「自分の時間感覚に連動する形で付き合う人が決まってくる」という話をいたしました。
飲み会でサクッと切り上げて帰る人と最後までいようとする人、あるいは、テレビを全く見ない人と時間があればどれだけでも見てしまう人、この両者は(良い悪いではなく)純粋に時間感覚、波長が異なり、この両者が真に親しく交わることはないのではそんなお話でした。
このことを別の角度から見れば、「秒単位で生きている人」「分単位で生きている人」「10分刻み、30分刻みで生きている人」「1時間単位で生きている人」「朝昼晩、午前・午後、業務時間中・業務時間外という括りで生きている人」「1日、ないし1週間という単位で生きている人」が混在している世界の中で異なる時間軸で生きている人とはそれぞれ容易に交わることはないと言えるようにも思われます。
そして、少なくない場合において、コミュニケーションの場で「時間感覚の相違」に意識が向けられていないようなのです。
もう少し詳しく言うと、おそらくは「秒単位で生きている人」にとっては「分単位で生きている人」
「10分刻み、30分刻みで生きている人」「1時間単位で生きている人」「朝・昼・晩、午前・午後、業務時間中・業務時間外という括りで生きている人」「1日、ないし1週間という単位で生きている人」が、それぞれどのような時間の流れで生きているか理解できますが、その反対はおそらく不可能です。
「30分刻み、30分刻みで生きている人」にとっては、「10分刻みで生きている人」の内的世界はイメージがつけられても「秒単位で生きている人」「分単位で生きている人」については、ほとんどその感覚を理解することはできないでしょう。
反対に、「1時間単位で生きている人」「朝・昼・晩、午前・午後、業務時間中・業務時間外という括りで生きている人」「1日、ないし1週間という単位で生きている人」にとっては、それぞれのレベル感が手に取るように分かるのです。
人それぞれ、普段、意識に乗らないところで、自分にとっての「基準とする時間単位」のようなものを持っています。
そして、その基準とする時間単位に基づいて、付き合う人間関係も規定されていきます。
つまり(はっきりいえば)こういうこと。あまりにもゆっくりとした時間感覚で動いている人とは、せっかちな人とは付き合いきれず、逆に、あまりにせっかちな時間感覚で動いている人とは、
ゆっくりとした時の流れに生きている人は付き合おうとも思わない、ということ。
このような意味で「自分の時間感覚に連動する形で付き合う人が決まってくる」と記しました。
自らの時間に対する認識、捉え方が「人間関係における引力・斥力」※斥力(せきりょく)とは、互いに反発しあう力を発生させているのです。
この自覚があったうえで、意図的に、そして、確信を持って、「今のコミュニケーションスタイル」を取っているのであればいいのですが、無自覚に、何も考えず、「今のコミュニケーションスタイル」をとることで、知らぬ間に人間関係に斥力を発生させている(=せっかくの関係性を深められない)ということも往々にしてあるものです。
※セカンドステージ代表 鮒谷周史氏http://www.2nd-stage.jp/平成進化論から一部抜粋