蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

逓信大臣  (bon)

2015-02-09 | 日々雑感、散策、旅行

 なぜ、逓信大臣なのか? 

 それは 初代逓信大臣(明治18年)が、あの、榎本武揚であるからです。 
幕府側最後の総大将として北海道五稜郭に立てこもり 函館戦争を戦った彼が、敗北後、当時敵であった
薩長による新政府が発足するや、その初代逓信大臣に就任しているのです。 
普通敗戦の将は、自決か打ち首か?なのに、榎本はそれどころか、政府の大臣に抜擢されているのはなぜか?   

 このことに長い間、薄い疑問を持ったままでいましたが、先ごろのNHKの夜の番組で、この事をやっていました
ので、ようやく判明しました。 
皆様にはご存知のことと思いますのでウイキペディアから、簡単に引用させていただきました。

 あっ、タイトルを逓信大臣としましたのは、第2代大臣が、後藤象二郎、第3代が黒田清隆、そして歴代の有名大臣などの名前も見ておきたいと思いましたので・・。(すべて、敬称は略させていただきました。)

では、最初に・・

 榎本武揚は、1836年 江戸(現御徒町)に生まれ 榎本家に婿養子として幕臣となり、幼少のころから勉学に励み、
英語はジョン万次郎の私塾で学び、また伊能忠敬の弟子でもあったそうです。 1908年(明治41年)に73歳で
没するまで、その知識と探求心を遺憾なく発揮し、日本の将来を見据えた活躍をした人であったようです。

    榎本武揚
      (ウイキペディアより)


19才で、北海道に渡り、樺太探検隊にも加わったようですが、数年後にオランダに留学し、国際法や軍事知識、
造船や船舶に関する知識を学んだとあります。
1867年にオランダから帰国するや、大政奉還があり、日本は大きく方向転換するのですが、戊辰戦争が始まり、
幕府は官軍との戦いを繰り返し、とうとう五稜郭にて迎え撃つも、榎本は降伏しました。 この時、彼はオランダ
留学時代から肌身離さず携えていた『万国海律全書』(自らが書写し、脚注等をびっしりと挿入していた)を
戦災から回避しようと官軍総参謀・黒田了介(清隆)に送ったのでした。 敵・味方という考えではなく、これからの
日本にとって必要となる辞書だと信じて 当時敵の総大将に送ったのでした。 これが、榎本の起死回生なのですね。 
ウイキには “黒田は榎本の非凡な才に感服し、皇国無二の才として断然助命しようと各方面に説諭、
その熱心な助命嘆願活動により一命をとりとめ、東京丸の内辰の口の牢に投獄された。また、榎本には批判的だった
福澤諭吉も助命に尽力したひとりでもある。福澤は黒田から『海律全書』の翻訳を依頼されたが、一瞥した福澤は、
その任に当たるについては榎本の他にその資格なしとして辞退したと伝えられている。”

 1872年(明治5年)、榎本は特赦出獄し、その才能を買われて新政府に登用され、2年後には駐露特命全権公使
となりロシアに渡る。 1878年(明治11年)に帰国し、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権大使などを歴任して、
1885年(明治18年)の内閣制度の成立により初代逓信大臣(第1次伊藤内閣総理大臣、黒田内閣総理大臣)に
就任します。 能力を買われて、6つの内閣で逓信大臣を始め、文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任したのです。 
まあ、すごい人ですね。農業関係に造詣が深く、また地質学の側面から炭鉱を発見したり、現東京農大の設立に
尽力するなど教育面にも秀でた人なんですね。

 ところで、逓信省というのは、郵便や通信を管轄した中央官庁でありましたが、明治18年に内閣が発足した当時の
逓信省は、農商務省から駅逓局と管船局を、工部省から電信局と燈台局を承継したとあります。その後、
電気事業、鉄道運輸事業などを所管しますが、昭和21年に、新しく逓信省を再設置して、郵便・貯金・保険・
電信・電話の事業を所管することとなったのです。 そして、1949年(昭和24年)6月1日に逓信省を廃止して、
二省分離(郵電分離)により、郵政省電気通信省が新設されました。 電気通信省は1952年(昭和27年)に
日本電信電話公社(公共企業体)に改組され、その監督は郵政省が行うこととして、事業が拡大推進され、
1985年(昭和60年)に完全民営化されたのでした。

 話しが飛びましたが、第2代逓信大臣は、土佐藩士であった後藤象二郎なんですね。 幕末時代に、
公武合体派急先鋒として活躍し、また坂本龍馬とも親交が深く、山内容堂と共に大政奉還の建白書を提出した
人物ですね。 新政府では大阪府知事や参議、工部大輔などの要職に就きますが、征韓論争に敗れて板垣退助、
西郷隆盛らと共に下野することになります。その後、一旦実業界に転身して商社を設立したりしますが、
あまりうまく行かないまま、明治20年(1887年)に第2代逓信大臣に就任し、第2次伊藤内閣では農商務大臣などを
歴任します。

     後藤象二郎
        (ウイキペディアより)
 

 第3代逓信大臣は、先の函館戦争参謀で榎本と渡り合った黒田清隆です。 彼は、薩摩藩士で、薩閥の重鎮として
活躍し、伊藤博文の後を受けて第2代内閣総理大臣に就任し、その後第2次伊藤内閣の時に逓信大臣(第3代)に
なったのでした。
1900年(明治33年)に脳出血で、死去しますが、その時の葬儀委員長は榎本武揚であったそうです。

      黒田清隆
         (ウイキペディアより)
 

歴代の逓信大臣のうち、名前が顕著な人を挙げてみますと、

第11代、第16代  原敬、 

第18代、第20代 後藤新平、

第27代、第29代 犬養毅

第33代  小泉又次郎(小泉純一郎の祖父) 第56代で逓信省は廃止となります。



内容と合いませんが・・
 






 


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