国語塾長、情報集めて考えます・書きます的ブログ

国語塾詳細はkokugo.m@ozzio.jpへどうぞ。塾猫常駐。

大糸線に乗って

2023-05-03 09:39:43 | 旅行

4月30日6時39分直江津行で出発。

当初に調べていたのとは違う電車に乗れて意外と早くに、大糸線終着の松本着。

ネットで調べたもので動く予定だった、自動的に乗り換えが少ないものが上がってき(ていたようだ)糸魚川で1時間近い待ちだったのだが、南小谷で乗り換えで便が待っていて、それに乗車。

やっぱり紙の時刻表(本ですけど)を買って調べる楽しみを再度取り戻すべき、と思った次第。

 

南小谷駅

帰りはここで1時間待ちした…待っている間に、ここから栂池方面とか塩の道歩きとかの情報を得て、日帰り旅ができそうと知りました。有益な待ち時間でありました。

穂高駅から歩いて7分の

萩原碌山美術館(はぎわらろくざんびじゅつかん)

夕暮れの松本城 

絵になりますね。

白人系の観光客で松本はにぎわっておりました。

松本についたのは、3時過ぎだったので、バスで20分ほどの浅間温泉の日帰り施設へ温泉に入りに。

それで、地図を見ていたらなんと「本州中央の地」の碑があるではないか。

おう!

と思わず、これ見よう!

何で「おう!」っていうの?われながらわからん。

小さな薬師堂の境内にひっそりありました。

こんなにさりげなくていいかい、と突っ込み入れる私。

・・・・・・・・・・・・・・

翌日は快晴

絵のような北アルプスを見ながら、帰ってきました。

もちろん寄り道はしてきました。

大王わさび農場です。

それはまた後程。

ミヤコは、初めて「一人」で夜のお留守番をしました。(心配でした)

5月1日夜19時半、帰宅したら、玄関で待っていて、すりすりして、しきりと鳴いていました。

多分、私がいなかったときのことを話していてくれたんだと思います。

猫語、マスターしたい!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ネット闇界隈の一角には。

本日5月3日に、日本に8000万人が死ぬような天変地異が起きる、という人(たち)がいます。

国会議員たちはそれをあらかじめ知らされていて、国外へ外遊という避難をしたんだとか。いう話もあり。

国会議員が100人ほど外遊視察(という名の税金使った豪遊旅行といってもいい)をしているのはホントです。予算5億とか。岸田はまたまた海外で金ばらまいているし‥‥

外遊豪遊するんなら、国民に配らんかい!!!

やれやれです。

もう落ちるところまで落ちるのでしょう‥‥

自分の日々を大切にして、世の波動が変わる一助になれば、と「瞑想的祈りの時間」を持っています。

 

 

 


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男鹿の雲昌寺へ紫陽花見物に、そして車中で思ったこと

2022-07-13 10:18:46 | 旅行

10日、11日と男鹿半島(秋田)へ紫陽花を見に行って来ました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

車中で、予定稿としていた記事がアップされたかどうかチェックして改めて読んだ。

>安倍さんは、売国政策はしていたが、売国奴ではなかった。(と思う)

と書いているんですよね。

車中・・・・うーん。

長期政権で彼がしたこと振り返ってみた。

法人税率引き下げ・派遣法改正(改悪)・TPP・種子法廃止(今私たちがまいている種って大方が外国産。種は乗っ取られた、在来種の長岡野菜を守りましょ)・水道法改正(麻生タローと組んで,彼のフランス/ロスチャイルド家系の娘婿の会社が民営化と共に入ってきている,宮城とか愛媛がやられつつある)

付記 まだありました。 消費税を2回も上げた方。でもま、正しく使われて還元されている実感があればいいのですが・・・ないなあ。むしろ、どんどん苦しくなっているという実感はあるけど。

以上

間違いなく,長期政権の中で日本を海外資本に切り売りした方。

水だの種だのは人の生存に関わるもの。死守しないといけないのに。

さらにG7で日本だけ給料が上がっていない。生活は苦しいし、若者は結婚したくてもできないし。亡国の道まっしぐらになった。

森友、加計、桜を見る会・・何もはっきりしないでしまった。特に森友では官僚が自殺までしているのに。やっぱり、売国政策=売国奴になっていたっていうことであろうね。

亡くなられた方にむち打つ気は全くない.(ご理解下さい<(_ _)>)

事実を追っていくと上記のようなことになる。

>安倍さんは、売国政策はしていたが、売国奴ではなかった。(と思う)

は撤回します。

以上、車中で考えたこと。

生前は非難しかしなかったマスコミがやたらに美化したり権威化している報道をしているのは気になる。どういう流れをつくりたいのか?やはり、憲法改正の方向であろうか。(安倍さんの悲願だったという流れ)

ところで、

安倍さんは笑うときに目まで笑った人。(このあたりで私の評価がつい甘くなる)

岸田さんは目は笑わない。高市さんも目は笑わない(この方のお顔は、ものすごく怖い)。菅元総理は、たまに目まで笑っていたけど、そうすると泣き笑い。笑うって顔ではなくなるような。

目まで笑う安倍さん、生まれる時代や場所が、例えば明治や大正の大地主さんのぼんぼんなら、もっとのどやかに暮らせたのかも、あの昭恵さんとともに,などとは思う。

合掌。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

男鹿半島の雲昌寺(うんしょうじ)の青い紫陽花。境内がこれで埋まっている。死ぬまでに見たい絶景の1つに選ばれている。

去年だったか、なんかの検索をしていて、この寺の紫陽花に埋まった境内の画像に出会って見入ってしまった。そして、いきたいな・・・と。

更に男鹿は寒風山に行きたいとずっと思っていた。(私的な理由があって)

両方とも上々天気の中、果たしてきました。

これ、夏旅の前倒し。紫陽花は今でないと行けないので。

7月の週1回のYouTube動画は感想文の本の紹介で終わるので、8月になったら動画アップしたいと思っています。

 

 

秋田は雨があまりないらしく、日当たりの紫陽花は焼けていました、これは少し残念。

この紫陽花は、副住職さんが地元振興も考えて1本1本挿し木して増やされてきたもの。15年がかり。このストーリーにも感動する。

乗り合いタクシ・なまはげシャトルの運転手さんによるとこの紫陽花時期の客は増えたという。

副住職さん、すごい。パチパチパチ!


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戸隠奥社、善光寺へ(1泊2日の夏休み)

2021-08-20 18:23:19 | 旅行

第一目的地は、ここ。戸隠神社、奥社。昨年は失礼したので、今年は!!ということで、お参りの旅が私の夏休み。(若いころから、ネズミーランドに行くなら寺社仏閣へがモットー)

バスを降りて2キロの道を上る。ここと和歌山県新宮の神倉神社は、あと何回この場に参拝できるかな、と思う場所。何しろ、登るので・・・寄る年波で足が弱ってしまえば×  戸隠のとんがった峰々の直下にある。

大変にパワフルな場所。ここの神様の前に立つと、個人の祈願ではなくて、神恩感謝の上で、別の、大願祈願をすべし、という思いが来る。伊勢のような聖なる地。

しかし、エネルギーは違う、と感じますが。

いつも人が多くて、ゆっくり参拝できないのだが、今回は人気少なし。20分以上いた。

「コロナ禍が去ってワクチン不要となって笑顔で暮らせる世、ワクチン接種された方々の命乞い、このプランデミックを企てた者どもへの報いを」

あまり再三にわたると神様に申し訳ないので、2回は神前に立って集中度リミットで願った。

いる間、小雨がたまに来たのだが、何しろここは龍神の地。吉祥なり、だ。2回目に「大丈夫だ」という声がしたように感じた。

そして一陣の風が吹いて、また雨がちらり。

これは天のお印であるし、叶うかどうかは知らないが、願いを確かに聴いて下さった、と確信できた。

降りてきて、戸隠そば。おいしゅうございました。

このお店もいつもなら並ぶのだが、閑散としていた。しかたないけど。

戸隠神社は5社ある。

奥社のすぐ下に「九頭竜社」ここはもちろん参拝。

お蕎麦のあとに、バスで「中社」へ。

見えないけれど、沢山の龍さんにあって・・・この方々、かなり陽気です。だから、ここの境内は明るい。

その後、次のバスまでの1時間で、火御子社から宝光社へ。

戸隠古道を歩くので、熊出没の看板もあってやや緊張したが。。

それぞれに社にはすべて、エネルギーをとても強く感じられる場所がある。(某所)

そのうちにYouTubeにします(カミサマに訊かないといけないかな・・・)

宝光社のお参りを終えて、降りてふりかえれば・・はるか遠くにお社が(゜Д゜)

古道は山から下るので、これは登らない。

戸隠からの帰り、バスは善光寺大門を通る。

正直、もはや足が痛かったが(車社会にどっぷりで私はダメになった・・(´д`))、でもしかし、降りまして参拝。

何と、何と、境内がすっきりとしている。

人気少なし。

中国人観光客や団体バスが来ないって、こういうこと。

ゆっくりと、般若心経をよんで参拝してきました。

良かった、降りて。

残念なのは、コロナのせいで早朝の「お数珠頂戴」が休止になっていたこと。これは、早朝6時過ぎくらいに、朝の勤行でお通りになる善光寺の高僧(座主?管長?)さんが、お参りになっている方々全員のアタマにお数珠で触れて下さるんですけどね。3年前(確か)友人と、宿坊に泊まって参列した。

・・・・・・・・・・・

 

私の大好きなローカル線飯山線で、津南まで。

 

風呂上がりビールで枝豆を食べてから(真ん中のお豆腐の隣が空いています)アッと気がついて、撮影。ここの他に、天ぷらと鯉こく・・食べきれなかった・・・鯉が少し、鯉にごめんなさい。おつまみが少しだけ残り、すみません。

冷酒は「苗場山」口当たりがよろしい。のみきれなかったので、もってきました。冷蔵庫で冷やしているので今晩いただきます。

 

 

というわけで、津南1泊で帰宅しました。

県民割や津南割でお安く宿泊してきました。

感謝、感謝。

猫たち、お利口に留守番、1泊が3泊くらいいなかった気がするのは、リフレッシュしたからでしょう。山を歩くのはホントにいい。

・・・・・・

友人と県内の温泉地にもう一度行きます、それで夏休みすべて終わり。

コロナ禍であっても、できるコトします。経済殺してどないする?

 

 


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塩沢へ行って来ました

2021-05-03 10:23:01 | 旅行
鈴木牧之の生家、という案内板が出ていました



鈴木牧之(すずきぼくし)の「北越雪譜」をご存じですか。

明和7年(1770年)越後国魚沼郡の塩沢(南魚沼郡 塩沢町→南魚沼市)で生まれ、家業の縮の仲買、質屋の経営をやりつつ、雪国の生活ぶりを知らせる本を書いた人です。
19歳の時、縮80反を売却するため初めて江戸に上ったのですが、、江戸の人々が越後の豪雪を知らないことや、江戸の人々にとって雪は「風月花」として風流なモノであると言うことにショックを受けたのでした。
そこで雪を主題とした随筆で雪国を紹介しよう帰郷して執筆した作品を寛政10年(1798年)、戯作者山東京伝に添削を依頼し、出版しようとしましたが、なかなか果たせませんでした。結局40年の歳月をかけて夢は叶ったのでした。
地元で有数の豪商であり、三国街道を往来する文人も立ち寄りった家で、父・牧水もそれらと交流したので、牧之も影響を受けて、俳諧や書画をたしなんではいたが、商売をおろそかにすることもなく、むしろ父の代より繁栄させたというすごい人です。

さて「北越雪譜」ですが・・・
一言にして言えば、おもしろい。
私は、長岡に帰って開塾したばかりの頃、塾生さん3人だったときに、ちょうど市民講座でこの本を読む会があったので、通いました。
熊が雪の中で人を助けてくれたことや、雪の中の幽霊の話や、雪虫のこと・・・・異獣の話。
もちろん、雪のすごさもリアルに語り尽くしている。

そういうことで
前々から訪ねたかった牧之記念館。
昨日(2日)行って来ました。
まずは、三国街道の町並みを再現した牧之通りへ。
何とご子孫が同じ地にお住まいのようです。
その後、記念館へ。
私一人の時間(運営が心配になる)でゆっくり観てきました。

あいにくの雨で寒かったのですが,牧之通りの店でお蕎麦を食べて、駅に向かう道筋のカフェで、ここもまた他のお客さんがいなくて、そこの女主人さんと電車待ちの時間40分くらいを楽しくおしゃべりしてきました。
帰りは母と義妹へ、塩沢名物の薄荷糖を買ってきました。

「北越雪譜」の中のお話のいくつかは、YouTube動画を作成してご紹介する予定。
お楽しみに。

牧之通りの駐車場に関東圏ナンバーの車がけっこうあって、うーむ。
まあ、そうなるよね。
リスクはあるが、お金を落としていって、・・といいたい気持ちでした。






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コロナ前の世界の思い出 エリトリアの旅から 下~ 

2021-04-29 09:08:23 | 旅行
エリトリア・・赤い大地という意味だったはず



緊張の続くボーダーの町に旅人はめったに来ないし、さらにはほとんどお目にかかれない東洋人が歩いている、というので私の後ろに好奇心の強い青少年の行列ができた。
 並んで歩きながら「どこに行くの」「名前は何というんだ」と訊くヤツがいる。
子どもは「チャイナ!!」とはやし立てる。この国には、中国製と韓国製の物品がいろいろ入っていて、東洋人というと、だいたいそのどっちか、と思っているフシがある。
 反対方向から歩いてくる土色をした村人たちはじいっと穴の開くほど見つめる・・・そういう人たちには、顔に「見つめられクレーター」ができる前に「サラーム(こんにちは)」とニッコリする。
そうすると「サラーム、サラーム」とすばらしい笑顔で返礼がある。
 要するにセナフェに悪いヤツはいないんだけど、かつて上野動物園にパンダ見物の行列ができたように私の後ろと周囲に人が集まるというわけなんだ。
 メテラ村の入り口にまた検問があった。
 通してもらったものの、どこが遺跡かまったくわからない。検問所の男に、ガイドブック(Lonely planet)に書いてあるテグリニアで書いた地名を見せても、首を振る。どうやら文盲(今は差別語かな・・・もんもう、とよむ・字が読めない人)らしい。 
 困っていたら、一人の少年が寄ってきた。
「あなたはどこに行くの?遺跡に行くのだったら案内するよ」
「あなたはガイドなのか」
「ぼくはガイドじゃない、彼は親戚の結婚式で、今日はいない」
 一月はエリトリアの結婚月、毎土・日曜、結婚式がある。式のあと親類縁者数百人を招いてのパーティが行われる。そういう事情でガイドが不在というのはよくわかる。彼はウソをいっていない、と思う。
「遺跡はどこにあるの?」
 あそこ、と少年は指さす。
 自分で行けそうだが、彼はついてくる。もう一度、彼をじっくり眺めた。顔つきは真面目そうで、何より目が落ち着いている。案内してもらうのもいいかも知れない。
「あなたにガイドを頼むわ。いくらなの」
 こういうところで現れたガイドについて行く場合は事前交渉は必須、という「我が辞書」に乗っ取って訊いてみた。法外なことをいわれたら、断るか、ディスカウント交渉をするつもりだった。
 少年は一瞬困った顔をして「別にあなたの気持ちで」みたいなことをぼそぼそ、長々という。明らかに当惑している。
 その表情を見て、今度は私が「えっ」と思う番だった。キミはお金目的で現れたんじゃないのか? 
 今まで訪れた発展途上国の観光地で、こういう状況で登場するガイド志望者はみんな「金ほしさ」だった・・そうだ、彼らはまず「いくら」を先に言った。
いくらで連れて行く、いくらで案内する・・彼らは訊かれるままに遺跡の位置を示したりしなかった。
そんなことをしたら、仕事を失う。
 目の前にいる少年も「お金がほしい」気持ちはあるのだろう、しかし、外国人と話したい、というピュアな好奇心のほうが強いようだった。
すれていない。
 海セン山センが現れる観光地をたくさんバックパッカー旅して、私は疑り深いしたたかな旅人になってしまったのかも知れない。少年の横顔を見ながら、すこし自分を恥じた。
 
「じゃ、行こう、つれていって」
という私の言葉に、彼は羊が通る野良道へと歩き出した。
「ここは大丈夫ですが、道を外れて歩くと危険です」
「どうして」
「地雷が埋まっていることがあります」
 そうかあ・・・言葉がなかった。
 まず彼は、古代の文字が刻まれた石の塔、「オベリスク」に案内してくれた。
 それは、エチオピア軍が侵入したときに倒されて転がっていた。
「エチオピア軍は、この国で沢山の遺跡を壊しました」
 彼は、悲しそうな顔をしていった。
「初めはトルコが、次はエチオピアがこの国の歴史あるモノを破壊しました」
 彼は、地中に埋もれていて残った遺跡を案内しながら
「ここが入り口です、ここは神殿ではなくてふつうの住居でした。ここに住んでいた人たちは神を信じていませんでした」
などと説明をしてくれる。
 詳しい。
「あなたは、歴史が好きなのね」
 少年は、にかみながらうなずいた。
「あなたは将来、歴史を勉強するの?」
「アスマラ大学に行けたら・・落ちたら、ソルジャーになります」
 そうだった。
 この国の若者は高校卒業後にサワに行かねばならない。
 サワは、まあ、私にいわせれば「軍事教練」をするところだ。
アスカダムは「今は軍事訓練の場ではありません、若者の教育施設です」というが、エリトリアテレビで見たサワの様子は軍人養成所以外の何ものでもなかった。
 卒業後、と書いてしまったが、最近は卒業前に行くようになったらしい。サワに行くのをいやがって高校を卒業しないで止める子が多いからだ。
 大学の入学試験に合格するか、サワで訓練を受けてミニタリーサービスで前線や各地の部隊に駐在するか。これは無期限、無給のまさに「サービス」のお仕事だ。
 この国のふつうの若者には将来の選択肢がこの二つしかなかった。目の前にいる17才の歴史好きの若者にもそのどちらかしか、未来は開けていない。
 サワで訓練を受けていて、大学入学許可通知が来ると抜けて好きな学問をすることができる。しかし失敗すると、下手したら前線で戦死だ。
 軍事訓練とミニタリーサービスは男女関わらず義務なので、女子は「妊娠」という非常手段を行使するらしい。結婚していなくてもとりあえず身ごもれば「母体保護」ということで家庭に返される。 
 この国の幹線道路脇には、等距離で木が植えられている。一見、街路樹の続くふつうの風景だが、アスカダムはいった。
「あれはソルジャーツリーだよ、エリトリアでは兵士が一人死ぬと木を一本植えるんだ」
 どこに行っても、ソルジャーツリーは延々と続いていた。
「この国では、ほとんどすべての家庭で独立戦争の犠牲者を出しているよ」
アスカダムは言う。
 確かに親族訪問をすると、居間に必ず若者の遺影があった。
 若者には無限の未来がある、といったのは誰だろうか。とりあえず正しいとは思うが、こんな国もある。
 この国の若者たちは何とか外国に出たがる。親も必死に出したがる。道理である。若者に二つしか将来の選択肢がない、一方には死が待っているかも知れない国に明るい未来はない、と私は思う。
 メテラの遺跡を見終えて、また彼に案内されながら村へ戻った。
 途中、すれ違った女性が私を見て彼に何かを言った。   
「彼女は何を言ったの?」
「あなたは荷物を背負って、疲れているように見える、何で代わって持ってあげないのか、といわれました、ぼくが背負います」
 彼は私のザックを指した。
 パンダのようには見られはするが、こういった親切はこの国に来て、あちこちで受けていた。
「大丈夫、疲れてはいない、日差しが強くて暑いだけ」
「暑い? 今、この国は涼しい、寒いですよ、あなたは暑いですか」
「この気温は日本の夏です」
 なんて話をしながら、村に着いた。
 彼に心ばかりの礼を渡しながら「アスマラ大学に行けるように、あなたの成功を祈っている」と、握手して別れた。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
付記 アスカダムは、難民として北欧に渡った。そして、今はノルウエー人だ。彼は性格のよい立派な人、頭もよく私が理解できる範囲の英語を駆使してさまざまなことをレクチャーしてくれた。
もちろん、ノルウエー語も話せるが、母国語2つ(テグリニア・アマリニア)フランス語や英語もできる人。
今生、もはやオランダ在住の友人や彼の配偶者の一族には会えないだろうな・・・私、ワクチンは打たないし、そうするとヒコーキは載せてもらえないと思うので。

・・・
この旅行記は続きが確かあったはずなので、パソコンの文書ファイルを探して、また加除訂正して記事にするかも知れません。
    
    

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