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つれづれなるままに

神仏は尊し

2008-11-15 06:54:30 | 宗教
神と、仏と同列に扱うのが日本的ではあるが・・・

ともかく神仏は尊い。

私の、学生時代くらいまでは『朝日ジャーナル』とか左翼系の雑誌を読むことなどがなんとなくかっこよく、したがって「自分は無宗教だ」などと称することがインテリみたいな風潮があった。

私はお寺の子で、何となくそれだけでうしろめたく、日陰者のようにおもえて、若いころはできるだけ自分の家がお寺であることを隠したいような気がして、できれば坊主などやりたくないとずっと思っていたが、逃げようとしても逃げようとしてもどうしても仏様に引っ張られて今日まできてしまった。いまおもえば有り難いことである。

こんな風潮もきっと戦後の左翼的な教育と風潮のせいであろうと、なんでもそのせいにしてしまうのはよくないないかもしれないが、そのようにおもえてしかたがないのである。

宗教をもふくめて、祖国の伝統文化を否定することは絶対にあってはならないことである。

私は、神と仏とどちらと相性がいいかと思えば、率直にいって仏教徒でありながら、「神」のほうである。いうまでもないがここでいう「神」とは西洋のキリスト教のような一神教における「唯一絶対の存在」ではなく、日本の「八百万の神」のことである。

仏教の戒律は、「自業自得」という言葉があるように、自分のおかした善悪の行ないは必ず自分に跳ね返ってくるというもので、一神教のように唯一絶対の「神」によって救われたり、罰を受けたりするわけではないが、それにもかかわらず仏教徒には守らねばならない「戒め」というものがある。

いわく「殺さない」「盗まない」「セックスしない」「酒を飲まない」「嘘をつかない」の五戒は仏教徒なら必ず守らねばならない戒めである。

私に関していえば、はっきりいって、破りまくりである。とくに「酒を飲まない」に関しては毎日のように破っている。その他に関してもけっこう破る。まことに申し訳ない。
キリスト教のような一神教においては、神様にたいして申し訳ない、となるのだが仏教においては自分にたいしてもうしわけない、となる。これらの悪業は結局自分でその報いをうけなければならない、からだ。自分で受けるのだからまあいいや、と私は心の中で考えているのであるが、まことに情けない仏教徒であることは間違いない。

その点、神道には教義も戒律もない。とにかく毎日神様に感謝して、拝んでおれば神様は自分の味方をしてくださるのであるから、仏教に較べればまことに楽である。
仏教の最終的な目標は「解脱」、つまりこの世の苦しみから完全に解放されることであるが、神道には『古事記』のような物語があるだけで、本来修行して、何かを求めるということもない。(もちろん様々な神道の流派のなかには修行の要素があるものもあるかもしれないが・・・)

それに最近ではこの世の苦しみから完全に解脱するために、修行しようという気もあまりしない。苦しみから完全に解脱するなどというのは贅沢だ、とさえおもう。

まことにダメな、破戒坊主の考え方であることには間違いない。

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