商売繁盛するようになる」という状態。
現象面だけに囚われ、この順番を顛倒して捉えてしまうから「顧客の声を自分たちで作ってしまおう」などという、とんでもない思考に陥ってしまうのです。
そんなことをやったら最後、この(ふまじめな)姿勢がビジネスに取り組む姿勢全般につながっていきます。
一事が万事、となるのです。
これでは事業の一貫性が保てませんから、最初は脱兎の勢いで商売が伸びてもやがて、処女のようにおとなしくなり、最後は商売そのものが消えてなくなるに違いありません。
そうではなく、純粋にお客さまに喜んで頂けるために、どこまで価値を提供することができたかに徹底的にこだわることで、結果として(価値提供の総量に準じて)「お客さまの声」を頂戴できるようになってくるそんな風に考えているのです。
このプロセスを通して頂戴するお客さまの声の集積が「ビジネス繁栄の元」となるのです。

だから商売に携わるものは(大げさにいえば、いや大げさに言わなくても)自分の存在意義をかけ、全人格的に顧客とぶつかることによって、積極的に評価(フィードバック)をいただきましょう。

高い評価をもらえれば、自分の存在を丸ごと認められた、というこれ以上ない喜びを得られることになるし、辛い評価を頂戴すれば、反省し、もっともっと向上の余地があるなあと努力工夫の毎日となるのです。

世の中において、商売ほど真剣勝負で、かつ生涯にわたって続いていく厳しくも嬉しい、そして冥利に尽きる営みがあるでしょうか。
そう考えれば考えるほど、「震えるほどに恐ろしいけれども震えるほどにやり甲斐のある」
そんな険しい土俵で戦わせてもらっていることに日々、心からの感動を味わわせてもらっています。(ほんとは、こういう真面目なことをいうキャラでもないんですが、このところ、こう思わずにおれないことが毎日、毎日、毎日、毎日、続いているので、思わずキャラに似合わぬことを書いてしまいました 汗)

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 http://www.2nd-stage.jp/ 平成進化論から一部抜粋

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ありがとうの累積総量を増やす

2013-08-14 07:25:35 | 日記・エッセイ・コラム

「副産物としての金銭的報酬」と題して、「頂戴するありがとうの数」を追求するからこそ、結果としての「副産物としての金銭的報酬」も生まれてくる。
そして、その主従関係について、キレイ事だと捉えたり、穿った見方しかできないとすれば、それはとても不幸なことではないか、(なぜなら人間は、相互の関係性の中にあって初めて自分の価値を確認できる生き物だから)そんなお話をいたしました。

その続報として、今日も続けます。

私たちは公私において、日々、どれだけの「ありがとう」「助かりました」「おかげさまで」という言葉を頂いているでしょうか。
昔からこのような言葉をいただくと嬉しかったものですが、最近、ますます「いくら売り上げた」
 
とか「いくら儲かった」といったことよりも、「どれだけの人に、どのくらいの程度、喜んでもらえたか」ということのほうが圧倒的に大切だと思われるようになりました。
これら「ありがとう」の数と質(?)の累積された総量が、人生においての幸せと直結するような気がするし、企業経営においての業績ともダイレクトに関係していくようにも思われます。
(短期的にはともかく、長期的に見たときには確実に)

当たり前といえば、これ以上当たり前なこともなく、関わる人に期待以上のものを提供することで、対価として有形無形のものに恵まれるわけです。

これ以上、分かりやすい構造は無いと思うのですが、どうして「顧客からのありがとう総量」がビジネスの現場において語られることが少ないのか、不思議といえば不思議です。

昨日も少し書いたことですが、おそらくは理由の一つとして、組織が大きくなるに従い、従業員一人ひとりと顧客との距離が離れ、お客さまとの直接の接点が失われるようになるからではないかそんな風に思われます。(実際、数日前にある大手企業に勤務する方にコンサルをさせていただいたとき、このような話が出ました)
 
実はいま、私が一生懸命、個別のコンサルティングを行なっている理由の一端はここにあります。
「現場に出て、出来る限り、顧客お一人お一人との直接のかかわりを持つ」姿勢を大切にすることによって、潜在的なニーズを汲み上げたり、より大きな価値提供を行うことができるということに明確に気付かされたのです。

恥ずかしながら、少し前までは「いかに綺麗で、格好良く、負荷がかからず、摩擦も少なく、高収益の『美しいビジネス』を行うか」に意識が向きすぎていたように思います。
 
(だから積極的に個別のお客さまとお会いすることは極力、避けるようにしていました 汗)

とはいえもちろん、今でも、「綺麗で、格好良く、負荷がかからず、摩擦も少なく、高収益の『美しいビジネス』を行う」ことは大切だと考えています。

いうまでもなく、そのような環境(美しいビジネス)が実現されなければ、事業の安定と継続性が担保されず、自転車操業状態(美しくないビジネス)になり、そんな状態仕事をしていて、まともな価値提供を行うことなど不可能だから。

けれども、それにもそれがあって、やっぱりある部分では現場にガシガシと入っていき、顧客と密度濃く接し、マンツーマンで対話することによってしか見えてこない部分があるわけです。
泥臭いことをやらなければ、本当に大きな値打ちを供給することができないことに気づいたわけでした。

まとめるとこういうこと。
ビジネスを行う上で徹底的に、「綺麗で、格好良く、負荷がかからず、摩擦も少ない、美しい事業モデル」を追求しつつ、そこで生まれる余剰資源を「泥臭くて、格好悪く、負荷もかかり、 摩擦も多く、美しくない、けれども価値を生むためには絶対に手を抜いてはいけないところ」に積極投入することによって、「顧客満足度を最大化する」ことができるようになるのではないでしょうか。
このところ、そんなふうに考える機会が多くなりました。

※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏 http://www.2nd-stage.jp/ 平成進化論から一部抜粋

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