黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

廃墟のすゝめ 03

2008-12-23 03:07:02 | コラム:廃墟のすゝめ
この記事は2008年12月14日に、
東京カルチャーカルチャー@お台場で行ったイベント
軍艦島ナイト』で話したことを中心に、
廃墟ってなんだろ?を改めて考えてみようと思い、
アップしています。

◆廃墟と映画◆

廃墟をを舞台に使った、あるいは廃墟を表現した映画は、
数限りなくあるので、とても全部は取り上げていられません。
なので、特に想いで深いものの中から、
その一部をちょこっと取り上げようと思います。

廃墟の夢幻性や幻想性を色彩鮮やかに描ききった、
陽炎座』(監督:鈴木清順)



今は亡き松田優作が演じる劇作家が謎の女を追跡するうちに、
次第に現実か非現実かわからに幻想の世界へ迷い込んでしまう。
そこは限りなく極彩色の世界でもあり、無音の世界でもあり、
エロスとタナトスが露骨に交錯する夢幻の世界だった。
幻想の世界に登場するセットは、はりぼてのような作り物の世界ながら、
随所に廃墟的なテイストがあしらわれ、
劇作家の心が崩れゆく様子をうまく描いていますね。
古井戸の中の大楠道代が吐き出す酸漿(ほおずき)で、
井戸の水面が一面真っ赤に埋まるシーンは圧巻。


この映画のせいで、はるばるイギリスまで行くハメになった、
ザ・ガーデン』(監督:デレク・ジャーマン)



特に強烈に廃墟が出てくる訳ではないのですが、
全編濃密な廃墟感が覆い尽くすマッシヴな作品。
ゲイだった監督が罪の意識と戦った自叙伝的な内容でもあり。
そこには閉ざされた恋人との思い出と死への恐怖が、
面々と綴られていきます。
舞台となった場所は、
イギリスのダンジョネスというドーバーの近くの海岸。
原子力発電所の低いうなり声が聴こえる、
低木しか育たない玉砂利の海岸は、
この世の海岸とは思えない不思議な光景でした。
またこの映画を廃墟感満載にしている最大の要因は、
サイモン・フィッシャー・ターナーによる、
サントラの効果もおおきかったと思います。
ナルニア国物語で魔女を演じるティルダ・スウィントンの出生作
であるとこも見所です。


そして廃墟映画といえば、この作品はやはり外せないですね。
ストーカー』(監督:アンドレイ・タルコフスキー)



恐らく世界中の監督で、
この人と黒沢清ほど、廃墟というコトを正面から捉えた監督は、
いないんではないでしょうか。
生涯を通じて8作品(だったかな)しか制作せず、
徹底的に芸術という言葉にこだわった映画製作を貫いた作品は、
どれもが映画としては退屈の限りですが、
それを耐え忍んで作品を見終わった時には、
確かにハリウッド映画より見てよかった、
という感想が持てる作品だと思います。

ストーカーとは非合意で気になる相手を追い回す人の事ではなく、
道先案内人という意味らしく、
ゾーンと呼ばれる廃墟の中を、
蘊蓄を垂れながら案内するストーカーについて行く2人、
やがて様々な困難を乗り越えて辿り着いた所は、
結局廃墟以外なにもない、
ただし、怒濤の水が降り注ぐ廃墟だったというお話。
冒頭とラストのシーンがほぼ同じシチュエーションで作られていますが、
その両者が微妙に変化をつけてあるところが、
ゾーンを体験した前と後のわずかではあるけど決定的な違いがある、
といったことを言いたいのでしょうか。

旧ソ連時代に6本、イタリアへ渡ってから2本作っていますが、
イタリアでの一作目『ノスタルジア』のラストには、
以前の記事でも触れた様に、
ドイツロマン派の画家、カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒの、
『エルデナの廃墟』へのオマージュと思えるシーンが登場します。
カスパー・ダヴィッド・フリードリッヒは人間の孤独性を、
廃墟という素材を使って描き続けたが画ですが、
おそらくイタリアへ渡ったタルコフスキーも、
限りない孤独感にさいなまされたのではないでしょうか。

しかし映画で廃墟がタルコフスキーのように使われる事は少なく、
その多くは、現実と非現実のはざかいにあるそのルックスが、
ファンタジーの世界へ誘う事が使命の映画という媒体にとって、
ひとつの強力な舞台設置になるところが、
もてはやされる点だとは思います。



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